ともにゆく春

高村 芳

ともにゆく春

 温かな木漏れ日が、木目につくりだす模様を眺めている。建てつけの悪い木枠の出窓の前であくびをしていると、出窓の真下に据えつけられているベッドで長いあいだ眠っていた男の目が、ついにゆっくりと開いた。


 頭に包帯を巻いたその男は、眩しげに何度かまぶたを閉じては開き、閉じては開きを繰り返している。ようやく天井に焦点があったのか、その青い瞳に窓から差し込む陽光が輝いた。男の目は混乱で濁っている。首をゆっくりと左右に振り、やっと自分がベッドに寝かされていることがわかったのだろう。ふと、こちらに目を向けた。出窓の前に座る私と目が合った。

 やっと起きたか、と声をかけてやる。布団から手を出して私にゆっくりと手を伸ばしてきた。動くのも面倒くさいので、私は男にからだを撫でさせてやった。


 その様子を偶然見かけた女が、何か叫びながら男に駆け寄ってくる。女が着ている白い服には何度も血が染み込んだのだろう、ところどころ黒ずんでいる。男は上半身を起こし、女の腕を掴み、掠れた大声で叫んでいる。その表情はさっきまでの穏やかなものとは違い、焦っているような、怒っているような、悲しんでいるような。私はその様子をひなたぼっこしながら見つめていた。男が前のめりになった瞬間、男はベッドから崩れるように落ちた。男は自分の下半身を見て、もう一度叫んでいた。多分、片足の太ももから先が無いことに驚いたのだろう。


 私はその声を聞きながら窓の外を見た。風が吹いて野草の蕾が揺れている。そういえば最近、ドンドンとか、バララララとか、そういううるさい大きな音が外からしなくなった。土煙もなく、何かが焼けるような臭いもなく、外を散歩しやすくなった。この消毒液臭い部屋に篭っているのも嫌になってきたので、今日は外に出てみようか。外は、静かな春だ。




 最近、陽差しが強くなってきた。外が暑いので水を飲むために建屋に戻ろうとすると、出入口で久しぶりにあの男を見た。頭の包帯はとれて、伸びた茶髪をうなじでひとつにくくっているが、一束だけ、紐からこぼれてしまっている。


 男は大きい車輪がついた椅子に座り、建屋の中からから外にいる私を眺めていた。体じゅうについていた傷はかなり少なくなり、顔色も少し良くなったようだ。その視線の先に、私はいない。生い茂る草木以外何もない。ざあ、とたまに風が木の葉を鳴らす程度だ。

 春くらいまではこの建屋に入ってくる人間も出ていく人間も多かったのに、最近ではめっきり、入ってくる人間はいなくなった。出ていく人間がちらほらいるだけで、人がどんどん減っているのがわかった。


 私は男に、おまえはまだ出ていかないのか? と問うたが、男は返事をしなかった。その代わりに、椅子の手すりを両手で持ち、顔を真っ赤にしてぶるぶると震えている。腰を浮かし、立ち上がろうとしているようだ。私はそれをじっと見ていた。片足で立ち上がろうとしたそのとき、男はバランスを崩して前のめりに倒れこんだ。激しい音がした。男は拳を床に叩きつける。そして、両手を床につき、もういちど上半身を起こした。

 頬や服は汚れてしまっていたが、男の目はギラギラと輝いていた。額には汗をにじませ、また顔を赤くしながら、壁にとりつけられた手すりに手を伸ばしている。ささくれた無骨な手で手すりを掴み、力いっぱい上半身を起こす。震えながら、力強く壁にすがりつく。もう少しだ、と声をかけてやる。男は手すりを支えにしながらも、なんとか片足を地面につけ、一人で立ち上がった。男は壁に上半身を預けながら、涙をぼろぼろとこぼしていた。


 やっと私が建屋の中に入れるようになった。男がそこに倒れ込んでいると、中に入りにくくて仕方なかったのだ。男は力尽きたのか、ずるずると壁に背を預けながらその場に座り込んだ。私がその横を通り過ぎようとしたとき、男は私に手を伸ばして撫でてきた。暑いので、それはいらない、と男の手を避けて、私は建屋の奥の涼しい部屋を目指した。




 静かな夜、物音で私は目を覚ました。ひとつあくびをしてから、水を飲もうと水飲み皿が置いてある部屋に向かう。女たちが事務仕事に使う部屋だ。もう夜更けだというのに珍しく、その部屋にぼんやりとした橙の光が灯っている。あるデスクの真上に吊るされた、小さな白熱電球だった。


 デスクに座っているのは、あの男だった。車輪のついた椅子に座りながら、デスクの上に広げた書物に静かに目を通している。しばらく見つめてはページをめくり、また見つめては隣に広げているノートに何かを必死になって書き写している。ずっとその調子だ。その部屋の隅に置かれている水飲み皿の水を飲みながら、私は男の後ろ姿を見つめていた。どうやら集中しているせいで、私がここにいることには気づいていないようだ。


 男は最近、椅子に乗らなくてもひとりで壁を伝って移動できるようになっていた。何もせずボーっと過ごしている時間は少なくなり、時間を見つけては働くようになっていた。あるときは子どもの話を聞いてやったり、あるときは別の男の包帯を巻き直してやったり、あるときは洗濯されたぼろぼろのガーゼを女たちに混じりながら畳んだりしていた。男の顔の傷は痛々しく額から頬を縦断しているが、人と話しているときに笑うようになっていた。


 日中は働き、夜はデスクに向かって何か考え事をしている。なんとも忙しい男だ。疲れないのだろうか。私だったら、日中は散歩したいし、夜は寝たい。カリカリ、カリカリ、と、男がノートに何かを書きつける音が部屋に響く。私はその音を聞きながら、その場に丸まってもういちど眠りについた。




 朝、窓の外には真っ白な世界が広がっていた。今日はいちだんと寒い。私が暖炉の火で暖をとっていると、何やら建屋の中が騒がしい。何人かの女が、私の目の前に伸びる廊下をバタバタと走っていく。まだ私は眠いのに、静かに寝かせてもくれないのか、ここの人間は。仕方なく体を起こし、私は騒動を見学することにした。

 どうやら何人かの人間が寝ている広い部屋とは違い、狭い別室に人が行き来しているようだ。その様子を、遠目で見守る人間がいた。あの男だ。まだ朝早いのに、袖がほつれた厚手のカーディガンを羽織りながら車輪のついた椅子に座り、じっとその部屋の出入口を見つめていた。男の吐息は、白い。


 忙しなく出入りする女たちの足元をすり抜けて狭い部屋に入ると、中央に置かれたベッドには、あの男とよく話していた子どもが横たわっていた。雪よりも白い肌をしていて、呼吸が浅い。


 ああ、私はあの呼吸を知っている。あの呼吸になった仲間たちは、まもなく姿を消した。あの子どもも、もうすぐここからいなくなるのだろう。周りの大人たちは手を止めることなく動き、子どもを世話するが、呼吸はどんどん小さくなっていった。大人たちが叫ぶ声が狭い部屋に響き渡る。もうそろそろ終わりだろう。私は部屋を出た。


 男は涙していた。男もわかっているのだ。口から漏れる吐息は震え、鼻の頭はこれでもかというほど赤くなっていた。その手には、子どもが男と遊んでいたときに持っていたボロボロのボールが握られている。私は暖をとろうと、身震いをひとつしてから男の膝に飛び乗った。男は私の頭を撫でる。その瞳は、狭い部屋の出入口を見つめつづけている。男の温かい手に撫でられながら、私も部屋の出入口を見つめた。子どもの笑い声は、それから二度と聞くことはなかった。




 花が咲いている。そこに一匹の蝶々が舞っていたが、ふわりふわりと向こうへと飛んでいった。また春がすぐそこまでやってきている。男のベッドの真上の出窓に座っている私は、窓の外から室内へと視線を移した。


 男はいつもの白い服装ではなく、水色のシャツと薄茶のスラックスを履いていた。スラックスの片方の足にはシワがよっているが、綺麗にアイロンがあてられている。男はベッドに腰掛け、木でできた足の模型のようなものを自分の太ももの先にとりつけた。ゆっくりと慎重に立ち上がる。ギシギシと軋んだ音をたてたが、男は二本の足で立ち上がった。それは小鳥の雛のような足取りだったが、男は目の周りを赤くして嬉しそうにしていた。


 男は少ない荷物が入ったバックパックを背負い、私の方に向き直る。その眼を見て、私は悟った。ああ、この男も今日、この建屋を去るのだ、と。


 男は微笑んで、私の方に手を伸ばす。無骨な手のひらには、私がよく食べる餌が置かれている。私は首を伸ばし、男の手から餌を食べる。


「おいしいかい?」


 まあ、いつもの味だな。私はそっけなく男に返事をした。


「ありがとう。きみがいてくれたから、リハビリや資格の勉強を頑張れたよ。もう戦争は終わったし、僕もこのからだでは軍に戻れないけど、新しい土地で仕事をしながら暮らしていこうと思う」


 よくわからないが、男はすっきりした顔をしている。一年前は生気のない顔をしていたが、また春が来ることを嬉しく思っているのかもしれない。


 餌がなくなった手のひらで、男は私の背中を撫でた。そして両脇をつかみ、私を抱き上げる。私は男と同じように片方の前足がないから、なにやら抱きにくそうにしてまた笑っている。こんなに顔をくしゃっとさせる男の表情は珍しかった。


「なあ、僕と一緒に来るかい?」


 男は私の髭が頬に当たりそうなくらい顔を近づけて、私にそう尋ねた。男の目は澄んだ湖のような青い色をしていた。


 ふむ。この男といるのも悪くないか。男がどうしてもと言うなら、どれ、私がそばにいてやろう。


 私は男に抱きかかえられながら、「ニャア」と返事をしてやった。




   了

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