第7話 窮地

 ――Thursday


 香ばしいコーヒーの香りが脳を刺激して、視界がうっすら明るくなる。

 目覚めてすぐに、二日酔いを自覚した朝だった。ヘッドボードから腕時計を手繰り寄せて、文字盤に視線を落とすと、時刻は11時過ぎ。

 いつもなら、9時までには目が覚めるのに。なんかすごーく飲んで、すごーく酔っていたような気がした。

 先輩は僕の帰りを待っていたのか、ソファで眠っていたから、僕はベッドで眠った。


「おはよう。ようやく起きたな」


 先輩が白いコーヒーカップを差し出した。


「すいません。朝ごはん食べました?」


「いや、まだ」


 僕は急いでベッドから降りた。


「すぐ作りますね」


「いや、いいって。それよりお前、今日仕事休みって言ってたよな」


「はい。休みです」


「昼、軽く外で食べて、フットサル行かない?」


「二人で、ですか?」


「いや、サロンの仲間に誘われたんだ。ほら、今みんな暇してるから。それでさぁ一人足りないんだよ」


 そういえば急な閉店で、仕事がないのは先輩だけじゃない。お店のスタッフみんな暇を持て余してるというわけだ。僕は特に予定はないし、問題はないと判断した。

 そう。昨夜すっかり酒に呑まれていた僕は、この日、ミチルの誕生日だった事をうっかり忘れてしまっていたのだ。デートの約束をした事さえも――。


「いいですよ」

 と、軽く了解して、いそいそと準備に取り掛かった。久々の先輩とのプレイにわくわくしていた。


 先輩の提案通り、朝と昼を兼ねた食事を、ファーストフード店で軽く済ませ、新宿駅からほど近い、ビルの屋上にあるフットサルコートに出かけた。


 久々の芝。陽光に反射する緑が眩しく、心が躍り出す。白と黒の4号球は、先輩の足元で、命を宿したかのように弾かれた。宙に浮いたボールを膝で、ヒールで、頭で浮かし、安定感たっぷりに操る姿に、甘酸っぱい感情がさらに強くなる。

 心臓が躍った。


「さすが! 全然衰えてないですね」


 靴ひもを結び終わった僕に向かって、先輩は高めのボールを蹴り上げた。

 僕は胸でトラップし、地面に落とさず、ワンタッチで先輩に返す。


 先輩はヘディングで、ダイレクトに返した。


 僕はそれをヘディングで返す。


 サッカーは、のめり込めばのめり込むほど、上手くなれた。練習すればするほど、ボールを自由にコントロールできるようになった。けど、恋はどんなに努力をしても上手くいくはずもない。コントロールすらままならない。ましてゴールなんて……。上達したのは、気持ちと性的志向を隠す術だけだ。


 先輩は胸でトラップしたボールを足元に収め、眩しそうな顔で遠くを見た。僕の肩を通り越し、向こう側に視線を移して、大人びた笑顔を湛える。そこには、僕の知らない先輩がいた。


 つられて僕も、そちらを振り返って、思わず後ずさった。


「こんにちはー」「お疲れ様でーす」「陽人さーん」「天気いいですねぇ、暑―い」

 色に例えると、黄色やオレンジ。そんな声色が飛んできた。


 そう言えば、どんな人たちが来るのかは、何も聞いていなかった。

 初対面でも名前さえ覚えれば、プレイに支障はないと思っていたから、特に気に掛けなかったのだ。

 驚く事に、現れた4人のメンバーは、みんな女子だった。

 そういえば、先輩は美容師だから、男人口より女人口が多い職業なのだ。フットサルとはいえ、こういう状況が起こりうるわけだ。


 体育会系というよりは、美容師さんらしいおしゃれな感じで、笑顔が弾けていた。

 スポーツウェアも、なんだか花がありおしゃれだ。

 そして僕は俯く。どうしよう、断ればよかった。


「初めましてぇ」と挨拶され、「あ、どうも。こんにちは」と軽く頭を下げる。


「すいません。私達初心者で、迷惑かけちゃうかもしれませんけど、よろしくお願いします」


 赤茶のポニーテールと、たわわな胸を揺らしながら、アイドルのようにかわいらしい女の子が、こちらに歩いて来た。

 これがナミちゃんとの出逢いだった。


「俺とナツが分かれて、みんな適当に2人ずつ分けよう」

 その声に操られるように円陣を作り、先輩主導でザックリと、チーム分けがなされた。

 女子4人は、社会人になってからフットサルを始めたらしい。

 店休日なんかに、週1、ここでフットサルをやっていたんだとか。

 こんなに近くにいて、よく今まで会わなかったなと不思議な気持ちになった。

 これが東京だ。近いようで遠い、狭いようで広い町。

 僕のチームは巨乳のナミちゃんと、もう一人。金髪のショートヘアでスレンダーで、ボーイッシュな感じの子だった。名前は確か……リサちゃん。


 リサちゃんはなかなか上手い。パスもトラップも割と正確で、判断も早い。

 社会人になってから始めたとは思えないほどだった。

 一方、ナミちゃんは、ドンマイと言う優しい掛け声を、独り占めするようなドジっ子で、そこがまた可愛かった。

 ここで言う可愛かったと言うのは、あくまでも子犬とか子猫と同じレベルで、決してときめいていたわけではない。

 それでも僕は、ナミちゃんのお陰で、自然と笑顔で、女の子達と普通にフットサルを楽しんだ。


 ベンチで水分補給をしている僕の所に、ナミちゃんがやって来た。太陽に反射しているせいで瞳がゆらゆらしている。


「ナツさん、サッカー上手いですね。今度教えてください。連絡先交換しませんか?」と隣に座った。

 その距離感に戸惑う。正直、嫌いではないが苦手なタイプだった。


 どうしようか迷ったが、先輩の顔を潰してはいけないんじゃないかと気を使い、「いいですよ」と、ベンチにかけていたリュックから、携帯を取り出した。連絡先ぐらいなら……と軽い気持ちだった。


「お仕事、何してるんですか?」

 苦手な質問だ。この手の女の子は割と配慮なく、人のパーソナルに触れようとしてくる。もっとも、このとき僕は、彼女の事をいい子だと思い込もうとしていた。


「飲み屋で働いてます。学生の時のアルバイトの延長で」と答えると次の質問はこうなる。

「どこですか? 今度行ってもいいですか?」


 二丁目のゲイバーです。でもゲイオンリーのお店なのでストレートの人は入店できないんですよ。働いている人もお客も、みんなゲイで……。って言うわけにはいかないんだよ。


「あはは。えっと、その店辞めるかもしれないんで、次のとこ決まったら教えますね」

 と、ペットボトルのスポーツドリンクを、喉に流し込んだ。


「はい。お願いします! で、今夜飲みに行きませんか? 陽人さんも一緒に、みんなで」


「あ、ああ、僕は……」いいや、と言おうとして先輩の声が飛んで来た。


「お前、彼女も呼んだら?」


 呼べるわけない!


「いや、彼女は……、その……別れちゃいました」


 咄嗟に、そんな嘘を吐いてしまい、どこまでも青い空をしかめっ面で見上げ、吹き出す汗を拭った。

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