ピクニック
サロヤンの街に来て数週間経ったある日、アーチーはそれまで着ていた衣服を袋に丁寧に詰め込んだ。
埃と汗染みでシャツとジーンズは汚れていたが、それでも数少ない自分が元いた世界との繋がりだった。
青年は今、丈が膝までゆったりとした衣服の上にマントを羽織り、素足にサンダルを履いていた。
スマホのカメラを鏡のようにして、自分の様をしみじみと眺めてみると、アーチーは遂に、自分がこのローマのような国に取り込まれた事を痛感した。
カエサル、ネロ、コンスタンティヌス、チャールトン・ヘストン、カーク・ダグラス、リチャード・バートン。
青年は知っている限りローマ人の名前を挙げては、自分もその中に入っているのだと思った。後半の3人はローマ人ではない気がするが。
数週間の労働でそれなりの資金を貯めたアーチー達は食料と物資、そして一頭の運搬用のロバを買うと、いよいよ目的地へと旅立つこととなった。
「ヴィラペシオンに、私達の事をよく知る司祭様がいます。彼の許なら安全だろうし、これからの身の振り方について的確な助言をくれることでしょう」
ジュードがそう言うと、アーチーは何も分からぬままに頷いた。
(ヴィラぺション。ヴィラペシャン。ヴィロペラン…)
アーチーが今聴いたばかりの言葉の再現に苦しんでいるのを横目に、パラティアが言った。
「私が悪徳の都に行くことを母さんが知ったら、きっと着ている服を全部破いて悲しむでしょうよ」
「仕方のない事だ、神は許して下さる。それにヴィラぺシオンにも数多くの来訪教徒がいるだろう。彼らの内、シャライ先生のように敬虔な者だって少なくはない筈だ」
「どうだか。街に入った瞬間、神の怒りに触れて体が灰にならなければ良いけど」
ジュードは咄嗟にアーチーの方を見遣った。だが青年はポカンと口を開けて何かを考えていたので、ジュードは側に寄り、肩を揺すった。
「えっ、何だい?」
そう腑抜けた返事をするアーチーに、ジュードは何事かを耳打ちした。
「無理だよ。絶対殴られる」アーチーは小声でそう答えたが、ジュードに懇願されて仕方なくパラティアに向き直った。
「大丈夫だよ、パラティア。神である、この俺が許すよ。だから一緒に、ヴィ、ヴォ、えー、ヴェ、その、何とかデ・ラ・フエンテに行こうよ。きっと楽しいよ」
パラティアは相手の顔をしばらく眺めた後、「はあ」と溜息を吐いた。兎にも角にも、こうしてアーチー達はサロヤンの街を後にしたのだった。
今更ながらこの国は、アーチーが最初にやって来た王国の荒野とは全く違った風景を持っていた。道は人が踏みしだいて出来た道ではなく、きちんと整備された石畳の道だった。
地平線の彼方まで続く道の両脇には果樹園や畑、放牧地が広がっていた。
その中でも特に柑橘系の匂いのする果樹園の側を通る時、アーチーは故郷を思い出し、何とも言えない多幸感に包まれた。
点在する家々は決して裕福とは思えなかったが、それでも王国よりかはよっぽど清潔に観える。
大木の根元や曲がり角、交叉路には決まって祠があり、中には神と思わしき石像が祀ってあった。
捧げ物の花と香の心地よい薫りに包まれた祠の前を通る度、パラティアは嫌そうな顔をしてぶつぶつと何かを呟いた。
人々は親切だった。ロバに水をやる為に民家に立ち寄れば、その家の子供がせっせと水を井戸から運び、ロバに与えた。
ジュードが家の主人に金を渡そうとすると、殆どがそれを断るか、でなければ受け取った上で何かしらの食料を分けてくれた。
仮想敵国の、目に見えて豊かな暮らしぶりにジュードは困惑し、パラティアは明らかに不快なようだった。
ロタハはそんな2人の気持ちを察知すると、自然とアーチーの側に寄り添うようになった。
ただ気分が良いだけのアーチーはロタハの手を握ると、そのまま歩幅を合わせた。まるで妹と共に、自然公園にピクニックに来ているようだった。
帝国を旅するに当たり、この国に関するロタハの知識が非常に役に立った。
「どうしてそんなに詳しいんだい?」アーチーの質問に、少女は誇らしげに答える。
「父ちゃんの仕事は帝国との貿易やってん。サロヤンの街にも、そうやって一緒に船に乗って行ったんや。あの街には大陸中から色んな人が来るから、そん時に色んな話を聞いて覚えてん。色んな方言を聞いたせいで、うちの話し方が変になってしもうたって、父ちゃんは困ってたけどな」
ある時、一日の旅程を間違えて、陽が沈むまでに人家に辿り着けぬ事が分かり、アーチー達は野宿する事にした。
彼らは相応しい場所を見つけ出したが、何とそこには既に先客がいた。先客とは何と、帝国兵達だった。
ジュードは用心し、直さま場所を変えようとしたのだが、運悪く先に彼らに見つかってしまった。
「何処に行く。丁度飯も出来た所だ。俺達と共にいれば安心だから、こちらへ来い」
今更場所を変えて怪しまれる事を恐れ、アーチー達は嫌々ながら彼らの近くに荷を降ろした。
「大丈夫や。ウチにまかしとき」
ロタハは小声で、ジュードと悪魔のような形相のパラティアに言った。
新たな客のために、焚き火を取り囲む5人の帝国兵はあっさりと場所を開けた。火に掛けてある鍋からは、何とも言えぬ良い香りがした。
上官と思わしき兵士が部下から椀を受け取ると、それを側にいるジュードに手渡した。
「そんな、頂けません」
「良いから食え。これは特に肉の多いやつだから、そこの小さい子に渡せ」
ロタハが椀を受け取り「ありがとう!」と返事をすると、兵士達は我が子を観るように笑った。
「お前達は何処から来たのだ?」
兵士の1人がそう言うと、アーチー達の間に緊張が走った。機転を効かせ、咄嗟にロタハが答える。
「東です。ウチ達は全員、シオファクって村からやって来ました」
「シオファク。それは何処だ?」
「ソルナク県です。シオファクはその更に東の果てにある山奥の村です」
「ああ、ソルナクか!」とまた別の兵士。
「前の隊にソルナク出身の奴がいて、そいつから話を聞いたような気がするな。名前は忘れたが、そいつの村は花で有名なのだ。何と言ったか」
「ケンべシュの花じゃないでしょうか? 秋になると、辺り一面を薄桃色の絨毯のようにする花で、モシュト村が有名なんです」
「ああ、そうだ、モシュトの村だ。懐かしいなあ!」
「そうか、ソルナクか。独特な発音だとは思ったが、なるほどな」
兵士達は口々にそう言い、微塵の不信感も抱いていないようだった。アーチー達は顔を見合わせ、ロタハの見識ぶりに舌を巻いた。
(神様、ロタハ様。ありがとう!)アーチーに至っては、そう心の中で叫んだ。
そうして何事もなく、その夜は過ぎて行った。翌朝早くに、兵士達はアーチー達に別れを言い、別の方向へ向かって歩いて行った。
無事に朝を迎えたは良いものの、アーチー達はロタハを除き、皆目元に隈を作っていた。緊張でよく眠れなかったのである。
中でも酷いのはパラティアで、本人曰く、文字通り一睡も出来なかったのだと言う。
「何かあったのか?」
ジュードが訳を聞くと、少女は不機嫌そうに眠たい眼を擦りながら話した。
「昨日の晩、私は絶対寝ないつもりでいたのよ。だって皆が寝静まったら、必ず兵隊供が寝込みを襲うとするじゃない? ロタハは熟睡していたし、ジュードとアーチーだって私から観れば快眠よ。だから自分だけはしっかりしないとって思ったの。そして、真夜中よ。案の定、連中の寝床からゴソゴソいう音がして来たの。
遂に来た! 私はそう思ったわ。そいつはこっちに近づいて来たと思ったら、また何処かに行ったわ。少しして、また戻って来た。こっちに近づく足音を聞くと私は思わず飛び起き、そいつの顔を睨んでやった。月明かりの下で、ハッキリと観えたわ。向こうもこっちが観えてたのね。ニンマリと笑うと言ったわ、『お嬢さん』って」
「ま、まさか…」
アーチー達は昨日観た、人の良さそうな兵士達の顔を思い浮かべ、息を呑んだ。
一見親切そうに観えても、やはり兵士というものはどこの国も同じようなものなのだろうか。
「『お嬢さん』奴は言ったわ。『寝なくちゃ駄目だ。せっかくの美人が台無しだから』って。そう言って、奴はあくびをしながら寝床に戻ったの。そしてそれ以来、朝まで2度と起きることは無かった。信じられないわ、寝込みを襲わない兵士がいるなんて…」
パラティアはそう言うなり、意識を失った。アーチーとジュード、ロタハは互いに顔を見合わせると、少女を起こさぬよう静かに荷物をまとめた。
パラティアはその後、ジュードにおぶられながら夕方まで眠り通した。
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