7.眠り姫


「はぁ…、すごい」


壁の外とは一線を画す、絵に描いたようなキラキラした世界に、凡人の私はただただ圧倒される。

入ってまず最初に感じたのは、辺りに満ちる空気の濃さ。

殿舎をつなぐ回廊を歩くだけで、焚きしめたみたいに濃密な香りが衣に移る。

花の香りって、こんなに匂い立つんだ…。

よそ見する私に気づいたのか、白奎さまが振り返る。


「―良い香りでしょう。この庭は何処よりも花の香が濃いんです」

「気持ちが華やかになる香り、ですね」


鼻から吸い込むと、胸の内にも八重の花が満ちた気になる。

ただちょっと、この濃度、私には重いかも、だけど…。


「ここの植物は全て、花帝がお選びになってるんです。妃や侍女たちに、少しでも安らぎを、と」

「…へぇ」


ちょっといい話なのに、どこか悲哀の交じる声色でいう彼。なんかひっかかる。

極楽と見まごう天女たちの庭を、我々は粛々と進んでいく。

すれ違う宮女が白奎さまに頭を下げる。

こんな華やかな場所で働くって、どんな気分なんだろう。

私には全てがまぶし過ぎて、正直、落ち着かない。

そうこうしてるうちに、目的地に着いたらしい。

こじんまりした宮殿の最奥の部屋の前で、白奎さまが足を止めた。戸をノックすると私に目配せし、後について部屋に入る。


「よ、よくぞお越しくださいました…」


私たちを出迎えたのは一人の侍女。彼女は両手を前にして、うやうやしく頭を下げた。


揺玉ようぎょくどの、そう硬くならずに。―今日は私の友人の医師をお連れしました」

「恐縮です…。あ、今、お茶をご用意致しますので」

「ありがとう」


震える声で頭を下げた侍女に、白奎さまがにこっと笑顔で答える。

なんだろう…、この感じ。

侍女が下がるのを見届けてから、こそっと聞いてみる。


「…白奎さまって、怖がられてるんですか?」

「残念ながら、そのようです」


悲しげに眉を寄せたけど、深刻そうな感じはしない。

彼にとってはいつものこと、なのかも。


「彼女が翠英すいえいさまの侍女です。…この件で、すっかり気落ちしてしまってね」


気落ちというより、あれはもう、完全に挙動不審。

必要以上におどおどしてて、倒れないか心配になるくらい。


「繊細な方、なんですかねぇ」

「そうでしょうね。ずっとあんな感じで」

「お二人は、以前からお知り合いなんですか?」

「いえ。私が太常寺(祭祀部門)を管掌してる関係でね、太医署から報告を受けて対応したのがきっかで―。揺玉どのも最初はもう、見てられないくらい憔悴していて。これでも落ち着いた方なんですよ」

「…大丈夫ですかね、主従そろって」

「この庭の水が合わないのかもしれないですね―。後ろ盾も弱いので、肩身の狭い思いをされてると」

「―」


少し低くなった声が、耳に重い。

こうやって白奎さま自ら面倒を見るのは、何か実家に頼れない理由があるのかもしれない。

後宮ここも見た目だけで、本当の極楽ではないんだなぁ…。

家が心休まる場所じゃないなら、どこで羽を休めたらいいんだろう?他人事ながら、気の毒だよ。

なんとも言えない気持ちで静かな部屋を見渡していると、あることに気づいた。

そういえばここ、他に、侍女らしき人がいない…?


「白奎さま。彼女の他に、侍女って居ないんですか?」

「えぇ。雑用の宮女は数人充てがわれていますが、身の回りのお世話をする侍女は揺玉どの、お一人です」

「そうなんですね…。後宮の妃って、もっと多くの女官に傅かれてると思ってました」

「侍女は実家から連れてくるのが習わしです。…人を集めるには金がかかる。宮中はどこも権力が透けて見える世界です」

「―」


白奎さまの口ぶりはどことなく冷ややかで、近寄りがたいものがあって、少し背筋が寒くなった。

思ってたよりしんどい話。小娘の私は、なんにも言えないよ。

やっぱり、私には場違いな世界だわ。終わったら、ササッと退散しよう―。

少しの後悔をお腹の中で転がしていると、カタンと戸が開き、盆を手にした揺玉が戻ってきた。


「お待たせ致しました」


こわばった顔で茶を呈する彼女に、白奎さまが優しく微笑む。


「ありがとう、揺玉どの。―早速だけど、翠英さまのご様子は?」

「はい…。一昨日お目覚めでになったのですが、また眠ってしまって…」

「そうですか―」


ふたりの会話を大人しく茶を啜りながら聞いていると、白奎さまがこちらを見た。


「清花、診てもらえますか」

「はい―。揺玉さま、寝所へお通しいただけますか?」

「こちらでございます」


揺玉の後に続き、奥の部屋の天蓋の幕の中に入る。

ついに眠り姫とのご対面か―。

誰が相手でも、すべきことはひとつ。

気を引き締めて、集中モードに入る。

そっと枕元に寄り、薄明りの中で昏々と眠る人を見つめる。


本当に眠ってる…。

かすかに上下する胸。

青白い頬は一目見て、病だとわかる。

静かに頬に触れると、ぬるい温度が指を押し返した。


「…血の巡りが悪い。あと、栄養も…」


身体の不調で間違いない。となると後は原因を見つけるだけ。

さぁ、ここからが本番。

気持ちを落ち着け、相手に向き合う。


「脈を診ます。失礼しますね」


ひと声をかけてから細い腕を取る。指先を添えて、目をつむる。

全神経を一点に集中し、小さな鼓動に潜り込む。

トクトクと打つ、か細い脈をたどって身体の中を見る。手から腕、肩から頭、肩に戻って身体へ―。

血の流れにのせて、意識の目を全身にくまなく広げる。


「…あ、れ?」


指先に伝わる違和感に思わず顔を上げ、眠り続けるその人を食い入るように見る。

なんで?

どうして?

想定外のことに、頭が混乱してる。

それでも、目の前の眠り姫は夢の世界に深々と沈んだまま。


…そんなハズない。

もう一度、彼女の腕を取り、指を揃えて目をつむる。

今度は鼓動に逆らって、全身を駆け巡る。

波打つ紅い川をさかのぼり、細い脈を隅々までしつこくくらいに往復する。

でも、何度繰り返しても、指先が触れる感覚に変わりはない。


嘘でしょ…。

こんなこと、あるはずがないのに―。


「信じられない…」


一体、どういうこと…?

現実を飲み込めないまま、私は茫然と眠り続ける人を見つめた。

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