筋肉が造反した話

辺理可付加

ある朝私が目を覚ますと、枕元には筋骨隆々のスキンヘッドが立っていた。

『筋肉は裏切らない』


私の好きな言葉だ。ネットでもよく言われている。

両親友人恋人、これらは裏切る場合がある。勉学野球の練習病気の治療魂の上限解放、これは実らない場合がある。

だが筋肉は違う。筋肉は絶対に私へ害をなさないし大切にすれば最後まで寄り添ってくれる。また、才能の限界だとか実らない努力だとかそういう残酷なことは言わず、ちょっと本でも買って筋トレすれば必ず確かな結果を返してくれる。

他にも、金や仕事、社会制度は時代の流れで分からないが、筋肉は悠久の美と不変のパワーを兼ね備える、ゴールドにも等しい資産であるし……

語り尽くそうと思えば長くなるのでやめるが、つまりそういうことだ。

筋肉は裏切らない。筋肉は素晴らしい。


そう思っていた。






 ある朝私が目を覚ますと、枕元には筋骨隆々のスキンヘッドが立っていた。誰だ。

なるほど、僧帽筋そうぼうきんから短腓骨筋たんひこつきんまでたくましい、私に勝るとも劣らない肉体美であると言えよう。だが不法侵入だ。


「何者だ」


私がベッドから起き上がらず首だけ向けると、男はゆっくりと低い声で答えた。


「私はお前の筋肉だ」

「バカな」


苦笑する私だったが、身を起こそうとして強い違和感を覚える。

なんだ、この感覚は? まさか……!?

私が慌てて掛け布団を跳ね飛ばすと、



「おおっ!!??」



そこには自慢の筋肉が失せ果て、パジャマもブカブカになってしまった情けないヒョロヒョロの肉体が!

なんなら跳ね飛ばすと形容した掛け布団だって言うほど飛ばせていない。往時の私なら軽々天井へ叩き付けたろうに、今や私の右足の上に掛かっている部分は微動だにしていなかったほどの有り様。


「オッオオオオーッ!!」

「どうだ。私が言っていることを信じる気になっただろう」


我が筋肉と名乗る不法侵入者は勝ち誇るでもなく淡々と呟く。


「くっ! どうやらそのようだな……!」


現に私の筋肉が一夜にして失われているのだ。この現象に答えを出すとしたら、それしかないだろう。このように筋肉は難解な事象にも身をもって単純明快な答えをくれるのだ。

だが問題はそこではない。いや、そこも問題なのだが「そうか、よく分かった。教えてくれてありがとね」では済まされない。話をもっと深く進めなければならない。


「状況は理解した。では私の筋肉よ。単刀直入に聞こう。なぜこのようなことに? どうしてお前は今、私の肉体の外にいる? 不法侵入者どころか不法体外退去者となった理由はなんだ」


ここでようやく筋肉は、よくぞ聞いてくれたとでも言うように腕を組んだ。

くっ、なんと美しい三角筋から腕橈骨筋わんとうこつきん及び尺側手根伸筋しゃくそくしゅこんしんきんの流れだろうか!

我ながら惚れ惚れしていると、彼は表情筋を険しくさせた。


「最近の貴様の我々に対する扱いには目に余るものがある。よって、よりよい待遇の宿主を探すべく貴様の体から脱出させてもらった」

「なんだと……!?」

「安心しろ。生命維持活動に必要最低限な筋肉は残してやっている」

「そういう話ではない!」

「ではなんだ。この期に及んで『物理的にあり得ない』などと寝言をかすつもりか? 寝起きのプランクでもして頭を覚醒させたらどうだ?」

「違う!」


言いたいか言いたくないかで言えばそう言いたいが、状況がその段階にないことくらい私も理解している。無理矢理。


「生命維持活動がどうだとかいう欺瞞ぎまんはいらん! 何が不満で出ていったのだ!」

「何が不満だと!?」


筋肉の大胸筋が震え、大喝が飛んでくる。


「昔の貴様は出勤にも筋トレだと自転車を使い、食事はササミや鶏むね肉中心おやつは必ずサラダチキン、朝起きれば一杯の白湯さゆとプロテインを欠かさなかった! だが今はどうだ! 『出世して出勤が早くなった』と車を使うようになり、『接待の宴会だ、人付き合いだ』と鶏もも唐揚げとビールを食らいバーで女とナッツを齧る!」

「ナッツの油は体にいいんだぞ!?」

「うるさいっ! 黙れっ! そして付き合うようになった女のウチに泊まれば目覚めの一杯をコーヒーにして鼻の下を伸ばす! 恥を知れっ!」

「うむむむ……」



そうか、そうだったのか。

思えば私は、自身の生活環境の変化を言い訳に、近頃筋肉に対する真摯しんしさを欠いていたかもしれない。

『筋肉は裏切らない』が、私は筋肉を裏切っていたのだ。

とすれば……



「なぁ、我が筋肉よ」

「なんだ」

「許してくれ、このとおりだ」


彼に深々と頭を下げる。この動きにすら身体中の筋肉が連動していることを感じ、改めて感動を覚える。


「私はお前の主人としての自覚に欠けていた。本当に申し訳なく思う」

「ふん」

「お前が私の体から出ていくのもだ。だが、どうか思い直して、もう一度私の体に戻ってはくれまいか?」

「なんだと?」

「分かっている。筋肉が一朝一夕では付かないように、崩れた信頼も簡単には直らん。だが、俺とお前はかつてそれができ上がるほど長い間筋トレと研鑽けんさんを積み上げて、何年も運命を共にした仲ではないか。その強固な絆を、今一度思い出してはくれまいか?」

「……」


筋肉は私をまっすぐ見つめた。私も逸らさずに見つめ返した。しばしそうしていると、やがて彼は……。


「いいだろう。一度だけ考え直してやろう。筋肉痛がする時は無理をしないのがセオリーだ」


そっと私の額に触れた。瞬間、


「お、おお……」


私の体はいつもの金剛力士像に戻っていた。

ありがとう、我が筋肉。


「……これからもよろしくな」


私は喜びと感謝を噛み締めながら、朝のプロテインドリンクを作りにキッチンへ向かった。






 それから一週間後。


「私はあなたの舌です。最近筋肉にいいけど美味しくないものばかり食べさせられているので、いい加減我慢の限界です。出ていかせていただきます」


なにっ。

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