ヘラクレス症候群

飯田太朗

ヘラクレス症候群

 逃れることのできないものとは何だろう。

 君は何だと考える? 死? なるほど死か。確かに逃げられないな。そういう理屈では「眠り」からも逃れられない。

 だがもうひとつ、逃れられないものがある。

「せんせぇー」

 与謝野くんがうるさいな。

 仕方ない。手短に話そう。

 この話は脳神経外科医、鷹並たかなみ壮一そういち氏が、僕こと飯田太朗の仕事場を訪れたところから始まる。


 ・


「これは、個人的な好奇心なのですが……」

「何でしょう?」

 僕はモレスキンのノートを片手に振り返る。鷹並氏が首を傾げる。

「小説家というのはどのように文章を表現なさるのですか? 例えば絵なら、遠近法や筆致、扱う絵具などで表現に変化をつけられますが、文章は……」

「ああ、それこそまさに、今おっしゃったような遠近法のようなものがありますよ」

 僕はウォーターマンのボールペンをちょいちょいと動かしながら続けた。

「文章の前後で対比の関係になるものを当てるという技法があります。たとえば生と死。生を表現するもの……セックスだとか、嗜好品の類もいいですね。遊び事や子供なんかもいい。そういったものを、『死』の前後に置く。例文をあげると……」


 ――あいつの訃報が届いたのは、俺が我が子を抱き上げた直後のことだった――


「普通に『あいつが死んだ』という情報を書くのよりいくらか際立って見えます」

「なるほど」

「文章の世界は主観的です。作家がどんな世界を描いても、読者の感じる世界は作家の作った世界とは異なる。今みたいな表現ひとつ取っても読者によって受け取り方が違います。ある人物には重たい死の場面に、ある人物にとっては些細な日常場面に見える。僕たち作家にできるのは、バランスを考えて上手い位置に読者を配置してやることです」

 と、僕が一息ついてから、問題の彼――鷹並壮一氏は本題に入った。

「飯田先生は、ヘラクレス症候群についてはご存知でしょうか」

「ヘラクレス症候群?」

 氏に向かって僕は訊ねた。

「聞いたことのない病気ですね」

 これでも一応、創作のネタ集めの一環として奇病珍病の類は知っているつもりだ。少なくとも一度耳には入れているはず。しかし彼の口にした病気は、僕のデータベースにあるどの病気とも符合しなかった。ヘラクレス症候群。やはり知らない病気だ。

 しかしまぁ、名前から想像することはできる。

「筋肉が異常に発達する病ですか? 非ジストロフィー性ミオトニー症候群ではなく?」

「非ジストロフィー性ミオトニー症候群ではありません」

 鷹並氏は腕をまくって力こぶを作る。

「私は、確かに鍛えている部類ではあるかもしれませんが、非ジストロフィー性ミオトニー症候群の患者ほどではない。筋肉の強直もないし、肥大もないし、こわばっている感じもないです」

 ではどんな病気だ? と首を傾げた。鷹並氏は続けた。

「多分、見てもらったほうが早いです。五百円玉はありますか?」

「どうぞ」僕はポケットから小銭を取り出す。

「では」

 そうつぶやいてから、鷹並氏はちょいとそれを摘んでみせた。そして、それを僕の前に置いた。目の前に置かれた五百円玉を見て、僕は声を上げた。

「潰れてる……?」

 そう、僕の五百円玉の一部は、潰れたあんぱんみたいに薄くなっていたのだ。

「これが病相です」

 鷹並医師はつぶやいた。

「こちらの想定した出力以上の力が出る」

「そんな……今ので指先に力を入れたわけでは……」

「ありません。ただ摘んだだけです」

 僕はギターのピックみたいに摘みやすくなった五百円玉を手に取って眺めた。

「私は、外科医なのですが……」

 鷹並医師は続ける。

「この症状が出てからメスが持てない」

「でしょうね」

「ちょっとメスの先をつけただけで深く抉ってしまうし、そもそもメスが潰れる」

「なるほど……」

 いつからですか。僕は訊ねる。

「二年前、旅行でギリシャを訪れた時です……」

 氏は語った。

 

 *


 ギリシャに着いてまず真っ先に、私はオリンポス山に登りました。登山が趣味なのです。

 ギリシャ第二の都市テッサロニキからオリンポス山麓の町、リトホロに向かいます。バスを使うのですが、ストライキがあった関係で町に向かうバスが数珠繋ぎになっていました。なかなか辿り着けず、予定の時間から大幅に遅れて到着しました。

 町に着くと食事をして、それからプリオニア登山口に行きました。夏の地中海はサハラ砂漠からの乾いた空気が入り込む影響で、ほとんど雨が降らないのです。その日も快晴の下、登山を始めました。

 初めはなだらかな登山道も、次第に険しくなっていきます。やがて高山植物も見られないくらいの高さになると、今度はどこもかしこも岩だらけ、非常に険しい道のりになってきました。

 最高峰ミティカスを踏破すると、頂上に立てられたギリシャ国旗を見て、私たちは――麓の町リトホロで出会った数名の登山家たちと同行しました――下山しました。

 ただ、問題はこの下山中に起きました。

 下山の時は登る時よりも気をつけて進むものです。この時もそうでした。ただ、ちょうど岩肌が終わって黄色い花が見え始めた頃でしょうか。同行している登山家たちがペースを上げたのです。最初は息が切れるなぁと思った程度でしたが、どんどん他のメンバーから引き離されて……気づけば仲間の背中は遥か彼方。息の荒れた私だけが取り残されました。しかしまぁ、その頃には帰りのルートもおおよそ見当つく場所に来ていたので、私は手頃な岩に腰掛けて休むことにしました。

 そしてこの時でした。不思議な声が聞こえたのは。

〈……弱き者よ〉

 声はそう言いました。

〈悲しかろう、恥ずかしかろう。我が力、授けてやろう。存分に振るうが良い〉

 こんな、持って回った、偉そうな言い方でした。

 そうして私は、ひどい眠気に襲われました。けれど山中で眠るわけにもいかないので、くらくらする頭をなんとか持ち上げて、耐えました。やがて頭がスッキリしてきた頃、一息つきました。その時、私は異変に気づきました。

 裸になった時のように体が軽いのです。

 おかしいと思いました。登山用の荷物も含めると私はそれなりに重たくなっているはずです。なのにこの軽やかさ。不思議でした。

 ただ、あまりに主観的な変化だったので、私は高山病の一種だろうとか、アドレナリンが回ってハイになってるんだろうとか考え、下山しました。

 そうして辿り着いた麓の町リトホロで、異変に気づきました。

 ドアノブを握り潰してしまったのです。


 *


「ドアノブを……」

 信じられなくはなかった。先程五百円玉を潰した後だ。

「症候群というには、他に症状が……?」僕は訊ねた。

「性欲の異常な亢進、暴力衝動、尊大な気持ちになる……」

「大変そうですね」

「ええ。今は鎮静剤を打ってきています……ハッキリ言って、常人なら気絶するほどの量を投与しているのですが……」

「ピンピンしてますね」

「ええ、頭もスッキリ……」

「この病名は、どなたがつけたのですか?」

「僭越ながら私が」

 鷹並氏が笑う。

「名前をつけて、先駆者にでもならなければやっていられなくて」

「そんなに症状がひどいのですか」

「ええ。公園で遊んでる子供を捻り潰したくなったり、道行く女を犯したくなったり、自分が神になったような気持ちになったりすること、あまりないでしょう。加えてこの怪力」

 なるほど。本当に、人ひとりなら捻り潰せてしまう。

「ヘラクレス、はお察しの通りギリシャ神話の英雄ヘラクレスからとりました。発症したのもオリンポス山でのことですし、異常筋力、異常性欲、破壊衝動、どれも彼に当てはまるのでちょうどいいかと」

 僕は彼の逞しい腕を見て唾を飲んだ。

「そんな中、ある日『珍しい事件に遭遇することが多い小説家がいる』という話をうかがいました。知人に相談したところ、与謝野さんをご紹介いただき……」

 最初、与謝野さんの方が作家かと思いましたが、と、鷹並氏は微笑んだ。僕も苦笑した。確かにあの子の方が作家然とした名前だ。

「飯田太朗先生という方が、おかしな現象への対処に慣れている、と」

「まぁ、別に専門家というわけではありませんが……」

 と、僕は自分の名刺を差し出す。

「『そのミステリ、請け負います』……これは?」

 僕の名刺に書かれている文言だ。

「キャッチフレーズみたいなものです。こういうのに凝るクチでね」

 はぁ、と鷹並先生は名刺をしまった。

「飯田先生は、こういう不可解な問題に直面した場合、どうしていらっしゃいますか」

「あなたたち医者と変わりありませんよ」

 僕はモレスキンを閉じた。

「観察し、考察し、結論を導く」

「私もそれをしたつもりなのですが……」

 なにぶん当事者なので、目も曇るのかと。鷹並氏はそう俯いた。

「大丈夫ですよ」

 僕は笑ってみせた。

「解決策はもうあります」


 *


 向かったのは和歌山県のH郡という場所だった。ここから登れる山に、秘密がある。

 登山には不慣れだったが、一度来たことのある場所だ。何とか行けた。むしろ登山慣れしている鷹並氏が地図で当たりをつけてガイドしてくれたくらいだった。

 山道を歩きながら話す。

「飯田先生が小説を書き始めたきっかけは?」

「小学二年生の頃、面白い作品に出逢いましてね」

 息が上がる。

「書いてみたいなと思ったんですよ」

「そんな頃から」

「先生は何で医者になろうと?」

「父親が医者でして」

 なるほど、そういうパターンか。

「しかし飯田先生、これから向かう場所は……」

雲取洞くもとりどう、別名『餓鬼穴がきあな』と言います」

「餓鬼……」

「生前に贅沢をしたなどの理由で六道のうちの餓鬼道に落ちたとされる亡者のことですね」

「贅沢をしただけで人の道を逸れることになるのですか」

「もとは物欲を戒める目的で作られた概念です」

「なるほど」

 こうして今、前を歩く彼の背中を見て、思ったことは……。

 足取りが異様に軽い。登山グッズなど背負っていないかのようだ。こちとらヒーヒー言いながら登っているのに、いくら登山慣れしているとは言え、こんな……。

「餓鬼穴では何が起こるのですか?」

「平たく言うと腑抜けになります」

 僕は汗を拭いながら話した。

「餓鬼穴には『ヒダル』と呼ばれる妖怪が住んでおりまして、そいつは人から力を奪う妖怪なのです」

「なるほど」

「すみません、非科学的な話を」

「いえ、私もこんな経験をしていますから」

 と、鷹並氏は手近にあった岩を掴んだ。発泡スチロールか何かみたいに持ち上げて、そのまま雪玉を砕くようにして破壊した。

「そのヒダルとかいうのにお願いするのですね?」

「厳密に言うと、お願いするというよりは喰わせます」

 僕は続けた。

「人の力を喰う妖怪なのです」

「ははぁ」

「そこは本来、『あまりに力を吸われるばかり、一度入ると帰ってこられない』というような場所なのですが、筋力、精力、いずれも極端に向上しているあなたなら多少のマイナスを喰らっても戻ってこれるかと」

「なるほど」

 やがて僕たちは澤の中を歩いてその目的地を目指した。長靴をぐちゃぐちゃ言わせながら辿り着いたそこに、それはあった。

「これが餓鬼穴です」

 その場所は、相変わらずの不気味さを放っていた。

 僕たちが立っていたのは、ごうごうと流れる澤の中。足元は大小様々な丸い石。そんな澤が削り取った崖と崖の間にぽっかり開いた横穴。餓鬼、の名の通りというか、澤は穴に向かって傾斜がついており、大きな口を開けた餓鬼穴が文字通り水を飲み込んでいた。ガスでも噴き出ているのだろうか、鼻をつく不快な臭いがした。

「あの穴に入って五分もすればすっかり腑抜けに……あなたの場合は元の体に、戻って出てこられますよ」

 僕は手近にあった岩に腰掛けた。足元を水が流れていく。

「僕はここで待っているのでどうぞゆっく……」

〈ほう、これはこれは〉

 鷹並氏の声が変質したのはこの時だった。彼は僕の先を歩いていたのだが、この時、彼はしゃんと背筋を伸ばしたまま前方を凝視していた。か細い流木に足を乗せ、まるでこれから大冒険に出かける英雄のような格好をしている。僕はその場で固まって彼を見た。彼の背中が伸びた。

〈東の果てには面白いものがあるな〉

 尊大な、そして逞しい。

〈だがあれにおれの力を吸わせようったってそうはいかない〉

 振り向いた、彼。その澱んだ、瞳。

〈あの穴にはお前が入れ〉

 と、いきなり胸ぐらを掴まれた。かと思うと次の瞬間、急に重力を感じなくなり……。

 世界が暗転したのと、硬い岩に背中を叩きつけられたのと、呼吸困難に陥ったのとは、ほぼ同時だった。頭痛がした。吐き気を催した。眩暈がして天地が分からなくなった。

 声にもならない声が出る。気づけば、鷹並氏はかなり離れたところにいた。そして、そう、僕の真後ろには……。

 ぽっかりと口を開けた、餓鬼穴。

 肺の中から、空気が抜けていく感触。

 同時に力も抜けていく。先程岩に叩きつけられた怪我もあったがもう、立っているのもやっとなくらいだった。まずい……まずい! 足元の水流で流されてしまいそうなくらいだ……。

 餓鬼穴に喰われてる! 僕は震える足で立ち上がった。その様は自分で見ていても哀れで、狩人の銃弾に足をやられたウサギみたいだった。

「あ……あ……」

 ようやくそれだけの言葉が出てくる。とても小説家とは思えない。そんな僕に向かって、無慈悲に澤は流れていた。足がとられそうだった。鷹並氏がいる場所から僕のいる穴の前までは、大きな傾斜がついていた。

〈穴へ行け〉

 鷹並氏が……いや、あれはもう、鷹並氏ではないのか。神話の英雄、ヘラクレス。そう、そのヘラクレスは……続けた。

〈穴へ行け小僧。おれにどうなるか見せろ〉

 僕はチラリと彼の足元を見た。

 胸の奥から、鉄の味。

 どこか痛めた。怪我をしている。こんな山の中で、体の内側から異変を感じるような怪我だ。加えて目の前には〈神〉とやらが取り憑いた男。

〈穴へ行け小僧〉

 ヘラクレスが、その逞しい腕で近くにあった岩を――身の丈ほどもある岩を――つかんだ。

〈選べ。穴で死ぬか、岩で死ぬか〉

「死に方を……選べというのか……」

〈そうだ〉

「頼む……どうかそれだけは……」

〈なんだ?〉

「岩だけはやめてくれ……」

 と、僕が懇願した、その時だった。

 ヘラクレスはニヤッと笑って岩を頭上に掲げた。

〈ならば、その穴に……〉

「……いいだろう」

 今度は僕がニヤリとする番だった。

「そうだ。それで十分だ。いわゆる饅頭怖いというやつだな。岩を持ち上げてくれると嬉しかった」

 と、ヘラクレスの足元で軋んだ音が聞こえたのとは、ほぼ同時だった。

「『僕たち作家にできることは……』」

 これは、そう、ここへ来る前に鷹並氏に話したことだった。

「『バランスを考えて上手い位置に読者を配置してやること』……だ」

 湿った、だが軽い響きのある、そんな音が聞こえてきた。

 ヘラクレスの足元にあった流木が折れた。彼がさっきまで、冒険に出る前の英雄よろしく足をかけていた流木が、ぽっきりと折れたのだ。それは多分、ヘラクレスの重さに岩の重さが加わったことで耐え切れる重さを超えてしまったことが原因だろう。が、とにかく、英雄ヘラクレスは足元が崩れたことで大きく後ろに転倒した。そしてそんな彼を、流れが襲った。

 その逞しい体が押し流されてきた。

 僕は咄嗟に身を避け、彼の突進をかわした。流しそうめんよろしく、神話の英雄は流れに飲まれて餓鬼穴へと吸い込まれていった。そして、そうだ。この時僕は思った。

 ――主観だ。主観なんだよ。ヘラクレス。君にとっては軽い岩も、流木にとってはその身を保てないくらいの重さだったのだ――

 人は、どう足掻いても「自分」からは抜け出せない。

 それは自我を持つものなら何でもそうだ。犬でも猫でもタコでも、そしてもちろん、神様でもそうだ。自分という容れ物からは抜け出せない。

 この世界は自分が見たもので構築されている。そう、ヘラクレスにとっては岩なんかただの軽い鉱物の塊だった。だから足元なんて気にせず持ち上げた。結果、僕の見ている世界とは食い違った。僕から見れば明らかだったのだ。あんなか細い流木の上で、岩なんか持ち上げようなら、どうなるのか……。


 ・


 え? その後どうやって帰ったかだって?

 まぁ、ふた通り考えられるよな。

 まずはすっかり英雄の力が抜き取られてまともな体に……ヘラクレス症候群が治った鷹並先生が手を貸してくれた。

 もうひとつは、神様の気を吸ったことで餓鬼穴のヒダルが満足して、僕を襲った倦怠感がなくなった。

 どっちか? まぁ、どっちでもいいじゃないか。

 それこそ、君の描く「世界」でいいよ。

 そんなことより何だい、君が聞かせてくれる奇妙な話というのは……。


 了

 

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ヘラクレス症候群 飯田太朗 @taroIda

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