貝殻のイリデッセンス

十余一

貝殻のイリデッセンス

 知っているのはこの空だけ。四角く切り取られた青空がモザイクタイルの壁に浮かんでいる。それを私は来る日も来る日も、猫足バスタブの中から見上げていた。白く煙る夏空、鱗雲うろこぐもが泳ぐ秋空、寒々しい灰色の冬空。そして今は、柔らかな陽射しが差し込む春の空をぼんやりと眺めている。

 小鳥のさえずりすら聞こえない静かな空間に、突然、よく通る声が飛んできた。


「ただいま!」


 声色と足音に喜びがにじみ出ている。声の主は足早に私の元へ来ると、いつものように荷を広げ始めた。大粒の真珠が幾重にも連なるネックレス、銀河を閉じ込めたようなリップグロス、幻想的なマロウブルーの花茶、桃色のチューリップ。全て私への贈り物だ。

 このバスルームは贈り物で溢れている。私を飾る真珠のかんざしも、螺鈿らでん細工のジュエリーボックスも、その中に仕舞われている鼈甲べっこうのブレスレットも、流氷のように美しい一輪挿しも、アンティークの置時計も、無駄に豪奢なバスタブも、何もかも。私が欲しいと言えば、男は何でも用意した。


「そうだ、新鮮な真鯛も捕ってきたんだよ」

「へぇ、そうなの」


 さしたる興味も示さない私の態度に気分を害することもなく、男はまた純粋な微笑みを浮かべてのたまう。日に焼けた浅黒い肌に渦潮のような髪の、見るだけで海を思わせる男だ。


「先日、鯛が欲しいと言っていただろう」

「そうだったかしら。もう鯛の気分じゃなくなっちゃったわ」

「そっか……、うん。いいよいいよ、じゃあ何が欲しい? 何でも探して持ってくるよ」

「……、栄螺さざえ。花も。チューリップは嫌、別のにして」


 素っ気なく言い放つ私の言葉に沈むのは、ほんの少しの間だけ。またすぐに二つ返事で出かけて行く。


 どうせ他の男たちと同じように、私の歌声に魅了されただけのくせに。私の我儘わがままに付き合いきれなくなって憔悴しょうすいするでもなく、逆上して手を上げることもない。

 ただ、にこにこと笑ってかしずき、まるで心の底から望んでいるかのように私の機嫌を取る。細められた瞳の奥に七色の喜びをたたえて。その輝きは貝殻のイリデッセンスかオパールの遊色か。私の願いを反射して虹となる。その煌めきは私を捉えて離さない。


 私はずっと、破滅していく男共を見てせせら笑っているつもりで、実のところ愛というものを試していたのかもしれない。


 私は何処へだって泳いて行けるはずなのに、この男の元から離れられない。この気持ちと向き合うのは、どうしようもなく心がかき乱されて怖い。

 いっそ泡になって消えてしまえたらいいのに。バスタブの中で揺らめく薄荷はっか色のうろこは、窓から差し込む光に照らされて存在を主張していた。私は尾鰭おひれをちゃぷんと遊ばせて彼の帰りを待ち望む。



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