ま、ま、ま
壁を抜けて初めて、アーチーはこの街の最も特徴的な部分に気が付いた。潮の匂いがする。ここは港だった訳だ。よく見れば、頭上には海鳥も飛んでいる。
街は扇形に広がっていて正面を海、背面を壁に囲まれていた。青年はこの街を自分が知っている街に例えたかっただが、良いのが見つからなかった。強いて言うなら、1000年前のニューヨークだろうか。
アーチーがそんなどうしようもないことを考えていたのには理由があった。今青年の目の前には壁があり、右手にも壁があった。さらに左手には窓のある壁があって、後ろにはパラティアがいた。
青年の心のオアシス、ジュードはいなかった。彼は買い出しと情報収集に行ったのだ。
「3人で行動するのは危険」そういう理由で、アーチーは隠れ家(魚屋の2階)に閉じ込められていた。
(ああ、ジュード。馬鹿野郎)
なんで自分とパラティアとを2人っきりにしてしまったのか。あんたが帰ってきた時、パラティアに虐められた自分が泣き疲れて、しなしなの死体になっていたらどうするのか。
肝心のパラティアは、難しそうな顔をして本を読んでいた。特にやる事のないアーチーがそんな彼女を眺めていると、それが気になるのか、少女は青年を睨みつけた。
「何よ」
(殺すぞ)内心、そう言ってるに違いなかった。
でも、青年には他にやることがなかった。家の中で魔術の練習とやらをする訳にはいかない。外に行けるはずも無かった。
「何を読んでるの?」
「詩篇よ」以外にも、あっさりと彼女は答えた。
「ああ、知ってる。俺の世界にもあったから。神様を讃える詩が載ってるヤツでしょ?」
「そう。でも、そちらのとは役割が違うと思う。こっちのは魔術の詠唱に必要な呪文の1つだから。これを覚えないと、折角の魔力も使い物にならないの」
「へえ。でも俺はこの世界の聖書なんて覚えてないよ」
「あんたは特別よ。だって力の根源そのものなんだから。いちいち神様の機嫌を伺わなくても、どんなことだって出来る。でも、前にも言った通り、魔術師は簡単になれるものではないの。一流の魔術師になるには、それこそ血の滲むような努力が必要」
そのぐらいのことならアーチーも理解できた。前々から賢い娘だと思ってはいたが、パラティアは努力した上でその賢さを手に入れたいう訳だったのだ。
「凄いな、君は」
素晴らしい人間は素直に褒めるべきだった。そうすれば、自分も素晴らしい人間になれる。これはエリック爺さんの言葉だった。青年は素直に、その言葉に従った。
「確かに、君は暇さえあれば何かしらの本を読んでいたな。凄いよ。俺なんて、3行も読んだら白目剥いて気絶しちゃうからさ。それをずっと続けるなんて偉い。前々から賢い娘だとは思ってたけど、それは強い意志の賜物だったんだ。本当に、凄いなあ」
パラティアは相手を鋭く睨むと、「ふん」と鼻息を鳴らして、本の世界に戻ってしまった。
よく見てみると、少女の耳がほんのりと赤くなっていることにアーチーは気がついた。
(こ、これはどっちだ。怒ってるのか、軽蔑してるのか、呆れてるのか…?)
暫くして、階段を駆け上る足音が聞こえて来た。パラティアは咄嗟に本を傍にやると、身構えた。
「なあ、扉を開けて。ジュードの兄ちゃんに頼まれたんやけど」
聞き覚えのある子供声だった。アーチーはパラティアを伺った。彼女が警戒を解かないまま頷くと、青年はゆっくりと扉を開けた。
途端、何とも言えない匂いが部屋に満ちた。アーチー達を街に入れてくれた子供が、器用に大皿を両手と、腕に乗せながら入って来た。敵ではなく、晩飯がやって来た。
「兄ちゃんは後から来るで」
ピラフのようなものに、野菜炒め、こんがり焼いた鶏肉、揚げパン。ハレルヤ! アーチーの腹の虫も、寛大な神を讃えた。
「ご苦労様」パラティアが駄賃を渡そうとすると、子供は首を横に振った。
「もうもろてるから」
「そう、だったら食べていきなさいよ。ジュードが来たって、この量は全員じゃ無理よ」
(文句ないでしょ?)パラティアの眼が、そう言いながらのアーチーの顔を見た。幸福は、分け合わなねばなるまい。できる範囲で。
青年が快く頷いたのをみて、子供は大喜びした。
「ありがとう。あんたらに、神様の祝福がありますように!」
「ゆっくり食べなさい。喉を詰まらせないで。ところで、あなたの名前はなんて言うの」
「ふぁしのはまえは、ろふぁふぁ」
「物を含みながら口を利かないの。よろしくね、ロタハ」
(凄いな、今ので名前が分かったのか…)相手が子供だと、パラティアはまるで慈母のようだった。(ああ、俺も子供だったらなあ!)
やがてジュードも帰って来た。背中に大きな荷物を背負い、手には瀟洒な瓶と、コップを4つ持っていた。ロタハが席に加わることを最初から分かっていたらしい。
「ひゃあ、じゅーふぉ。ふぁきにひゃじめふぇるよ」
これはアーチーで、ロタハでは無かった。
「遅くなってしまいました。船の都合が中々付かなくて」
(船?)青年は一瞬驚いたが、直ぐに納得した。(ああ、そうだよな。港町まで来たら、今度は船に乗る。子供だってそれぐらいのことは分かる)
「今更ですが、アーチー。我々はこれより船に乗って、東方へ向かいます。行き先は、帝国です」
(帝国? へえ、成程ね。しかし美味い飯だなあ)
「良いな、パラティア?」
「聞いてどうするのよ。異教徒の国に行くなんて死ぬほど嫌。でもしょうがないじゃない。この国じゃ、碌に訓練も出来ないのよ」
「船なら、うちに言ってくれたら良かったのに。うちだって立派な船を持ってんねんで! ご飯を食べさせて貰ったよしみで、安くしといたのに」
「ハハハ」とジュード。「また今度な」
見かけの割(7、8歳に見える)にしっかりしているロタハだったが、案外子供っぽい所もあるようだった。船とはどうせ、おもちゃのことだろう。
「所で、どうしてそんなに船が見つからなかったのよ」パラティア。
「また海に魔物が出るようになったらしい。誰も船を出したがらなかった」
(へえ、魔物…。魔物ね。ま、魔物? ま、ま、ま、ま…)
「ま、ま、ま…」
「ふうん。護教騎士団の馬鹿共、戦う相手を間違ってるわ」
「ま、ま、ま…」
「一度船を出してしまえば、奴らは追ってこないだろう。魔物は、まあ天の慈悲に縋るしかない」
「ま、ま、ま…」
「皆腰抜けやねん。うちだったらすぐに船を出すのに」
「ま、ま、ま…」
「あんた、うるさいわよ。喉に詰まったんなら、水を飲みなさい」
青年は言われた通り水を飲んだ。どうやら落ち着いたようだった。それにしても、美味な夕食であった。
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