月の満ち欠け

田吾作Bが現れた

ある話

 片道3時間の船旅はようやく幕が下りた。他の車に続いて港を出ようとしていた今谷であったが、それは牛歩もいいところであった。中々に赤信号が切り替わらず、また青に変わってもすぐに戻ってしまう。


 勘弁してほしいと思いながらもハンドルを握りつつ、助手席にいた吉村の方に今谷は視線を向ける。


「どうしたの」


「いや、何でもないです」


 普段は嫌と言う程口が回るこの同僚も今は鳴りを潜めている。上司であってもぴしゃりと己の意見を通そうとし、また自分達においても容赦なく持論を展開してくる口やかましい女であった。その彼女は今、ただぼうっとガラス越しに海を眺めているだけであった。


「もうすぐ港を出ますが」


「そう……」


 やはりこの前のことが尾を引いているようだと今谷は思う。この吉村みどりはほんの数日前、男にフラれたのだ。夢を語るバンドマンだったと今谷は聞いている。


 残業を終えて退社後、連日の仕事疲れで軽くやさぐれていた時にそのバンドマンの男の路上ライブを聞いてほれ込んだんだとのこと。そこから『彼は売れる』と考えて路上ライブに足繫く通い、遂には彼の住んでいるアパートの合鍵まで渡されるまでに至ったそうだ。


 だがその愛しの彼は三股していたようで、吉村が普段来ない日に女を連れ込んでいたらしい。


 サプライズと称して普段来ない日に彼の家を訪れていたらの最中だったと彼女の口から今谷は聞いた。しかもそこで彼に詰め寄ったら三人目の女の名前も出て吉村がキレてしまい、合鍵を玄関の土間に叩きつけて逃げかえって来たそうだ。


「……ありがとう、今谷君」


「いや、別に」


 その後珍しく通夜のような沈痛な空気を職場で出していたため、調子が狂った同僚や上司に『頼むからお前がなんとかしてくれ』と頼まれたのだ。要はスケープゴートとなったのである。


 とはいえ普段からズバズバ言う奴がだんまりなのもやり辛くあったのは事実であった。そこで頼まれたのもあって声をかけたのである。


 そうして今谷は自家用車を走らせる。目的地はよく彼が湯治に利用する旅館だ。オフシーズンの山奥に向かっているということもあってか対向車もあまり見かけない。


「すまないわね、私に付き合ってもらって」


「いえ。こちらとしても静かな貴方を見てると調子が狂うので」


 自嘲するように言ってきた吉村に今谷が返事をすれば、少し疲れた様子で「なにそれ」と漏らす。車のエンジン音だけがしばらく続いた。


――――――――


 付き合っている風に旅館側に思われるのもお互い嫌であったため、時間差でチェックインを果たした二人は現在別々の部屋にいる。今谷は従業員が運んできた食事に箸をつけながら吉村はどうしているだろうかとふと考える。


(よく同僚なだけの男の誘いに乗ってくれたものだ)


 余程心の傷が深かったのだろう。昼飯時に吉村の身に起きた経緯を聞いた後、「どこか人気のないところに行きたい」と彼女は頼みこんできたのだ。それもあまり関わりのない単なる同僚などにである。


 もちろん場所だけ教えて終わりというのも今谷は考えなくは無かったが、当時の彼女の生気の無い表情を見て良心が痛んだのだ。それで終わりでいいのか、と。


(ここで同行を申し出てきたというのは心底意外だったな)


 いくら傷心中でも無防備過ぎないか。そう今谷は思ったものの、下手にハンドルを握らせてはまずいと思う程度には落ち込んでいたし、それにこの旅館は直通のバスも無いのだ。個人経営な上にちょっと外れたところにあることをあの時ほど恨みたくなった時は無かったと今谷は回想する。


「……終わってしまったな」


 普段は中々に美味いと思えた料理もあまり楽しめずに終わり、さてどうしたものかと今谷は天井を見上げる。


 チェックインを済ませてすぐに名物の露天風呂に入って体を休めた。スマホをいじるにしてもここは電波環境は悪いし、わずらわしさを感じないでいられるこの宿を彼は気に入っている。やることが無いことにため息を吐きつつ、ならばせめて酒でも飲みながらテレビでも見ようかと旅館備え付けの自販機へと向かう。


「あっ」


「あ」


 やや年季の入った自販機の取り出し口から缶ビールを手に取って戻ろうとすると、今谷は吉村と出くわしてしまった。彼女もまた似たようなクチだったらしい。


「……ねぇ、ちょっと話につきあってくれない?」


 同じ500mlのものを買った吉村からの提案に今谷は驚くも、別に断る理由もないかと彼はうなずく。そうして入口脇にある狭いロビーへ向かうと、人気が無いことを確認してから二人は黙って缶を開けた。


「私ね、本気だったんだ」


 少しだけうつむきながら吉村は語り出す。なんてことはない。いつぞやのランチタイムの焼き直しだ。けれども少しは心の整理がついていたのか、今は涙声ではなかった。


「心に響いたのよ。あの曲が」


「そうですか」


「彼の歌う姿が。彼だったらやれると思った。きっと売れると思ったのよ」


「そうなんですね」


 けれどもそこにあったのは浅はかだった自分への侮蔑、どうして彼に惹かれてしまったのかという己へのあざけりが込められていた。今谷はただそれにうなずき、あいづちを返すだけ。ここで口をはさむほど野暮にはなれなかったからだ。


「彼とそういう関係だって持とうとしてた。結局未遂だったけどね」


「……そうなんで」


「彼、言ってたわ。『口やかましい女に財布以上の役割は求めてない』って」


 流石に口やかましいことに関しては下手なことを言わない方がいいだろうと考えてだんまりを決め込んだが。缶を傾けてビールを煽ると、吉村もそれに負けじと傾けて中身を飲み干す。お互い息が酒臭くなったところで二人は向き合った。


「……私、馬鹿だったんでしょうか」


「馬鹿になったっていいんじゃないですか」


 少しの自嘲と哀れみを求めて吐いた吉村の言葉に今谷はただそう答える。少し予想外の答えにほんのわずかな間だけ目を丸くした吉村だったが、ほんのわずかに残ったビールを口に含みながら今谷はその真意を語る。


「ずっと賢いままでいたら、息が詰まりますよ。苦しいですよ。貴方にとってそうでいられたのは一人の時以外だとそのバンドマンの彼の前だけだったんでしょう」


 そう述べた今谷は自分が少し酔っぱらってるとほんのりと自覚する。特に親しくも無いただの同僚にこんな説教じみたことをするなんて、と考えるとそのまま席を立った。


「……すいません。酒を買って部屋に戻ります。今のは忘れて下さい」


 そして今谷は軽く足をもつれさせながら部屋に戻っていくのを吉村はただじっと見る。そして持っていた空き缶に一度目を落とし、窓の外の三日月に視線を向けた。


(彼と会った時も三日月が浮かんでたっけ。もう何日かすると半月になる)


 就職していつやるようになったかは忘れたものの、吉村翠はよく月や星を見る癖がついた。ただ見上げてぼうっとすることで仕事のストレスが消えるような気がするのだ。美しい星のまたたきに、日々変わりながらもまた戻る月に癒される気がして彼女はよく見ていたのだ。


 あのバンドマンの彼に出会ったのもこんな三日月の日であった。徐々に満月へと至ろうとしていた時に彼の歌を聞き、吉村はとりこになったのである。


(もうあいつはどうでもいい。あんな三股男のことを考えるよりもこれからもっと有意義に時間を使う方がよっぽどいいわ)


 しかしもう未練もない。今谷がこうして連れ出し、自分の話を聞いてくれたことでどうにか前を向くことが出来た。そのことに感謝しつつも新月へ至ろうとするそれをしばし見つめると、そのまま自販機の方へと少しふらついた足取りで向かう。


(部屋で寝るまで見上げていよう。きっと今日は早く寝つけるかもしれない)


 新たな缶を手に持って吉村は自室へと戻る。その足取りはほんのわずかに軽くなっていた。


――――――――


「――それでアイツ、『俺が売れないのはまだ力が足りてないせいだ』って言ったクセに練習もほどほどにしかやらないし、『お前と過ごす時間が一番だ』なんて甘ったるいこと言って」


「あぁ、はいはい」


「それに浮かれてた私にだって責任はあるけれど、だからって私が部屋に来てない時にやってた〇INEの返信の速さも尋常じゃないし。本当にやる気あるのかって何度も聞いたんだけれど――」


 帰りの車内は中々に騒々しかった。無論今谷の隣にいる吉村のせいである。


 何か言ってたようなというおぼろげな記憶はあったものの、何を言ったかまでは今谷は覚えていない。粗相のないものであればいいのだが、彼女のリアクションからしてどうやらそういうものではなかったようだ。現にあのやかましさの6割が戻っているのだから。


「ねぇ、今谷さん。ちょっと質問があるんだけれど」


「なんです、吉村さん」


「別に大したことじゃないわ。ほんの少し、ちょっとした質問よ」


 カーフェリーが港に着くまであと数分。既に港の駐車場で待ちぼうけをしていたところで質問を投げかけられた今谷は少しうんざりしながらもそれに答えようとした。


「なんでもどうぞ」


「何よ、ノリ悪いわね。ま、いいわ。それでね、この後のことなんだけど」


「この後? 一体何をするんで?」


 まだしばらく続く話し相手になってくれと頼みにきたのだろうか。既に軽くげんなりしながらも努めて冷静に問い返せば、吉村は目を細めながら今谷を見つめていた。


「そう、この後。もし良かったら後で一緒に飲みに出かけないかしら」


 もちろん車はそっちの家に戻した後でね、と付け加えながら述べた言葉に今谷は思わずため息を吐きたくなった。流石にもうこれ以上つきあいきれるだろうかと不安に襲われたのだ。


「もう少し話に付き合ってほしいの。そうしたらそっちに対して少しは優しくしようかな、って思うわ」


 しかし向こうはどうやら自分の様子に気づくことなく交換条件を持ち出してきた。一応向こうもこちらに対して当たりがキツいという自覚はあったようである。そうしてずい、と軽く身を乗り出しながらニマニマとどこか肉食動物のような笑みを浮かべて吉村は彼に迫る。


「どっちがいいと思う?」


 悪魔のような問いかけに思わず今谷はため息を吐く。彼が答えると同時に船が港に着いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の満ち欠け 田吾作Bが現れた @tagosakudon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ