冬は春のふりをして

大枝 岳志

冬は春のふりをして 【一話完結 4000文字】

 寒の合間に偽物の春が訪れた。気温が二十度近くなった土曜日の真昼間に、私は手押し車で進む母と並んで歩いていた。

 父が亡くなり、三年ほど経った頃から母は自律神経に支障が出るようになり、毎日のように「耳鳴りがして眠れない」と訴えてくるようになった。

 その頃の私は四十を過ぎてもなお、独身やもめであった。定職にも就かずに世捨て人のような生活を送っていた私は、実家へ帰ることにした。


 それから十年以上が経った。

 私は実家のすぐ近くに在る大きな自動車工場で掃除夫として働きながら、近頃耄碌し始めている母がうっかり死なないように付き添って生活をしている。手取りは十万を切るが、母の年金と合わせて何とか日々を暮らしていけている。

 テレビコマーシャルをぼんやりと眺めていた母が「あれ、食べたいねぇ」とぽつりと言った。チェーンの弁当屋が新商品として発売している中華丼だった。幸い家の近くに店舗があった為、私は買いに行こうかと提案した。


「母ちゃん、俺行ってくるよ」


 そう言うと、母は膝の上に置いていた巾着袋から使い古しの黄色財布を取り出した。小銭を数枚取り出そうとして母が目を細めながら指を動かすと、箱根の高級温泉に浸かるタレントの奇声じみた声に混じり、小銭が小さな居間にチャリチャリ、と音を立てる。


「ほら、これで買って来な」


 そう言って渡された五百円玉一枚と、百円玉五枚を私は恥ずかしげもなく受け取り、立ち上がってコートに手を伸ばして、やめた。

 外は二月とは思えないほど暖かな気候で、朝の十時を過ぎる頃にはエアコンの暖房を消していたのだ。

 窓を開けて外の気温を確かめようか迷っていると、母が「私も外、出ようかな」そう言うので、一緒に出ることにした。

 財政が苦しい私の住む街は道路環境があまり整備されておらず、狭い歩道のすぐ真横を自動車が幾台も通り過ぎて行く。

 車を持てない私は母に申し訳ないと思う気持ちを隠したまま、せめてもの償いの為に母の右側を守って歩く。通り過ぎて行く車が忌々し気に、私達に向かってクラクションを鳴らし、通り過ぎて行く。それでも、春のふりをし続ける冬の陽光に、私達親子は「暖かいね」と、言葉を交わした。


 弁当屋に入り、中華丼とのり弁、そして私の持ち金で豚汁を二つ注文した。

 椅子に座って待っている母に伝えると、豚汁をつけたことに「あら、豪華版」と喜んでいた。

 弁当が出来るまでの間、私達は椅子に並んで座って待つことにした。

 店の大きな窓からは冬を忘れさせる光が降り注ぎ続け、堪らず眠りこけてしまいそうになる。

 母は弁当屋の店内で流れるテレビコマーシャルをじっと眺め続けていた。


「お父さん、から揚げ弁当が大好きだったっけねぇ」

「あぁ、そうだね。いつもあればっかり食ってたね」

「みんなで居た頃は私もから揚げ作ってたけど、今じゃ作っても余っちゃうもんねぇ。でも、利幸はまだ若いんだから食べたくなるでしょ?」

「若いったって、母ちゃん。俺はもう五十二になるよ」

「まだまだ若いじゃない。お嫁さんだってまだもらえるわよ。ほら、野村さんの息子さんだって、去年結婚したでしょ?」

「結婚ったって、あそこん家は再婚だろ」

「そうやって諦めるにはまだ早いわよ」

「十万も稼げない掃除夫の所に来る嫁さんなんている訳ないだろ」


 おまえが原因だよ。おまえさえいなければ。そんな親不孝な言葉を押し殺し、思い直し、心の奥底を掘って自省の念を湧き上がらせる。

 自分の不甲斐なさを頭に浮かべ、もっとまとも生きて来ていたならと、逡巡し始める。

 年老いた母を妻や子供達と共にアルファードに乗せ、高速道路を走る。

 真昼間のサービスエリアはとても混み合っていて、我先にと駆け出す子供を私は追い掛ける。妻が母の手を取り、ゆっくりと駐車場を渡る。

 たくさん買い込んだホットスナックのせいで海へ着く頃には私と子供達の腹がすっかり満たされてしまい、私は妻に小言を言われる。

 せっかく海で美味しいもの食べようって言ってたのに。お義母さん、油っこいものばっかでおなか大丈夫?


「私はみんなといるだけで、なんだって嬉しいよ」


 後部座席に座る母がそう言って楽しそうに笑って、私は安堵する。


 そんな空想を思い浮かべながら視線を横に向けると、母が着ている灰色のジャンパーの肩口からほつれた糸屑がくっ付いているのが目に入る。このジャンパーを母が着続けて、もう何年になるだろう。部屋の中に居ても、外に出ても、いつもこのジャンパーを着ている。

 私は肩口についた糸屑を取る訳でもなく、指摘する訳でもなく、そっと地面に目線を移した。

 弁当を待つ私達を追い越すように、何人もの人達が弁当を取りに来ては去って行く。みんな口々に「ネット予約した何々です」と店員に伝え、スマートフォンで会計をしている。

 会計の時に鳴る楽し気な決済音を聞きながら、私は誰からの連絡も入らない二つ折りの携帯電話を取り出した。やはり、誰からも連絡は入っていなかった。

 私はパソコンがあまり得意ではないし、父も母も興味を持たなかった。ネット環境はもちろん家にはなく、なくても特段困ることはなかった。

 しかし、こうして弁当を待ち続ける間にやって来ては去って行く人々を見ている内に、何だか世界から私達親子が置き去りにされている気分になって来る。いや、気分とかの問題ではなく、事実置き去りにされているのだろう。誰の心に名前が刻まれることは決してなく、私達は死んで行くのだ。


 弁当を注文してから三十分が経った頃、しびれを切らした母が立ち上がった。


「インターネットがないと、こんなに時間が掛かるもんなのかね? 外あったかいから、駐車場で待ってるよ」

「もうすぐ出来るんじゃないかな?」

「私、こういう新しい造りの建物の中にいると、耳鳴りがするんだよ。ずーっとキーンって言ってて、堪らないの。外出てるよ」

「そっか。うん、わかった」


 そう言って母は先に外へ出て行ってしまった。それから五分が経ち、私達より後に来て店内で注文をしていた中年男が先に弁当を受け取っているのを見て、私はレジへ向かった。


「あの、まだ出来ないんですか?」


 そう問いかけると、高校生くらいに見える女性店員は返事もせずに慌て出した。

 レジの横に掛けられた大量の伝票を一枚一枚めくり、首を傾げならようやく声を返してくれたが、その声は震えていた。


「あの、えっと……渡してるはずです」


 その返事は予想外だったので、私は思わず噴き出してしまう。そんなことがあるはずはない。


「渡してもらってないですよ。だって、目の前にずっと座ってたじゃないですか」

「えーっと……あの、一緒にいた、あのおばさんに渡してます」

「おばさん? うちの母親だったらそこに居ますよ」


 そう言って私は窓の外を指差した。母は駐車場の隅にじっと突っ立ったまま、目を瞑って陽光を浴びていた。これが本物の植物人間だ、という言葉が頭に浮かんだ。

 レジの店員は首を傾げながら、何かぶつぶつ呟いている。


「私、絶対に間違ってないんだけどなぁ……ちゃんと渡したのに何でこの人……」

「あの」

「えっ、はい?」

「お弁当を間違って誰かに渡したんじゃないですか? 違いますか?」

「それは……ないと思うんですけど……」


 別に失敗を責めるつもりは無かったのだが、しらばっくれてるのを感じ取った私は段々と苛立って来た。怒鳴り声の一つでも上げようか迷っていると、自動ドアが開いて私よりも先に店内に怒鳴り声が響いた。

 声の主はさきほど出て行った中年男だった。


「おい、ねぇちゃん! 頼んだものよりいっぱい弁当が入ってんだけどよぉ。こんな食いきれねぇで」


 男がカウンターに差し出したのは中華丼、のり弁、そして豚汁が二つだった。


「あ」


 私が思わず声を漏らすと、男は私を無遠慮に指差して笑い声をあげた。その声と表情に、人を嘲るものが混じっていたが、私は慣れているつもりであった。


「あれ! この弁当、もしかしてあんたの?」

「多分、はい」

「災難だったねぇ、相手が俺で良かったなぁ!」


 男はそう言って店を出て行った。わざわざ戻って来てくれたことに感謝の事を伝えようとも思ったが、店員がそうしなかったので私も黙り込んだままでいた。

 結局袋を入れ直してもらっただけで、弁当は作り直してもらう訳でもなくそのまま受け取った。 

 母に店の手違いを伝えようかと思っていたが、先に尋ねられた。


「利幸、遅かったね。もしかしてお店の人がなんか間違ってたんじゃないかい?」

「いや。中華丼が人気で、凄く売れたんだって。インターネットの人が優先だからさ。これ、最後の一個だったんだって。ラッキーだよ」

「そうかい。じゃあ、おいしく頂かないとね」

「うん。のど自慢始まる前に帰ろうか」


 帰り道も来る時と同様に、母の右側を守って歩く。足取りは遅く、歩幅が極端に小さくなる。歩きにくさを感じながら、その分景色はまるで止まっているかのように、それでも緩慢に進んで行く。

 梅の蕾が花となって、春の偽物の風に吹かれている。明日には強烈な寒の戻りで咲いたことさえ忘れ去られてしまうだろうに、それでも束の間の春が来たことを喜んでいるように見える。

 後方からクラクションを鳴らされ、私はやや左にズレる。その拍子に母の手押し車のタイヤが割れたアスファルトに足を取られたものの、傾いただけで倒れることはなかった。

 通り過ぎて行ったクラウンの運転手はさきほどの中年男で、私達に一瞥さえも向けない瞳には軽蔑が宿っているように思えて仕方がなかった。


 レンジで温め直した中華丼を、母はゆっくりと口に運んで行く。

 おいしい、と一言。その笑顔は想像の中の後部座席で笑う母のものとそう変わらないことに、何故か胸が塞がれる。

 のど自慢から聴こえてくる鐘の音ふたつ。笑い声。歌ではなく、人を労う司会者の言葉。 

 明日にはみんなが震えればいいのに。そう思いながらのり弁を口に運ぶ。

 暖かな今日の日を振り返り、「冬に騙された」と、嘆いたらいいのに。

 そんなことを祈りながら、のり弁を口に運び続けていた。

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