スズキ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅴ――

水涸 木犀

スズキ[theme5:筋肉]

 いつものようにバーの扉を開け、一番奥の席に腰かける。すかさず近づいてきたバーテンダーの塩見しおみに「いつもので」と声をかけてから上着を脱いだ。ついでに上着のポケットからティッシュを取り出して鼻をかむ。

海里かいり、花粉症だったか?」

「いや、いつもの季節性の風邪」

 塩見の問いかけに答えつつ、鼻をすする。どうも季節の変わり目に俺は弱い。特に冬から春、夏から秋の境には必ずと言っていいほど風邪気味になる。時機柄花粉症と間違われやすいのだが、アレルギーは食べ物含め一切ないので、本当に気温の変化に敏感なだけなのだ。今みたいに寒い屋外から暖かい屋内に入ると、必ずと言っていいほど鼻水が垂れてくる。この時期はポケットティッシュが手放せない。

「確かに、海里は学生時代からこの時期いつも鼻かんでたイメージあるわ。もっと体力を付けたらいいんじゃないか? 最近はジョギングとかランニングとか流行っていて、色々便利なグッズも出ているみたいだし」

「いや、身体が弱いのは体質の問題だろ」

 運動が苦手な俺は、適当に言葉を濁す。確かに、体質改善という名でジムのチラシがポストに入っていることはたまにあるが、行こうと思ったことは全くない。金を払ってまでやりたくないことをやろうとは思えない。ジョギングやランニングにしても、仕事帰りの夜走るだけの元気は残っていないのだ。そもそもそれができる体力と気力が備わっているのなら、春や秋に風邪などひかないのだろう。


「そうはいってもな、今は怖い病気とかもあるからさ。ただの風邪も甘く見ない方がいいぞ。海里は一人身なんだから、何かあった時困るだろう?」

「まあな……」

 なおも追及してくる塩見の言葉は正論で、返す言葉が見つからない。独身アラサー会社員として生きていくのであれば、健康第一であることは間違いない。

「外でジョギングが嫌ならさ、家で軽いストレッチとかでもいいんじゃないのか? 今はネットで色々動画が上がっているらしいからな。はいジントニック」

 追い打ちをかけるように、塩見が言葉をかけてくる。言葉ついでに透明な液体の入ったグラスを受取りながら、俺は小さく頷いた。

「まあ、ちょっとは調べてみるよ。俺も好きで風邪ひいてるわけじゃないし」

 そう呟いてジントニックを一口含んだタイミングで、バーの扉が開く。濃い目の茶髪をポニーテールにまとめた、褐色の肌の女性が入ってきた。服の種類はよくわからないが、比較的身体のラインがわかる格好で、かなり引き締まった体格をしているのがわかる。彼女は颯爽と席に着くなり、塩見を見上げて口を開いた。


「今日の日替わり丼って、中身は何ですか?」

「いらっしゃいませ。本日の日替わり丼は、かつ丼となっております」

「じゃあそれと、ホットレモネードで」

「かしこまりました」

 接客モードになった塩見の問いかけに答えると、女性はふうっと息をついて伸びをする。俺の二席隣のカウンター席に座っているので、両手を伸ばしてもぶつからない空間は十分にある。しかしいきなりストレッチを始める人は初めて見た。

「運動されてきたんですか?」

 ホットレモネードを作りながら、塩見が問いかける。女性は思いっきり腕を伸ばしてから頷いた。

「はい。正確にはそのお手伝いですね。私、ジムのインストラクターをやっているんです。ここから自転車で二十分くらいのところにあって。いつもは普通に帰るんですけど、今日は夫と子どもが出かけているので。たまには少し足を伸ばして外食してみようかなと思い立ち寄りました」

 見た目の印象に違わず、女性ははきはきと喋る。しかしジムのインストラクターか。この時期にしては割と薄着なのも、健康的な体格をしているのも納得だ。いやあまり女性の身体を見るのはセクハラになるのか。俺は彼女の横顔をちらりと見るにとどめて、目の前のジントニックに集中した。


「束の間の休息に、当バーを選んでいただき光栄です。それにしてもジムのインストラクターですか。ちょうどそこにいる古なじみに運動した方がいいんじゃないかって言ってたところなんですよ。こちらとしてはタイムリーなお客さんですね」

 塩見の言葉で、女性の関心は俺に向いたようだ。相変わらず塩見は余計なことを言ってくれる。軽く彼を睨むと、にこにことしているだけでノーダメージに見える。コミュ強にこの程度の攻撃は無意味だったようだ。女性は俺のことをちらりと見やる。

「何か、健康に不安がおありなんですか?」

「いえ、特には……」

 女性のイメージはあまり良くないだろうが、この話を長引かせたくない俺はつれない返答をする。代わりに横から塩見が口を挟んできた。

「こいつ、季節の変わり目に必ず風邪ひくんですよ。原因は基礎体力のなさにあるんじゃないかと思って、さっきトレーニングを勧めたんですけど。インドアなせいかいまいち乗ってきてくれなくて。せめて動画サイトを見て家で身体を動かせばと助言したところです」

 塩見の言葉に、女性は大きく頷いている。

「そうですね。今はわかりやすい動画も増えてきていますから。ジムに行くハードルが高いという方は、はじめはそういったものから始めるのもいいのかもしれません。ただ、筋トレをされたい場合は要注意です」

「そうなんですか? あ、こちらホットレモネードです」


 首を傾けつつ白いマグカップを差し出す塩見に会釈をして、女性は言葉を続ける。

「はい。筋トレは自己流で始めると、筋肉を傷めて逆効果になることがあるので。筋力をつけたい場合は、できれば専門のジムに通っていただいて、私たちのような専門家の指導を受けた方がいいですね」

「へぇ。初めて知りました。今度筋トレしたくなったときは検討してみます」

「ええ。その際はぜひうちのジムを、よろしくお願いします」

 女性は立ち上がり、ウエストポーチから名刺を取り出して塩見に差し出した。あなたも気が向かれましたら、と俺にも渡してくる。名刺には俺の家にもたまにチラシが入るジムの名前と、「すずき のぞみ」という彼女の氏名が書かれていた。

「すみません。今名刺を持ち合わせていなくて。ショップカードはあるんですが」

 恐縮する塩見に、女性は笑顔で首を振る。

「これも営業の一環なのでいいんです。私、名刺は持っていますがほとんど使う機会がないので。むしろ二枚も配れてよかったです」

「鱸っていう苗字なんですね」

 俺は思わず口に出していた。声にしてからにやにやしている塩見が視界に入りしまったと思ったが、女性は深く頷いた。

「そうなんです。普通スズキって言ったら、音が鳴る鈴に樹木の木じゃないですか。でも結婚した旦那の苗字が魚の鱸で。珍しくて仕事では覚えてもらいやすいのがいいんですけど、子どもに教えるのが大変なんです」

「確かに、けっこう複雑な字ですよね。お子さんが小さければなかなか書くのに苦労しそうです」

 塩見は大きく頷きながら、厨房へと振り返った。白いボウル皿が二つ、運ばれてくる。


「本日の日替わり丼、かつ丼です」

「ありがとうございます」

 俺は無言で、女性はお礼を言いながらボウル皿を受け取る。分厚いかつはジューシーで、肉汁がしたたり落ちそうだ。一口かぶりつくとサクッとした衣と柔らかい肉が絡み合い、絶妙な味わいを感じさせる。

「たんぱく質の摂取は健康な筋肉を作る基本ですからね。でもなかなか家で揚げるのは大変ですから。今日このお店でいただけてよかったです。美味しいです」

 鱸さんの言葉に、塩見は笑顔で頷く。

「ありがとうございます。さすがインストラクターさんのコメントですね。日替わり丼なので毎日メニューが異なるのですが、今日かつ丼でよかったです」

 俺たちが無心でかつ丼をかき込んでいると、塩見が声をかけてきた。

「鱸さんは、お子さんはおいくつなんですか?」

「小学校五年生になります。未だに鱸のつくりが上手く書けないらしくて、“普通の鈴木がよかった”ってよく言われるんですよ。大人になったら慣れるんでしょうけど、子どもに教えるのは難しいですね」


「鱸のつくり……という字には“ならぶ”という意味があります」

 若干諦観を含んだ鱸さんの言葉に、俺は反射的に反応していた。脳裏に“鱸”の言葉の意味が流れていく。

「スズキはエラの並び方に特徴がある魚です。それで、こういう字になったらしいです。それに、スズキ目の魚は脊椎動物の中でも一番種類が多いですから。日本オーソドックスな鈴木さんは多いですけど、魚の鱸だって生物種としては多数派ですから。“普通の鈴木”がいいって言われたら、魚の鱸だって普遍的な名前だって言えばいいんじゃないですかね」

 思ったことをそのまま口にしてしまったことを若干後悔する。俺には子どもがいない。子どもとの接し方なんて想像もできない。そんな人間がこんな勝手なことを言ってよかったのだろうか。恐る恐る顔を上げると、鱸さんは意表をつかれたような顔をしていた。

「そっか。鱸の漢字の意味を教えるっていう考え方があったんですね。私、普通の鈴木と魚の鱸を比較することばっかり考えていて……ちゃんと意味を教えてあげた方が、子どもは納得するかもしれません。うちの子、理屈っぽいところがあるので」

「確かに理屈っぽいお子さんなら、自分の名前の意味を知った方が文句が出なくなりそうですね」

 頷いている鱸さんに、塩見が相槌を打つ。


「ええ。今度子どもに文句を言われたら、今のお話をしてみようと思います。そもそも自分の苗字の意味を知らなかったなんて、ちょっと恥ずかしいですけど。自分でも少し調べてみます。ありがとうございます」

 俺に向かって頭を下げられて、ちょっと慌てる。

「自分は大したこと言ってないです。むしろ、突然話をしてしまってすみません」

「いえいえ、とんでもないです。名刺も渡せて、自分の名前について発見もあって、いい一日でした。お二人とも、宜しければ是非うちのジムにお越しください」

「そうだよ。せっかくの縁だから海里、行ってみたらいいんじゃないか。僕も身体に不安が出てきたら、お世話になります」

 ちゃっかり宣伝を混ぜてくる鱸さんと、後押ししてくる塩見に苦笑いを返す。おそらく、俺が彼女のジムに行くことはないだろう。確かに体力づくりは必要だという気にはなってきたが、今日インストラクターに会ったからといってジムに対する後ろ向きな考えが変わるわけではない。

「こちらのバーにもたまに顔を出して頂けると嬉しいです。僕はもちろん、こいつも今の時間であれば大抵いるので。日替わり丼がタンパク質メインであるとは限りませんが」

「ええ。また是非寄らせてもらいます。お酒もごはんも美味しいですし。いい時間でした」


 すっかり完食した鱸さんはさっと席を立つ。やはり職業柄だろうか。姿勢がピンと伸びていて、かっこいいという印象を受ける。帰りかける彼女に、塩見はちゃっかりショップカードを渡していた。

「ではまた。ごちそうさまでした」

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 鱸さんの姿が扉の外へと消えてから、塩見はにやりとこちらを振り返る。

「やっぱり魚へん漢字を見たら、反応せずにはいられなかったか」

「名刺で魚へん漢字を見る機会はなかなか無いからな」

 後で絶対突っ込まれると思っていたが、案の定にやにやしている塩見に捕まってしまった。しぶしぶ思っていたことを告げる。

「でも、鱸さんは発見があったって言ってたし、良かったんじゃないのか。海里がお客さんに魚へん絡みのアドバイスをするところ何度か見てるけど、大抵良い方向に動いているし。こっちとしてもお客さんがうちの店にいいイメージを持ってくれるから、ありがたいよ」

「本音が出たな……でも別に俺は、やりたくてやっているわけじゃないからな。あくまで気づいた時に、思ったことを口に出しているだけだ」

「それが役に立っているんだからウィンウィンだろ。これでもっと体力をつけて、風邪っぴきにならなければもっといいんだけどな」

 痛いところをつかれた上に、話が元に戻ってしまった。俺は気まずくてそっぽを向く。塩見の笑い声がバーの中に響き渡った。

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スズキ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅴ―― 水涸 木犀 @yuno_05

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