帝都怪奇鑑定―不幸な男装令嬢と怠惰な画家

相沢泉見

第一の鑑定  血の涙を流す少女の肖像 1-1




 つぎはぎだらけの障子から朝の光が零れて、瞼を撫でる。

 井上雪緒いのうえゆきおは目をぱちりと開けて、素早く煎餅布団の上に身を起こした。

 うーんと思いきり伸びをしたあと、えいっと立ち上がって寝間着がわりの浴衣を脱ぎ捨てる。

 露になった胸には、ささやかで滑らかなふくらみがあった。

 ちょっと小さいかな……。

 断じて胸だけを見てそう思ったのではない。十六歳という年齢の割に、胸を含めて全体的に身体が小柄なのが雪緒の悩みだった。

 寝て起きたら少しは成長しているかと期待していたのだが、昨日とちっとも変わらない自分の身体を見下ろして溜息を吐く。

 ぼやぼやしている時間はそこまでだった。ひんやりとした空気が背中を撫で、溜息がくしゃみに変わる。

 ――明治三十九年、四月。帝都東京。

 もう桜が咲いているとはいえ、朝はまだ少し寒い。

 雪緒はまず真っ白なさらしを手に取ると、それを胸から腹にかけてきつく巻いた。その上に襦袢を身に着け、白地に井桁模様が入った絣の着物を素早く羽織る。

 下には紺色の小倉袴を穿いた。最後に短い髪を撫でつけて寝癖を直し、身支度は終了だ。

 散切り頭に地味な着物。華奢な身体つきは誤魔化せないが、立ち姿は男そのものである。

 こうして雪緒は毎朝、十六歳の少女から、十三歳の少年へと変身する。


 へっついに仕掛けた羽釜から、飯の炊き上がるいい匂いがしてきた。隣の鍋では味噌汁が湯気を立てている。

 汁を小皿にとって味見をし、一つ頷いてから雪緒は後ろを向いた。

「先生ー、中津川なかつがわ先生ー! 朝ですよ、起きてくださーい!」

 奥にある部屋に向かって大声で呼びかけたが、返事は全くなかった。それどころか物音一つしない。やれやれと顔を顰めながら、雪緒は土間を上がり板の間を越えて、奥の部屋の障子に手を掛ける。

「先生! 起きてくださいってば!」

 がらっと障子を開けた先は、畳敷きの六畳間だ。

 ――わぁ、海だ!

 雪緒は一瞬、自分が本当に海辺に立っているのかと錯覚した。散らかった六畳間を大海原と勘違いさせたもの。それは、部屋の奥に立てかけてある画布カンバスである。

 縦も横も雪緒の肩幅と変わらないくらいの大きさの画布いっぱいに、波しぶきの散る海が描いてあった。

 ただの絵なのに、波がうねり、雲が流れているように見える。そのままでいるとやがて潮の匂いさえ漂ってきそうだ。眺めているだけで圧倒されてしまうほど、それは海そのものだった。

「うー……ん」

 しばし我を忘れていた雪緒を現実に引き戻したのは、情けない呻き声。

 海の絵から目線を移すと、散らかった部屋の真ん中で布団がもぞもぞと動いていた。雪緒は容赦なくその布団を引きはがす。

 途端、布団の『中味』は長身痩躯を寒そうに丸めた。なぜか、一抱えほどもある大きな『壺』を抱えて。

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