誰もが、わたくしの才を惜しんだ。


『男に生まれていれば』と、実の親さえもがなげいた。


 そんな中で、ただ一人だけ。


「男だ女だ、クソくだらねぇな」


 誰からもその才を恐れられ、敬われたその人だけが、わたくしを真っ直ぐに見据えてそう言い切った。


「その才を本気で惜しんでるっつーなら、女であっても才を発揮できる場を作り出せばいいだけだろうが。うちにはそれだけのことができる頭も、権力も、地位も、金も、腐らせてもあり余ってるくらい集まってんだろうがよ」


 言葉に愛想は欠片もなく、突き放す口調は取り付く島もない。


 だけどわたくしの頭を撫でてくれた大きな手は、温かくて優しかった。自分にも他人にも誰よりも厳しかったその人は、もちろんわたくしにも厳しかったけれど、同時に誰よりもわたくしを理解してくれる人だった。


「手始めにこいつは、俺が引き受ける。『司書』として、俺が弟子に取る」


 そう言って手を取ってもらった時に、わたくしは『蒼鈴そうりん』になった。


 実の息子よりも、他の孫よりも、誰よりも『未榻みとう』の後継として相応しいと、わたくしを誰よりも理解してくれた人が、認めてくれた。


「俺がこいつをしごき終わるまでに、お前達はしのごの言わずにこいつが『未榻』として立てる場所を用意しておけ。……アァ? 知らねぇよ、宮廷の小難しいことなんてよ。俺が知ったことか」


 まぁ、全てはこいつが俺が認めるに足る水準まで育つかどうかだけどな。


「俺は厳しいぞ。身内に対しては特にな」


 それでもやるな? と、わたくしの手を取って歩き始めてから問いかけてきた祖父は、常と変わらず厳しい顔でわたくしを見下ろしていたけれども。


「ぞんじております、おじいさま……いえ」


 わたくしがまだたどたどしかった言葉で、それでも精一杯威儀を正して答えた言葉には。


「本日より、ごしどうごべんたつのほど、よろしくお願いもうしあげます、お師匠さま」


 厳しさと涼やかさを目元に残したまま、口元にだけ淡く笑みを浮かべて。


 わたくしの師は、とてもとても嬉しそうにワシワシと、容赦なくわたくしの頭を撫でてくれたのだった。




  ※  ※  ※




 面倒事を全て綺麗に片付けるまでに少々時間を取られてしまい、蒼鈴が宮廷書庫室に帰還した時には周囲が薄暮の中に沈み始めていた。真昼でも薄闇がとばりを降ろす書庫室は、外よりも一足早く闇と静寂に包み込まれている。


 その中に燭台の灯りが揺れているのを見た蒼鈴は、ハッと息を呑むと小走りに書庫室の中へ駆け込んだ。そんな蒼鈴の気配を掴んでいたのか、卓について書類に筆を走らせていたその人は、顔を上げるとニコリと蒼鈴に笑いかける。


「お帰り、蒼鈴」

「ただ今戻りました、書庫長」


 未榻瑶珪ようけい書庫長。


 実の父にして上司である瑶珪に対し帰還の挨拶を述べた蒼鈴は、次いで両手を胸の前で重ねて頭を下げると己の不手際を侘びた。


「留守居を申し付かっていながら、書庫室を無人にしてしまいました。申し訳ございません」

「大丈夫、気にしてないよ。お前がそうすべきだと判断したならば、必要な行動だったのだろう」


 穏やかに返された言葉に、蒼鈴はソロリと顔を上げた。表情をうかがってみても、瑶珪は声音と同じ穏やかな笑みを広げている。


 三兄弟の中で、瑶珪は一番母親に似たと言われているらしい。確かに父親である甜珪てんけいは誰に対してでも厳しく苛烈な性格で知られているから、この穏やかさを前にすれば『あぁ、母親に似たのだな』と考えたくなるのも仕方がないことだと蒼鈴も思う。


 ──しかし、わたくしに言わせれば。


「それで? どうだったかな、御史台ぎょしだいは」


 その表情を崩すことなく、瑶珪はスルリと蒼鈴の間合いに切り込んだ。なぜそれを、と蒼鈴が一瞬息を詰めたのに対し、瑶珪はコトリと静かに筆を置いただけでその穏やかな笑みは微塵も揺らがない。


 そんな瑶珪の様子に、蒼鈴はスッと目をすがめた。


 ──穏やかさに隠した牙の鋭さは、誰よりも御祖父様おじいさまに近い。


 これが『未榻』だ。父が本当に母親似であるならば、父は恐らく『未榻』の姓を継いではいない。


「……御史台に『華玉かぎょく問答集もんどうしゅう』の情報を流したのは、書庫長でしたか」

「私が、というよりも、私の奏上を受けた陛下と胡吊祇うつりぎ内史令……れい兄上のご判断だね」

「陛下の御前に、三兄弟が揃ったのですか?」

「ああ。玲兄上とりん兄上だけでは判断がつかったから私が呼ばれたようだったね」

「皇帝書番の仕事とうかがっておりましたが。実際の所は『御意見番』、さらに『未榻』としての呼び出しも含めて、でございましたか」


 淡々と問いかける蒼鈴の言葉に瑶珪はゆったりと口元の笑みを深めた。その笑みの中には蒼鈴を試すような色が垣間見える。


「わざわざ問わずとも、もうすでにお前にはが読めているのだろう?」


 その変化に蒼鈴はグッと唇を噛み締めた。ただでさえ薄い表情をさらに意図して消せば、まるでその分の感情を引き受けたかのように瑶珪はさらに笑みを深める。


 ──そもそも御史台が『華玉問答集』に行き着けたという部分からして疑問だった。


 恐らく中書省内史令としてまつりごとの中枢にいる一番上の伯父は、この事件の首謀者が神祇部じんぎぶ尚書で、狙いが他の三姓家の権威の失墜にあるということをかなり早い段階から掴んでいたのだろう。


 それでもしばらく放置していたのは、神祇部尚書では胡吊祇家にかすり傷ひとつ付けることはできないと知っていたからだ。


 不正は犯す方が悪い。もっと言うならば、その証拠を誰かに掴まれるような形で犯した馬鹿が悪い。


 玻麗と歴史をともにする胡吊祇が、誰かに尻尾を掴まれるような形で不正を犯すような馬鹿な真似をするはずがない。胡吊祇の闇は、闇に気付いた者さえをも捕食してその存在ごと飲み込む、人知れずに広がる底なし沼なのだから。


 ──玲伯父上が問題視したのは、恐らく『玉連ぎょくれん黄珠おうじゅ』。


『華玉問答集』に収められた詩で訴え出ることができた三姓九家の『罪』はおおむねどの家も事実ではあるが、唯一波洲羽はすばの后の不義密通だけは冤罪だ。


 かつて不義密通の疑いをかけられたのは別の后であって、現在の后ではない。不義の子とされたのも別の人間だ。


 実際に疑いがかけられて処断されたのは、当代陛下がまだ皇太子であった頃、異例として二文字姓の家から正后として召し上げられた后と、その后が産んだ男児のことである。その男児が皇太子の正式な嫡男とされていたから、『后』と『太子』が混ざってそんな噂が出来上がってしまったのだろう。


 そして真に断罪されるべきである元后は、すでにこの世にいない。かつて『太子』と呼ばれた子供も、実家の血族も、誰もこの世に存在していないはずだ。


 17年前、後宮の端に追いやられていた后親子と、都の端に追いやられていた后の実家は、何者かの襲撃を受け無惨にも全員が命を刈り取られたのだから。


 ──……と、いうことになっている。


 蒼鈴はそっと瞳を伏せると、先程まで行動をともにしていた青年の姿を思い起こした。


『お前、罪を暴いて遊ぶことが目的ではないだろうな?』


 妃の不義密通疑惑の話が出た時、彼の心に一際強く動揺の波が走った。袖の中で震える手を必死に握りしめていたことも、蒼鈴は見抜いていた。


 御史台の任について語る時に見えた芯は、ただただ任に忠実であれという心だけから生まれた物ではない。まるで己が着実に任を果たせば、己自身を救ってやれるとでも思っているかのような。そんな一種の強迫観念がそこにあると、蒼鈴は読んだ。


 ──以前チラリと、御史台が陛下の御落胤を隠し持っているかもしれないという話は、耳にしたような気もしましたが。


 17年前に殺された『太子』が生きていれば、今年22歳になる。年格好から言っても齟齬はない。


 何より。


「うん?」

漣烏れんうの后の不義密通は、本当に事実だったのですか?」


 瞳を上げて新たな問いを投げると、瑶珪は浮かべていた笑みの種類を変えた。


 瑶珪は蒼鈴が唐突に投げかけた問いの意味をきちんと理解できている。蒼鈴の思考がどう動き、どこに行き着いたからその問いが出たのかを理解した上で、底知れない笑みを浮かべている。


 底が知れないのに心底面白がっているとも分かる声音で、瑶珪は蒼鈴に問いかけた。


「お前はどう解いた?」

「冤罪です」


 淡々と、深々と。


 そうでありながら凛と玲瓏な声音で。


「あんなに生き写しであるのに、不義の子などとは馬鹿馬鹿しい」


 胡吊祇と皇帝家は血縁関係にある。瑶珪から見ると当代皇帝は母方の従兄弟だ。先代、当代と二代に渡り陰ながら未榻甜珪を頼りにしてきた縁もあり、蒼鈴は甜珪の後継者として直接当代皇帝に目通りがかなったことがある。


 先程まで行動を共にしていたあの監査官は、まさに当代陛下の生き写しであった。


 ──まぁ、中身は彼の方が腑抜けた感はありましたけれども。


 その一言は胸にしまい込み、蒼鈴は答えをために瑶珪を見遣る。


 瑶珪は蒼鈴が断じた言葉に直接答えることはなかった。ただ満足げにキュッと、唇の端が吊り上がる。


 そして脈絡もなく問いを投げた。


「お前の目に、御史台は適いそうかい?」


 その問いに蒼鈴は微かに眉を寄せた。珍しく蒼鈴が表情を動かした所を見た瑶珪は、卓に片肘を載せながら小首を傾げる。


「お前が書庫室を放り出してでも協力してやる相手なんて、そうそう現れるものじゃないだろう」

「おたわむれを。わたくしは哀れな書を助けるために動いただけ。のために動いたわけではありません」


 己はただの司書であると心得よ。


 我らの知識も頭脳も、ただ司書としての勤めを果たすためだけに使え。


 甜珪が蒼鈴にそう叩き込んだのは、この宮廷書庫室に集まる情報と自分達の頭脳を駆使すれば何もかもを自由に狂わせることができると知っていたからだ。『未榻甜珪』という類稀な才人にどれだけ邪魔な羽虫がたかろうとしたか、それがどれだけ鬱陶しいものであったかは、祖父母に加えて息子である瑶珪からもことあるごとに聞かされて育った。


 目の前の事象をただ観察しただけで読み解けてしまう自分達にとって、周囲を取り巻く人間達はあまりにも醜悪な生き物だ。生まれた家と持ち合わせた才のせいでこの世界から縁が切れず、仕方なくこの場所で生きてはいるものの、正直言ってそんな醜悪なやからとは関わりたくない。


 ほんのわずかにいる自分の大切な人達と、美しい世界を自分の中に生んでくれる書と。それだけを守るために蒼鈴はここで己の才を振るっている。


 だけども。


「……ただし、あれの心意気だけは、気に入りました」


『ただただ罪を暴いて遊んでいる愉快犯と、我ら御史台を同列に語られるのは不愉快だ』


 あの啖呵たんかだけは、良かった。


 聞いた瞬間に、スッと胸に清涼な風が吹き抜けたような心地がしたから。


「あれが頭を下げて助けを求めてくるならば。……また手伝ってやることも、やぶさかではございません」


 そう答えた蒼鈴は、うっすらと口元に笑みをいてみせた。


 宮廷書庫室は、宮廷と言わず、都中の機密情報が集う場所。


 その主は、宮廷の情報を掌握する者。


 嘘をまことにすることも、真を嘘にすることも。どこへその情報を渡し、どこからその情報を遮断するかも。情報を、知識を、助力を請う者の手を取るか拒むかも。


 全部、全部、宮廷書庫室書庫長の采配次第。


 ゆえに宮廷の闇の深さを知る人間は揃ってこう口にするのだ。


宮廷書庫室未榻だけは、決して敵に回すな』と。


 蒼鈴は正真正銘、その宮廷書庫室の次代の主だ。誰にも文句など言わせない。


「……そう」


 静かにまぶたを下ろして呟いた瑶珪は、それ以上の言葉を口にしなかった。


 ただ満足そうな笑みだけが口元を満たす。


「そういえば蒼鈴。実は先程までここに父上が来ていてね」

「えっ!?」


 そして不意に瑶珪は話の矛先を変えた。その急な方向転換の意図を探るよりも早く、蒼鈴は思わずパッと顔を輝かせる。


「実は私よりも先にここで留守番をしていてくださったのは父上だったんだよ。蒼鈴に会いに来たついでに本を読みに来たって言ってたけれど」

「おじっ……大師はっ!? 大師は今どちらにっ!? もうお帰りになられてしまったのですかっ!?」


 敬愛する祖父が会いにきてくれていたと告げられた蒼鈴は、思わず身を乗り出して瑶珪に詰め寄る。嬉しさと、すれ違いになってしまった悲しさと、まだ急いで後を追えば追いつけるかという焦りに崩れそうになる顔を必死に引き締めているつもりなのだが、ソワソワと落ち着きがなくなった空気に内心がだだ漏れている気がしてならない。


五剣いつるぎ退魔長と琳兄上に、ここにいることを探知されてしまったらしくてね。私がここに戻ってきた時には束になった召喚の式文をせっせと処分していたけれど、最終的には『無視すると後々までうるさいから』って、仕方なく退魔省に顔を出しに行ったよ」


 そんな末娘の様子に柔らかく笑み崩れた瑶珪は、手を伸ばしてポンポンと蒼鈴の頭を叩くと再び筆を手に取った。


「今日はもう上がりなさい。退魔省に父上を迎えに行って、久しぶりに胡吊祇の屋敷に泊まってくるといい」

「ですが」

「父上がここに顔を出したのは、どうにも『彩雲さいうん剣伝けんでん』の続きについてお前と語り合いたかったかららしくてね。お互いに語り始めたら長いだろう。明日は公休にしておくから、久しぶりに師弟水入らずで語り明かしてきなさい」


 そこまで言われてしまっては、もはやうずく心は止められない。


 本格的に出仕を始めてからは、祖父とゆっくり書の話をする機会もなかった。父である瑶珪が許し、わざわざ甜珪自身が蒼鈴を迎えに来てくれたというならば、蒼鈴だってその心遣いを思いっきり受け取りたい。


「ありがたくお言葉に従わさせていただきます」

「うん。母上によろしく伝えてくれ。迎えに行く時に顔を出すとも」

「はい」


『お先に失礼致します』と告げて一礼すると、瑶珪は『お疲れさま』と柔らかく返してくれた。


 その声にペコリともう一度礼を返し、蒼鈴は足早に書庫を後にする。


 いつになく素早いその足取りを見送った瑶珪が、苦笑を浮かべながらひとりごちた声は、あえて聞かなかった振りをした。


「まったく……。ああしている分には『仙女』などではなく、年相応の愛らしい娘なんだがな」


 ──別に、意図して振る舞いを分けているつもりはございませんが。


 胸中で一言だけ反論を口にし、蒼鈴はポンッと書庫を飛び出す。


 かくして『宮廷書庫室の仙女司書』は本日の勤めを終え、敬愛する師を迎えに行くべく薄暮の中を駆け出したのだった。


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