後編

「あのぉ〜」


 見知らぬ老人に声を掛けられたのは、X地区に残る線路上を歩いていた時だった。もちろん電車なんて走っていない。春が来て草がぼうぼうにのさばり、他所の人が見たら山奥の廃線と言われても分からないだろう。


 そこに仙人のような老人が、のろのろと近付いて来たのだ。山側に視線を向けると、流された家々の基礎コンクリートだけが立ち並んでいる。そこから数メートルくらい上に、数軒の家が無傷で残っていた。きっとあの家の住人に違いない。


「あんた、学生だろう? 大学生?」


「はい、そうです。東京から」


 そう答えるや否や、老人は僕の目の前にDVDの円盤を差し出して来た。四角いケースに入ったそれには、何が記録されているのかメモもされていない。真っ白だ。


「3月11日。ビデオ回すしか出来なかった。でも持ってるのも耐えられん。預かっといてくれ」


 絞り出すような声で頭を下げる老人。両手で捧げられたDVD。思わずこちらも両手に取っていた。


「中身は見ても見なくても良い」


 それだけ告げると、老人は去ってゆく。老人の向かう家から、入れ替わりで中年女性が1人出て来る。その人は老人に一言二言話し掛けると、こちらへ足早に近付いてきた。


「ごめんなさいね。ご迷惑でなかったら、大学か何処かで保管しておいてくれませんか? 学生ボランティアさんがうろうろしてるの見て、お父さん、ずっとそわそわしてたんです」


「自分で……よろしければ。でも良いんですか?」


「テレビ局なんかに渡せないのよ」


「……」


「録画には津波しか映ってないんだけどねえ。思い出すから」


 思い出す。振り返って瓦礫の山に視線を移す。あちこち黒くくすんでいる。


「ここ火事になったでしょう? 私は戦争なんて知らないけどね。空襲の後ってこんな感じかなあって思ったよ。そこの電柱」


 女性に言われて電柱が焼け残っていることに初めて気付く。電線もあまり切れていないようだ。


「津波被ったのに電線も電柱も無事だったでしょう。だからね。津波が下がった後、何人か引っ掛かっちゃっててね」


 何人か引っ掛かっちゃってという意味を理解するのに、そんなに時間は掛からなかった。鳥の鳴き声が聞こえる。


「でも私たち、誰も下ろせなかったの。朝になったらカラスが来てね。でも誰もカラスを追い払えなかったの。私たちの家、たった数メートル高かっただけなのにね。残っちゃったのよ」


「それは……」


 助かって良かったですね。などと言えなかった。今まで避難所の人々に、滝川のお母さんに、自分はなんと無関心だったのだろう。


「これは、責任を持ってお預かりします」


 いつ返すのかも分からない約束をして、僕はその場からそっと離れた。


 気が付くと、看板も何もかも流されたX駅に着いていた。今はコンクリートのホームと線路しか残っていない。


 そのホームの縁に、女学生が制服の袖をめくり腰掛けている。学校がなくても制服を着ている学生を良く見掛ける。彼女は脚をぶらぶらさせながら、来るはずのない通学電車を待っているように思えた。


「みーんな失くなっちゃったもんね。ぜーんぶ失くなっちゃったよ」


 滝川のお母さんは毎年同じことを言う。僕は毎年3月、お母さんに会いに行く。コロナ禍が始まる前まで、それは続いた。



***



 202X年3月。


「ええ。コロナもようやく終わりそうですし、今年はまた前みたいに伺わせて下さい。奥さん? うーん、一緒に行くかどうか聞いてみます」


 あの一線は消えない。それでも癒える日が来るだろうか。結局、DVDの中身はまだ確かめていない。それでも僕は、また滝川のお母さんに会いにゆくのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一線上のアリア 空良 明苓呼(別名めだか) @dashimakimedaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ