第十話・振り返る(其の七)

「すみません。ここからは、最近の話になります。思い出そうとしても靄がかかったみたいに何も出てこないんです。在宅の仕事を始めてから、機嫌が良かった日が増えていたようには思うんですが」

 私は、電話でも話していたけど、やはり思い出せない事を告げた。

「いいのよ、無理はよくないんだから。確か、ここに来ようと思ったきっかけが、あったのよね」

 私は頷いた。

「生理が来なくなって、妊娠したのかと不安になったんです。春哉と同棲し始めた頃は、いずれは結婚して二人の子どもが欲しいって考えたこともあったんです。でも、私は、春哉との子がもし産まれたとしても、愛する自信がなくて、そんな自分がイヤでした。産婦人科に行くと、ストレスか何かで、生理不順になってるだけだとわかりました。肌もボロボロで、うつむいて歩く事ばかりで、私は生きていくのに疲れたなと。死を意識し始めてしまってました」

 現実が辛すぎて逃げたいのに、逃げる場所、帰る場所がない。

 安心できる場所は、栞里と居るその時間だけに限られていた。

「死にたい。そればかり、考えていて、在宅の仕事の納期もきつくなってました。ある日、一人で携帯だけ持って、死に場所を探してました。海に向かう途中、少しだけ雨が降ってきたんです。濡れてしまうけど、どうせ死ぬんだからいいかなと、そのまま歩いていたら、通り雨だったみたいで、やんだんです。それでも濡れたまま歩いていたら、周りの人が足を止めて空を見上げてるんです。きれいだねーって。なんだろうと顔を上げたら、虹がかかってました。すごく、大きな虹が」

 一気に話しながら、私は涙を流していた。あの時の事を思い出したから。

「すごく、きれいだと、心から思えたんです。周りの景色、自然を見る余裕なんて、ずっと忘れていたんだと、気付きました。空の青、白い雲、大きな虹、道端に咲く小さな花、それを見てる人の笑顔。なんて、素晴らしいんだ、って。携帯で、そのとき見たものすべて、撮りました。キラキラして見えました。まだ、死ななくて良いかも、もっといろんな風景がみたい、知りたい、と」

 その写真を見せるには、古い携帯の電源をいれなきゃいけない。鈴木さんに見てもらいたかったけど、それは今じゃなくても良いと思い直した。

「景色を見る余裕、素敵な言葉だと思う。日々の暮らしに追われていたら、ふと、足を止めることを忘れてしまうものだから。それは、たぶん、誰でもそうだと思うの。あなたは、それに気付けた。良かったわ」

「はい。それからは、栞里が明後日の会を見つけてくれて、ここに」

 

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