第二章 僕はママになりたい

第1話 『好き』の形

 歩道を彩っていた、もみじや銀杏の葉がアスファルトを覆い、冬の訪れを予感させる頃。

 先輩との暮らしが始まって3ヶ月が経とうとしていた。


「やっぱり赤っぽい方がいいと思いますよ。スーツがダークカラーだから、ネクタイはこっちが……」


「そうか。じゃあ、そっちにする」


 ダークグレーのスーツを着込んだ先輩に、僕は赤いペイズリー柄のネクタイを結んであげる。


「うん。かっこいい! 似合いますよ」


 先輩は、週末子供との時間を作るため、土日や祝日休めない美容師を辞め、美容院に薬剤を卸すディーラーの営業兼コンサルタントとして再就職していた。

 ネクタイもろくに自分で結べない先輩に、僕は毎朝こうしてネクタイを選び、結んであげるのだ。

 このときだけが先輩にもっとも接近できる瞬間で、つまりは僕にとって、一番幸せな時間なのである。


 僕はというと、相変わらず二丁目のゲイバーミラノでバイトをしている。


「じゃあ、行って来る」


「ああ、ちょっと待って! ハンカチハンカチ」


 僕はアイロンをかけて、きちっと折り目を付けておいたハンカチを、アイロン台から取り上げ渡す。


「ありがとう」


 先輩は雑にポケットに突っ込み、革靴に足を押し込んでいる。


「ああ、ちょっと待って。傘! 今日、午後から雨降るって、天気予報で」


 僕は折り畳み傘を先輩に差し出す。


「あ、そうだ! お小遣い」

 傘を受け取った後、先輩がてのひらを上に向けて、こちらに突き出した。


「はいはい」と財布から1000円取り出し手に乗せる。


「少なっ! 今日同僚とランチ行くからもう2000円ちょうだい」


「同僚? 女ですか?」


「男だよ」


 僕は渋々、要求通りもう2000円を、先輩のてのひらに乗せた。

 カツアゲされているわけではない。金銭の管理もできないので先輩の全財産は僕が預かっているのだ。

 先輩は二つ折の財布にお金を仕舞った後、素っ気なく玄関のドアレバーに手をかけた。


「ああ、ちょっと待って……行ってらっしゃいの……キス」


 と唇を差し出してみる。


「ばかっ! するかよ」


 やっぱり。


 先輩との関係は、

 進展もしなければ後退もしない。僕は恋愛対象として、先輩に100%片思い状態で、先輩は後輩としての僕に100%片思いなんだと言う。


 形は違えど、 お互いに『好き』なのには変わりない。

 多くを望まなければ幸せに違いはない。

 そりゃあ、恋愛関係になれたら嬉しいが、これ以上の贅沢は、できるだけ望まないようにしている。このバランスが崩れた時、僕たちの関係は崩壊してしまうのだと思うから。


 とはいえ、先輩の恋愛対象は女性なわけで、いつか先輩は僕から離れて行くのだろうと思う。そういう運命なのだから仕方ない。


 僕は、当たり前じゃない毎日を、全力で楽しみ、大切にする。 


 さて、掃除。そして夕飯の買い出し。


 僕は、ベッドのシーツを替え、お日様が出ているうちにと、毛布をベランダの物干しに掛けて置く。

 風は日に日に冷たくなっていく。身震いしながら「そろそろ冬支度しなきゃ」と少し大きめの独り言を言った。


 掃除を済ませたら、夕飯の買い出しに出かける。


 近所の主婦に混ざって、何の抵抗もなく、スーパーのお買い得品を物色する。

 そんな時、僕はよく考える事がある。

 それは、異性愛者と同性愛者の男性は、そもそも脳の作りが違うという事だ。

 性的指向を左右しているのは、視床下部と言われる部分で、脳のほぼ真ん中の間脳という場所にあって、体温調節やホルモン分泌、摂食、性行動などを司っているんだそうだ。

 要は視床下部が性指向を決める場所という事だ。


 ここの一部分である前視床下部間質核は、異性を好きになる“異性愛男性”と、同性を好きになる“同性愛男性”では、そもそも大きさが異なっているのだそうだ。

 男性の方が女性よりも神経細胞の数が多く、大きさも2倍以上あるところ、同性愛男性の場合は、異性愛男性よりも小さく、女性とほぼ同じ大きさなのだと、いつかミチルが教えてくれた。


 僕が男性に甲斐甲斐しくお世話を焼いてしまうのも、男らしい先輩にときめいたりするのも、身の回りの事が全然できない先輩を放っておけないのも、この前視床下部間質核が女性並みだからなんだ。それは異常な事ではなくむしろ自然で当たり前の事だったという事実を知った時、僕はけっこう落ち込んだ。


 僕が僕であるというどうしようもない事実を付きつけられたのだ。


 もっとも、実際にMRI検査を受けたわけではないので、僕の前視床下部間質核が女性並みの大きさなのかどうかは分からない話だが、異性にときめかないのだから、きっとそうなのだろう。


 僕は、時々子供が無性に欲しくなる。

 種の存続を……という事ではなくて、単に自分と愛する人との間にできた子供はかわいいに違いないという俗っぽい思考に他ならない。


 スーパーでダダを捏ねている子供、ママからはぐれて泣いている子供、お菓子を手にドヤ顔の子供を見て頬が緩む。

 にぃっと笑った口元から覗く歯が虫歯だったりすると連れて帰って歯磨きしてあげたくなる。これはもしかしたら、いや絶対母性なんだ。


 僕には絶対訪れない幸せ。それが子を産み(作り)育てるという事。


 そんな事を考えていると、どこからともなく肉を焼くいい匂いが漂って来た。


「お兄さん、ステーキどうですか? お買い得よぉ」


 大きなホットプレートで肉を焼きながら一口大のこんがり焼けたステーキを爪楊枝に刺しおばちゃんが僕に差し出した。


「あ、ありがとうございます」


 口を開けた瞬間、羨ましそうに僕を見つめる5歳ぐらいの男の子と目が合った。

 僕は口を閉じた。


「お母さんと一緒にいらっしゃい」


 白い三角巾を被ったおばさんが大人の事情をかみ砕いて男の子に告げた。

 僕はその一切れのお肉を男の子の口元に差し出した。

 あーんと素直に口を開け、パクっと収めた。


「おいしい?」


「うん。おいしい!」


 と白い歯を輝かせにぃっと笑った。


「そっか」


 先輩の味覚もこの子と変わらないだろう。

 僕は目を泳がせているおばさんに笑顔で告げる。


「1パックください」


「あ、はいはい。ありがとねー」


 ◇


 僕の一日はあっと言う間に過ぎる。


 天気予報は見事に外れ、夕刻まで薄くかかった雲が雨を降らせる事はなかった。

 少し冷たくなった毛布をパタパタと払い取り込む。

 米を洗い、炊飯器のタイマーを19時に設定したその時、玄関が開いた。

 先輩が帰って来たのだが、今日は随分早い事に驚く。まだ時刻は5時だ。


「はやっ!! おかえ……り……なさい」


「ただいま」


 いつもより2時間も早い帰宅に驚く前に、もっと驚くべき事があった。

 先輩の手の先に、細長い指をぎゅっと握る小さな男の子。冬も間近だというのに、薄着で寒そうに震えている。


 不安そうな表情。頬には涙の跡。鼻水も少し垂れていた。


「もしかして……息子? ですか?」


「うん、そう。大変な事になった」



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