第一の鑑定  血の涙を流す少女の肖像 1-2

「ああ、雪緒くぅーん。布団返してよ~。寒いよ~」

 大の男とは思えない間抜けな声だった。雪緒は掛け布団を部屋の隅に放り投げ、足元にある物体を見下ろす。

「先生、起きてください! 昨日はずっと寝っぱなしだったんですから。今日ぐらいは起きて、絵筆を握らないと」

「厭だ、眠い。絵はまた今度……」

 目の前の長身はむにゃむにゃしながら再び猫のように丸くなる。

 雪緒はとうとう痺れを切らし、布団と同化しかけているその塊を思い切り蹴っ飛ばした。

「いい加減にしてください! 画家が絵を描かないでどうするんですか!」

 布団の主こと、中津川一臣なかつがわかずおみは画家である。

 画家と言ってもいろいろあるが、専門は油彩。つまりは洋画家。

 雪緒はその中津川の一番弟子だ。一番と言っても、弟子は雪緒一人しかいないのだが……。

「分かった、起きるよ」

 中津川はようやく身体を起こすと、ぼさぼさの癖っ毛を片手でわしゃわしゃと掻きまわした。

「しゃんとしてください先生。朝ご飯できてますよ」

 雪緒がそう言うと、中津川はこれ見よがしに自分の腰のあたりに手をやった。先ほど雪緒の蹴りが入った場所だ。

「雪緒くん。きみ女の子なんだから、もっと優しく起こしてよ」

「女の子じゃありません!」

 毅然と答えて、雪緒は胸をとんと叩いた。そこはさらしできつく締め上げてあり、ほぼ真っ平らになっている。

「ぼくは先生の前では男になると決めてるんですから!」

 少し前まで、雪緒は華やかな着物を纏い、長い髪を束髪に結った普通の少女だった。

 十六歳の少女の運命ががらりと変わったのは、半年ほど前のことだ。

 その日、雪緒は銀座の片隅で中津川の描く西洋画を見かけた。一目見て、その絵の魅力に取り憑かれた。

 まさしく『取り憑かれた』という表現がぴったりだ。

 ……あんな絵を自分でも描きたい。そう思ったらいてもたってもいられなくなり、雪緒はその場で住み込みの弟子にしてくれるように頼んだ。

 当たり前だが、その申し出に中津川は渋い顔をして言った。

 ――絵の世界は修羅の道だよ。きみみたいな小柄な女の子が生きていくのは難しいかもしれない。それでも、着いてくるかい?

 中津川の言うことはもっともだった。

 だが、雪緒は絵が描きたかった。画布いっぱいに広がる西洋画の世界に、どうしても飛び込んでみたかったのだ。

 中津川を説得するために……そしてそれまでの自分を捨て、絵の道に邁進する意思を示すために、雪緒はその場で長い髪を切り落として見せた。

 弟子入りはこうして認められ、雪緒は中津川の自宅兼工房アトリエに住み込んで師匠の身の回りの世話をすることになった。

 以来、中津川には男として扱うように言ってあり、人目があるところでは『弟子の雪緒少年』としてふるまっている。自分の呼称も『ぼく』に変えた。

「いつも言ってますけど、ぼくのことは男だと思ってください。ご近所の目もあるんですから。弟子とはいえ、女の子と一緒に暮らしてるなんてことがばれたら、先生の名誉にも関わります」

 中津川は、本人の申告によると今年で三十二歳になるという。

 その年までずっと独身で、雪緒が押しかけてくるまでは現在の長屋で十年近く一人暮らしをしていたらしい。

 弟子と師匠の関係とはいえ、独り身の男女が一つ屋根の下で過ごすとなれば、本人たちの思惑を超えた無責任な噂が広まるものである。雪緒が男のふりをするのはそれを防ぐためでもあった。

「はいはい、分かってるよ。雪緒くんは朝から煩いなぁ。ふぁー……」

 さらしで巻いた胸をぴんと張る雪緒とは対照的に、中津川はふにゃふにゃと身体を揺らして欠伸をした。何だかとても眠そうだ。

「まだ眠いんですか? 先生は昨日、ずっと昼寝をしてましたよね?」

 一番弟子の雪緒から見て、師匠の描く絵は素晴らしい。それは認める。

 だが、中津川は遅筆で気分屋な画家だった。基本的に描きたい時にしか描かない。ここ数日は特に、画布も雪緒への指導もほっぽりだして、春の陽気に任せて布団と戯れているばかりだ。部屋の奥に立てかけてある海の絵も、いまだに完成しない。

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