順番

真花

順番

 染谷そめやさんが死んだ。両脚は棒のように細くて、まるで最初から筋肉なんてものが付いてなかったかのようで、菊池きくちは触れることが出来なかった。先輩の伊藤いとうの音頭に従って、先生を呼んだり、死亡確認が終わったら色々の処理とか片付けとかをする。菊池もてきぱきと動いた。ものの数時間で染谷さんの部屋は空っぽになった。家族に挨拶と、今後の葬式などのために動いてもらうことを確認したら、染谷さんとの関係はそこで終わりになった。

 皆がステーションと呼ぶ、施設の詰め所に菊池が戻ると、伊藤が近付いて来た。

「お疲れ様。長かったね、染谷さん」

 菊池は糸を切ったように体に疲労が溢れるのを感じた。

「僕が担当してから二年です」

「いい看取りになったんじゃないかな。本人は分からなかったかも知れないけど」

「分かっていたのかも知れません」

 伊藤は、クッと笑って、そうだね、と向こうへ行く。菊池は大きく息を吸って、息が大切なものを絡めてから出て来るみたいに、ゆっくりと吐き出した。二年前――


 菊池が入職して研修が終わり、W棟に配属になった。担当する利用者と最初のコンタクトをする、その一人目。

「こんにちは。今日から担当させて頂く菊池です」

 車椅子に腰掛けた女性の情報は予め読んで来てある。染谷由佳子ゆかこ、八十七歳。元々はコールガールだったが、四十歳頃から小さな飲み屋を経営していた。子供は二人。髪の毛が真っ白だけど豊かで、細身。

「ああ、菊池さん。お久しぶり」

 菊池は笑顔を作る。

「これからよろしくお願いします」

「またお店に来てね」

 菊池は曖昧に頷いてその場を去り、あと三人の担当利用者のところを回る。誰もが菊池をよく認識しない。この職業に就く以上は分かっていたことだが、まるで全員に無視されたかのような寂寞感が菊池の胸に残った。

 次の日、担当ではない利用者が死亡した。本物の人間の死に触れたことは自分の祖父母のときだけだった。菊池は沸いた興味に逆らわずに手伝いをしながら死を間近で見学した。関わったことのない利用者だったせいなのか、そこに横たわっている死はひどく乾燥した、無機質なものに見えた。スタッフの誰も泣いていなかったし、ショックを受けている様子もなく、淡々と処理が成されていった。ここに入れた家族は泣くのだろうか。胸に湧いた疑問を口に出来る筈もなく、その日を終えた。

 菊池の担当ではない利用者はときに死亡した。死んだ後の部屋に次の利用者が入る。施設は満ちていた。記憶する能力を失って、いずれ死ぬことを待っている。そう言う老人でいっぱいだった。

「染谷さん、こんにちは」

「ああ、初めまして」

「調子は大丈夫ですか?」

「ええ。今度お店にもいらしてね」

 それは。

「染谷さん、こんにちは」

「ああ、初めまして」

「調子は大丈夫ですか?」

「ええ。今度お店にもいらしてね」

 もしかしたら。

「染谷さん、こんにちは」

「ああ、初めまして」

「調子は大丈夫ですか?」

「ええ。今度お店にもいらしてね」

 徒労かも知れない。

 伊藤に夕食に行こうと言われたのは入職から一年が過ぎた頃だった。居酒屋で横並びに座った。伊藤は神妙な顔をしてから、言葉を選ぶような間の後に口を開いた。

「最近、疲れてないか?」

「いえ。そんなことはないです」

「思い過ごしならいいんだけど、顔付きが厳しく見えるんだよ。何かないか? 言えないことは言わなくてもいい」

 菊池は言われて初めて、自分の中にしこりのようなものが生まれていることに気付いた。それに手を触れて、吟味する。

「僕達のやっていることって、生かすことなんでしょうか、死なすことなんでしょうか」

「残念ながら、緩慢に死に導く仕事だよ」

「それでいいんですかね」

「必要悪。もしくは、汚れ仕事。その分の給料だよ」

「担当の利用者さんはみんな徐々に弱っていっています。それが病気のせいなのか、年齢のせいなのか、僕のせいなのかが分からない」

 伊藤は大きく息を吐く。

「分からないから救われるんだよ。家族がそれを目の当たりにしなくていいし、家族の人生が圧迫されないで済む。まぁ、金でそれを買っている訳だ。例えば、こう考えると楽になる……」

 菊池は伊藤の瞳を覗く。伊藤は十分に引き付けてから言葉を発する。

「順番だ。俺達もずっと後の順番で、同じように施設に突っ込まれて、死ぬんだよ。明日は我が身と考えれば、グッと楽になる」

 菊池は急に未来を手元に引き寄せられたような感覚にめまいを覚えた。

「僕も同じ未来」

「そうだ。俺もだ」

 それから菊池は自分のしていることをより客観的に見るようになった。老人達が生きる手助けをしながら、生きる能力を徐々に削っている、特に筋力。家族が面会で利用者にかける声にどれだけの本音が含まれているかを測る。誰にも必要とされていない人が、ここには入っている。未来なんてない。あるのはどこかのタイミングでの死だけだ。

「僕がこの仕事をする意義なんてあるのだろうか」

 入ったトイレで壁に向かって呟いた。必要悪なら誰かがすればいい。僕じゃなくて。

 その顔のままトイレから出たら染谷さんが車椅子に座っていた。

「こんにちは、染谷さん」

「ひどい顔ね。仕事で嫌なことでもあったの?」

 菊池は目を瞬かせる。染谷さんがまるで全てを本当は最初から分かっていたみたいに笑う。

「どんな仕事も、意味があるからあるのよ。プライドを持たなきゃダメよ」

 菊池は言葉を返すことが出来ない。染谷さんは顔をふやけさせる。

「またお店にもいらしてね」

 菊池は息を呑んで、それを渾身の声にする。

「はい」

「嬉しいわ」

 菊池は車椅子を押して、W棟の中を一周回る。染谷さんはもう何も言わなかった。


 染谷さんが使っていた部屋に入る。備え付けのものはあるが、ガランとしている。人生の最後の二年以上をこの部屋で過ごしたのだ。でも探しても痕跡はない。菊池は探すことを諦めて、部屋から出る。出て、振り返って、入り口から中に向かって頭を下げる。

「ありがとうございました」

 菊池はステーションに戻る。他の利用者のために動く。

 来週には染谷さんの部屋に次の人が入ることになっている。

 その次の人にも会うことになるだろう。


(了)


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