玻麗はれい最強の退魔師として名を馳せた後、『宮廷書庫室中興の祖』と呼ばれることになる辣腕を振るった未榻みとう甜珪てんけいは、かつてより交流があった胡吊祇うつりぎ家に是非にと請われ、胡吊祇の姫との結婚という形で胡吊祇の家に入った。


 世間から見ると見事に逆玉を決めた形であるが、未榻甜珪本人はどこまでも地位や名声に興味がない性質たちであったらしい。数々の伝説を打ち立て『生きながらにヒトをやめている』とまで言われた御仁は、やはり世間一般から見るとどこか浮世離れした人物だったのだろう。


 そんな未榻甜珪には、三人の息子がいる。


 息子達が成長し、それぞれの仕官先で根を張った頃、未榻甜珪は全てを息子達に譲ってさっさと隠居することを決めた。一説によると彼には何やらなるべく早く一線を退きたかった理由があったらしい。


 その際、未榻甜珪は息子達の望みと素質を鑑み、己が保有していた権力を三つに分けてそれぞれに与えたという。


 曰く、策略に長けた長男には、三姓筆頭貴族・胡吊祇の姓と、それにまつわる全ての権限を。


 退魔師としての才を示した次男には、己に与えられていた最上位退魔師としての称号『琥珀菊花』から二文字を抜き出して『珀菊はくひ』の姓と、保有していた数々の呪具を。


 そして司書として宮廷書庫室に仕官していた三男には、胡吊祇の家に入ってからも使い続けていた『未榻』の姓と、書庫長の座を。


 ──そう、だから『未榻』は『胡吊祇』の縁者だ。


 仙女の名乗りを耳にした浚明しゅんめいは、水を打ったかのように広がる静寂に身を沈めながらも思考を回し続ける。


 ──だが未榻は自ら貴族としての権力を手放した家。本来ならば青を纏える家ではない。


「……ハッ! 三兄弟の中で一番絞りカスしか与えられなかった末息子の家系が何を偉そうに」


 同じことを尚書も思ったのだろう。仙女が放つ圧に押されて言葉を失っていた尚書は、嘲笑を口元にくと再び口を開く。


「未榻は胡吊祇の縁者であっても三姓ではないっ! ましてや当主でもない……女である時点で当主を継ぐ資格もない小娘が、三姓家・御寿頭みすずの当主たる私にさかしらな口を叩けると思うなっ!!」

「確かにわたくしは当主ではございません。胡吊祇本家の人間でもない。ですが」


 仙女はあっさりと尚書の言葉を肯定した。だがその瞳に宿る苛烈な光はより鋭さを増して尚書を射抜く。


「わたくしに当主を継ぐ資格がないだの、青を纏う資格がないだのと、なぜお前に判じられなければならないのでしょうか?」

「何っ!?」

「我が師にして祖父たる未榻甜珪は、胡吊祇甜珪と名を変えた後も宮廷では『未榻』の姓を名乗り続けました。その意図する所は、官吏としての己はあくまで『胡吊祇』ではなく『未榻』であるという矜持にございます」


 凛とした声は、決して大きくもなければ、強い語調を帯びているわけでもない。だというのに神祇部主室の空気は完全に仙女の支配下に置かれている。


「未榻甜珪は、己の後継足り得ると認めた司書にしか『未榻』の名乗りを許しておりません。未榻の血を引くは他にもおりますが、『未榻の名乗りを許された』は、わたくしと父……当代書庫長、未榻瑶珪ようけいのみです」


 ここまで言われればお前にも意味は理解できるでしょう、と仙女は淡々と、それこそ書庫室で浚明と初めて顔を合わせた時から変わらない口調で言い放った。


「わたくしの名は蒼鈴そうりん。祖父にして偉大なる師である未榻甜珪より『未榻』の名乗りを、祖母にして国一の貴婦人である胡吊祇玲鈴れいりんより『胡吊祇の青』を賜った、宮廷書庫室の次代の主です」


 玲瓏な声に怯えたかのように、一瞬主室の空気が震えたような心地がした。その震えさえをも従えて、仙女……蒼鈴はひたと尚書に視線を据える。


「さて。少しはその無駄にうるさい口を閉じてわたくしの話を聴く気になりましたか?」


 たかが小娘一人。その事実は最初から変わっていない。


 だというのに今、この部屋の中には誰も彼女には逆らえないという空気が充満している。あれだけ蒼鈴に噛み付いていた尚書さえ、喉元に刃を突き付けられたかのように黙り込むことしかできない。


「わたくしがこの一連の告発文事件に違和感を覚えたきっかけは、告発文があえて『華玉かぎょく問答集もんどうしゅう』に収められたうたをもじって作られていたという部分でした」


 蒼鈴は尚書から視線を逸らさないままスルリと襟元に指を滑らせた。上衣の襟の合わせ目から抜き出されたのは、書庫室で浚明の懐から回収された『華玉問答集』だ。


「雅やかではありますが、まどろっこしい方法です。ましてや『華玉問答集』は有名な歌集ではない。詩歌を用いることで広く人々の関心を集めたいならば、もっと知られた詩を用いた方が効果的です。使える詩が見つからなかった、などということはございませんでしょう」


 題字が書き込まれた表紙を尚書へ示しながら、蒼鈴はスッとわずかに瞳をすがめた。たったそれだけで蒼鈴の周囲の空気が温度を下げる。 


「そもそもこの歌集は三姓家の宣誓を当代陛下へ献上するために編纂された物であって、元々世に広く普及させるために纏められた物ではない。編纂された当時こそ三姓九家が己をうたった歌集が整えられたと話題になりましたが、すぐに人々から忘れ去られました」


 ──宣誓?


 初めて耳にした話に浚明は内心だけで首を傾げる。対して尚書はその経緯を承知だったのか、グッと苦虫を噛み潰すような顔で蒼鈴を睨み付けた。


 受けただけで射殺されそうな尚書の視線をまばたきひとつで軽やかに受け流した蒼鈴は、部屋の最奥に紛れ込んでいる浚明にチラリと視線を流すと淡々と説明を口にする。


「この歌集に収められた詩は、先代陛下の御代の終わり、とある宴で九家が顔を揃えた際、陛下が余興として『今ここでそれぞれおのが家の矜持を謳え』とお命じになられたのを受けて、時の九家当主が献じた詩でございます」


 戸部こぶを預かる加夏彌かかみは『黄金の海のように広がる美しい畑の実りを守り献じることこそ、国を守る我が一族の誇り』と答え『東見とうけん金海きんう』の詩を。


 吏部りぶを預かる氷師季ひしきは、柳の緑も花の赤もそれぞれが違って美しいことを引き合いに出し、『適材適所、玉の原石たる人材を見逃さない差配をお約束致します』と答え『緑柳りょくりゅう笑花しょうか』の詩を。


 門下省を預かる朱己迺すきのは『身の貴賤を問わず、誰にでも公正に紙と筆をって道を開くぎょうる』と答え『白紙はくし墨客ぼっかく』の詩を。


 他の三姓家もそれぞれ己が家の預かる領分に関して詩を創り上げ、皇帝に献じた。先帝はその内容と詩の出来映えに大変満足し『さすがは三姓九家は別格よ』と人々は褒め称えた。


 宴は盛況のまま終わり、その華やかさと三姓九家が献じた詩は後々まで語り継がれることになるはずだった。


 その数日後に先帝が没し、国中が喪に服すことにならなければ。


「せっかくの詩が時の流れにかき消されてしまうのは勿体ない。そうお考えになられた胡吊祇の大旦那様……わたくしの曽祖父にあたる胡吊祇藍宵らんしょうが、後日その詩を一冊の歌集に纏め、新たに即位した当代陛下へ献上されたのです。『我ら三姓九家、時に相反することがあろうとも、各々おのおのの矜持の下、各々の立場より、新帝陛下へ誠心誠意お仕えすることをここに宣誓致します』と、寿ことほぎの宣誓へと昇華したのでございます」


 それがこの『華玉問答集』の背景。今となっては当事者と司書しか知らない、この『書』が抱えた成り立ち。


 ──一冊の書が成立するまでに、そんな物語があったなんて。


 浚明は初めて耳にした……己が知ろうともしなかった物語に思わず素直に目をみはる。


 そんな浚明にもう一度チラリと視線を向けてから、蒼鈴は改めて尚書に視線を据え直した。その瞳には浚明が書庫室で『仙女の逆鱗』を踏み抜いた際に吹き荒れた氷雪のごとき冷気が湛えられている。


「だというのにお前は、三姓九家全ての家名が織り込まれていて都合が良いというだけで、この作品に織り込まれた矜持を穢しましたね? 大方、最後には『全ての告発文が「華玉問答集」に収められた詩から取られているならば、編纂に関わった胡吊祇が一番怪しいに決まっている』などと難癖をつけて、証拠のひとつやふたつくらいでっち上げた上で全てを胡吊祇になすり付けるつもりだったのでしょう」


 ──これは……胡吊祇が犯人にされそうになったから激怒している……わけではないな?


 口調や声音が変わらずとも、蒼鈴の激昂は場にいる全員が察したようだった。蒼鈴に近い位置にいる神祇部の神官達は、まるで首を締められているかのように顔を引きらせながらヨロヨロと後退あとずさっている。


 だが蒼鈴はそんな小物達のことなど目の端にさえ入れていない。怒れる司書は『書』に危難を加えた犯人のみに真っ直ぐに殺意を向けている。


「し、証拠は……っ!!」


 その圧と鋭さは、三姓当主として暴虐の限りを尽くした尚書でさえ跳ね返せるものではなかったのだろう。裏返った声を上げた尚書は己の喉がいかに情けない声を上げたかを自覚したのか、カッと顔を朱に染めながら怒声を上げ直す。


「お前が言うことを裏付ける証拠がどこにあると言うんだっ!!」

「証拠? ありますでしょう、そこに」


 蒼鈴は尚書に視線を置いたまま真っ直ぐに浚明を指差した。その瞬間、部屋の中にいた人間の視線が浚明へ集中する。


「ネタ元にするためにお前が拉致を指示した人間がこうしてここにいるのです。お前の所業は彼が証言致します。一連の事件の証拠がすぐに見つからずとも、ひとまずお前と実行犯の二人を暴行・拉致監禁容疑でしょっ引くには十分でしょう。余罪を叩くいとまは、牢にぶち込めばいくらでもございます」


 ──おいおいおいおい!


 いきなり展開された暴論と己に集中した視線に浚明の顔が引き攣る。


 確かに今すぐ密告文の制作者が尚書を始めとした神祇部であったと具体的に示す証拠を提示することは難しい。


 しかし仲間に引き込まれていた扶桑ふそう陳蘭ちんらんは大人しく浚明に捕縛されるという意志を示した。陳蘭の証言と、陳蘭と沙潤さじゅんのやり取りを聞いていた浚明の証言があれば、ひとまず神祇部の人間を『事件関与の疑いあり』として十把一絡げに捕縛することはできるはずだ。


 そして陳蘭の協力があれば、具体的な証拠を探し出すことも難くはないだろう。更に言うならば尚書や沙潤さじゅん自身が自らの罪を自供してくれるならば手っ取り早くて助かる。まあここまでの経緯からして、そんなに都合の良い展開があるはずはないのだが。


 とにかく、最悪の場合はその辺りの証言や証拠が揃わずとも、沙潤が浚明を暴行した後に拉致したことは浚明の証言だけで十分に証明可能だ。ひとまず沙潤を捕縛することも、尚書を重要参考人として引っ立てることも、浚明の権力を用いれば実行可能である。


 しかし。しかし、だ。


 ──それよりもお前が理論整然と尚書を追い詰めて、この場にいる人間を全員納得させた上で尚書の心をバッキバキにへし折り、尚書が自主的に縛についてくれるような展開に持っていってもらうのが一番穏便かつ望ましいんだが……っ!!


「常々公言しております。『わたくし達「未榻」は、世事の徒然つれづれになんぞ興味はございません』と」


 距離が離れていても、蒼鈴には変わることなく浚明の内心が手に取るように分かっているのだろう。つれなく言い放った蒼鈴は浚明から尚書へ視線を引き戻すと、おもむろに『華玉問答集』を襟の合わせ目にしまい込んだ。


 それからゆっくりと、気負うことなく足を前へ進め始める。


「不正を働くことも自業自得。そんなやからをのさばらせた連中も自業自得。どう暴かれようが、それで世の中がどう乱れようが、全て自業自得」


 不正は犯す方が悪い。


 犯すならば犯すで、尻尾を掴ませるような犯し方をする馬鹿が悪い。


「ですから、わたくしはその辺りがどう裁かれようが、どういう結末を迎えようがどうでもいい」


 カツリ、コツリという軽やかな足音が不穏に響き渡る。


 そう、不穏。


 音自体は軽やかな少女の足音と何ら変わりがないのに、なぜか蒼鈴の足音は不穏なものとしてこの場にいる人間達の耳を叩く。その不穏さに凍り付いた誰もが……尚書に従う神祇部の神官達も、蒼鈴の視線に射竦められた尚書当人も、蒼鈴の歩みを阻むことができない。


「わたくしが許せないのはただ一点だけ。お前の愚行で危うく貴重な書がこの世から消されそうになったという一点のみです」


 誰にも阻まれることなく尚書の前に立った蒼鈴は、スルリと尚書の懐に入り込むと実に無造作に腕を伸ばした。


 その指先はあろうことか尚書の喉にかかり、白魚のような指先は一切容赦なく尚書の喉を潰しにかかる。


「!?」

「グッ!?」

「お前、先程『未榻』を『三兄弟の中で一番絞りカスしか与えられなかった末息子の家系』と言いましたね」


 突然の凶行に誰もが恐怖に凍り付いて動くことができなかった。御史台隠密監査官として突発的な事態に慣れ親しんでいるはずである浚明までも、だ。


 その静寂の中に、蒼鈴はこんな時でも一切語調が変わらない淡々とした声を置いていく。


。我ら『未榻』は、『未榻甜珪』が何もかもを手放した後にも手放せなかった、その魂の真髄、その矜持を引き継いだ唯一の家でございます」


 小さい手のひらと細い指でどうやって大の男の喉を捕らえているのか、恐怖に駆られた尚書が手足を暴れさせても蒼鈴が尚書の喉に掛けた指先はびくともしなかった。脈と気道、両方が潰されかけているのか、尚書は濁った呻き声をあげながら徐々に顔を鬱血させていく。


「未榻甜珪は長男と次男、それぞれに無条件で三姓筆頭・胡吊祇の名と、最高位退魔師の地位を譲り渡しました。しかし三男に『未榻』と書庫長を継がせる時のみ、未榻甜珪は厳しい試験を課した」


 それを目の前にしていながら、蒼鈴は一切の感情をその麗しいかんばせにじませていなかった。苛烈に瞳を輝かせていながら静謐な表情を保った今の蒼鈴の姿は、『仙女』と形容するよりも『修羅』や『羅刹』といった言葉の方がよく似合う。


 その冷たさと苛烈さに、浚明の背筋を氷塊が滑り落ちた。逆にその冷たさが浚明を我に返らせる。


「我ら『未榻』が継承するモノは、ただ血が繋がっており才があれば自動的に継承できるものではございません。三兄弟中、未榻甜珪から何よりも継承が難しいとされたものを実力で継いだのが我が父、そして父と師を実力で黙らせたのがこのわたくしでございます」


 ──このままでは尚書の命が……っ!!


 その様にようやく気付いた浚明が慌てて前へ飛び出す。


 その瞬間、まるで浚明がここで飛び出してくることが分かっていたかのように蒼鈴はパッと尚書の喉から指を離した。ガクリと尻からくずおれた尚書は苦しげに喉を鳴らしながら汚く咳き込む。


「我ら『未榻』を履き違えるなよ、凡人風情が」


 冷たく言い放った『書庫室の仙女』を、尚書はどんな心境で見上げたのだろうか。


 浚明がいる位置からは尚書の顔をうかがい知ることはできない。だが三姓家当主を預かる者として捨て置けない暴言に反射的に顔を上げた尚書が、蒼鈴と視線が合った瞬間恐怖に凍り付いたことだけは分かった。


「我ら『未榻』は『書』と、書という草舟が己が身に乗せて運んできた思いを守るためにある。我らが力はそれらを守ることにのみ振るわれる。我らは世事の徒然には興味はないが、『書』を脅かすモノは我らが持てる全てを以って排除する」


 そんな尚書から、仙女は何を読み取ったのだろうか。


 不意に仙女は、その麗しい顔に笑みを広げた。


 初めて浚明が目撃した彼女の笑顔は、見た者全ての魂を引き抜きそのまま凍て付かせて粉砕するかのような、絶対権力者の冷笑だった。


「宮廷書庫室を敵に回せばどうなるか……お分かりですね?」


 ──あぁ、彼女は。


 初めて蒼鈴と顔を合わせた時、浚明は蒼鈴を『女である』という理由でなじった。女がこんな場所で何をしている、ここは女がいていい場所ではないと糾弾した。


 その愚を、浚明は今更思い知る。


 ──間違いなく、宮廷書庫室の次代のおさだ。




 賢く、美しく、圧倒的でいて底が知れない。そうでありながら『書』にしか興味がない『宮廷書庫室の仙女』。


 浚明に降された密命は、期せず巻き込むことになった彼女の手により、圧倒的な速さと暴力で無理やり『解決』にねじ込まれたのであった。


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