奥さんとまだ付き合う前の話

脇役C

第1話「奥さんとまだ付き合う前の話」

彼女ですらなかったころの奥さんとのデートの話。

あんこう鍋を食べて海岸に来た。

19時を回っているので、かなり暗い。

波が見えないのに波音が大きく聞こえるので、ちょっと怖い。


「わたし、海が好きなんです」


この時期の奥さんはまだ敬語で話していた。

夜中の海岸でデートなんて、すんごい甘酸っぱい展開が待ってそうじゃない?


でも、俺はこの海岸よりも真っ暗な先行きの見えない気持ちでいた。


5回目のデートなのだが、そもそも前々回くらいに告白をしたが保留されているのだ。

保留されたあと、OKした確率は約50%らしい。anan調べ。

そう、統計的には半分ほどチャンスがある。


だが、俺は婚活歴4年であり、散々な婚活地獄を味わってきた。

お高い寿司を数回ごちそうして音信不通されたこともある。

30万する浄水器を買ったこともある。


奥さんとはそんなさなか、婚活アプリで知り合った。

今回はいくら持っていかれるのだろうと邪推している。


だって、奥さんは俺史上初の絶世の美女である。

今はやりの前髪が熊手女子である。

こんな子が婚活していて、俺とマッチングしてるのおかしくない?


一方、こっちのいいところと言えば、公務員という肩書だけである。

パパ活かな。


「あんこう、初めて食べたんですけど、美味しかったですね!」

「美味しかったね」


また一緒に食べにいこうと言いたいところだが、どの発言が「うわ、そういうつもりじゃなかったのに……気持ち悪」につながるか分からない。

奥さんが俺と付き合ってくれるなんて、当時は思いもしなかった。

非モテの思い上がりほど怖いものはないからね。


「また食べたいです」

「ぜひ」


もうこれだけ長く地獄に住んでいると、一緒にごはんを食べに行ってくれる女性がいるだけで天国なのだ。


一回の食事で数万払う男性の気持ちは痛いほどわかる。

ごはんをごちそうしてくれるおじさん止まりでいい。

このあと数百万円だまし取られるまでの布石でもいい。

帰りがけに数万円要求されたら、次会う約束をしてから払ってしまうだろう。


「柔道やってるんですか?」

最近運動してるかと言われて、最近柔道で黒帯をとった話をした。

めっちゃ意外そうな顔をされた。

「全然、そんな感じに見えない」


「そうかな」


いや、わかるよ。俺弱そうだよね。


「じゃあ、けっこう筋肉ついてるんですか」

そう言って二の腕を触る。

さりげないボディタッチ。

ダメだ、もっと惚れてまう。


「あ、けっこう硬い。練習でついた感じですか?」


「それもあるけど、玄関先にバーベルが置いてあって、家に入る前に筋トレするようにしてる」

「え、すごい」


どっちの意味のすごいだろう。

ひかれてないだろうか。


「じゃあ、わたしのこと持ち上げられます?」

奥さんはそう言って、手を広げる。


「え?」

何、この展開。


「できます?」


持ち上げるということは体に触れることになるんだけど、いいんだろうか。

いや、きょどるな俺。

ハグにもカウントされないような行為でビビってどうする。


「ぜんぜんできるよ」

「じゃあ、どうぞ」


奥さんが一歩近づく。


えー、近くで見るとよけい顔めっちゃかわいいんだが。

勢いあまってキスしてもいいかな。


落ちつけ俺。

さすがにそれはいろんな意味で終わる。


「じゃあ、いくよ」


足を踏ん張る。

砂浜なので、力のことよりもバランスが心配だ。

倒れたら、社会的には終わらないが、恋愛的には終わる。

試合前より緊張する。


奥さんを抱える。

え、柔らか。

いやいや、そんな感触を楽しんでる場合じゃない。


持ち上げた。

「え、軽」


気持ち的には空の段ボールかと思うくらい軽い。


「すごーい!」

奥さんが喜んでくれている。


全然余裕なので、このまま歩く。

くるくる回る。


「すごいすごい!」


めっちゃ喜んでくれた。


俺、このために柔道も筋トレもしてたわ。



そして、この日にOKの返事をもらえた。


「あれから、1年かあ」


付き合って、一年のお祝いにあの時の海岸にきた。

二人の思い出の場所だ。


「懐かしいね」

そう言って奥さんは手を広げる。

「今も持ち上げてくれる?」


「もちろん」

あのときのように、奥さんを抱える。


「重くなってるかも」

「ぜんぜん」


あのときのように、歩いてくるくる回る。


「すごい! すごい!」

変わらず、喜んでくれている。

あのときと違うのは、体重をしっかり預けてくれていること。


「わたしと付き合ってくれてありがとう」

抱えられた奥さんが、耳もとでそう言った。


「こちらこそ、ありがとう。大好きだよ」


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奥さんとまだ付き合う前の話 脇役C @wakic

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