第九話・振り返る(其の六)

「毎日、張り詰めていたのね」

 夏になってからどうしていたのか、思い出そうとしても何もでてこない。記憶が抜けているのが分かった。

「この後の夏、何かあった気がしたんですが、わからないです」

「そう……。思い出せるところからで大丈夫よ。まとめ直す時にそれは書いておくから。無理に思い出さなくていいわ」

 鈴木さんは、時系列の文章の横に、西暦と季節を書き足していた。

 私は思い出せるところからを話そうと、記憶を遡る。

「いつの出来事か、わからないです。私は、家にずっと居るより、少しでも外で働きたいと、伝えた事がありました。最初は、そんな必要ないと言われて、諦めようとしました」 

「健康保険や国民年金とか、どうしていたの?」

「国保の支払いは、春哉がしてくれてました。年金は、免除申請していたように思います。そういうのがあったから、私は春哉に負い目みたいなのがあったのかもしれません」

 働きに行くようになれば、私の人間関係を束縛するようになる。また、暴力が始まるかもしれない。それで、息が詰まっていた。

 限界が来ていた。そんな時期。

「九年近く、春哉と居たんですね」

 私は、しみじみと、口にした。

 空白の時期が、ところどころある。思い出したくないんだろう。

「在宅の仕事を、栞里が探してくれたんです。家にパソコンあったので、それを使って出来るからって。メリハリがあれば、心療内科も行かなくなるかもしれないとか、栞里がいろいろ助け舟だしてくれたから、許してくれました」

 仕事しながら、ニュースをネットで見るようになったり、調べ物をするようになった。そこで、“DV防止法”という法律があるのを知った。

「パソコンでの在宅の仕事をしていなかったら、栞里に相談してこちらに逃げるなんて、考えなかったと思います」


  ✳  ✳  ✳


 抜けていた記憶は、その後の生活の中で少しずつ思い出せていた。

 最初に住んでたシェルターから引っ越しができた。小さなアパートで、本当の新生活を迎えられたのは、鈴木さん達のおかげだった。

 少しだけ、外の風は落ち着いているように思えたけれど、雨は相変わらず。窓を強く叩く雨は、あの街での出会いを思い出す記憶へのノックのようだった。



 

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