裏切られた筋肉

龍神雲

裏切られた筋肉

 人それぞれ考えがあるように、筋肉の好みも千差万別だ。だが理想を求め、好む筋肉があれど、妄想の産物か夢物語に終わるだろう。しかし俺も美しい彼女も、夢物語ではない特殊な関係を築いていた──


「貴方の大腿二頭筋だいたいにとうきん半腱様筋はんけんようきん半膜様筋はんまくようきんが織り成すハムストリング、いつ見ても魅力的でとても素敵よ」


 彼女はうっとりとした顔で俺の下肢かしに呟いた。俺の彼女は下肢かしが好みで、いつも下肢かしのみを褒め称える。下肢かしのみではあるが、それでも彼女に愛されるのは嬉しかった。


「どうすれば私もそうなれるのかしら。今度生まれ変わるのなら、貴方のような下肢かしになりたいわ」


 相当好きらしく、その身を捧げてでも本気でなりたいようだ。少し複雑だが、彼女の好み、彼女の全てを愛する俺にとっては、その考えすら愛おしい。なりたいならなればいい。何時でも彼女が傍にいるなら、俺はなんでも構わない。


「だけど、後頭筋こうとうきんから僧帽筋そうぼうきんにかけてはまるでダメね。どうしてかしら……」


 不意に呟き、彼女の柔らかな手の平が肩に触れる。じきに彼女の吐息が掛かり、それが少しこそばゆい。次第に彼女の美しい顔は不満で歪み、皺を刻んだ。


「どうしてかしら。ハムストリングは美しいのに、僧帽筋そうぼうきんは目も当てられないわ……」


 こうして罵られるのはいつものことだ。彼女は罵りながらも傍にいてくれる。だが彼女の視線は外れ、部屋を去った。いつもなら罵りながらも傍にいてくれるというのに──何故?どうして今日はこんなにも早く去るんだ?だがその疑問も、彼女の熱を帯びた声で悟った。


「嗚呼、貴方はどれも完璧ね。これこそ私が求めていた体、私を満たすのは貴方だけ」


 隣室から聞こえた甘やかな誘い文句。何が起きたか分からないほど鈍感ではない。


「もう人体模型アイツはいらないわ。今度から貴方だけよ」


 女心と秋の空──不意に扉が開き、俺の視界に映ったのはゴリラの標本だった。

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