事実は小説よりも奇なり

赤オニ

本編

 そうだ、外の空気を吸おう。

 まるで某鉄道会社のCMのようなノリで、かれこれ三時間ほど座面に乗せたことで凝り固まった尻を持ち上げた。

 ついでに、ストレッチなのか新種のくねくねなのかよく分からない動きをし、腰やら肩やらをほぐす。人間の関節から聞こえちゃいけなさそうな音が体に響く。ぎっくり腰にだけは気を付けよう。

 小銭入れとスマホ、家の鍵をポケットにねじ込み、サンダルを引っかけて外へ出た。

 近くのコンビニで夜食代わりのカップ麺と、アイスを買う。

 お気に入りのサンダルはいつ買ったものだったか。いつの間にやら底がめくれ、歩くたびにペタン、ぺタンと間抜けな音を出すようになった。

 修理してでも使い続けたいわけではないが、買い替えるのは何だか惜しい。

 そんな風に、中途半端にしがみつくことしかできない。応募して落選。応募して落選。自分の作品へ向ける情熱も、パワーもとっくに枯れてしまった。

 さりとて諦めることもできず、未練がましくずるずると、あの日確かに思い描いた夢を手放せずにいる。

 は、と自嘲じみたため息が漏れた。分かっているんだ、本当はもう。もう、とっくに苦しかったんだって。苦しいも悔しいも、血を吐くような感情すら歯ァ食いしばってペンを握ったあの頃は――もう、とっくに。

「マジサイテー! 死ね! アタシがこの手でお前の子孫を絶やす!」

「ぎゃー! やめろ馬鹿馬鹿! 俺の大事なムスコが傷ついたらどーすんだいでででごめんなさい痛い! ヤメテ!」

 感傷に浸る間をぶち壊すような、カップルらしき若い男女の喧嘩。

 にじんだ涙はすっかり引っ込む。聞く気がなくとも勝手に耳に入ってくる会話から察するに、彼氏の浮気に彼女般若降臨、といったところか。

 深夜に痴話喧嘩とは、若いなぁ。と、感想もすっかり年寄りじみたものになってしまった。

 しかし巻き込まれるのも面倒なので、路上の端で股間を容赦なく踏んづけられている男の方に、同性として心の中でお悔やみ申し上げ、そろそろと気配を消して横を通り過ぎる。

「仏の顔も三度まで! つまり! 三度目は即殺す! さぁ死ね!」

「ごめんってヤダヤダこれマジで死んじゃう死んじゃうって、あっほら死んだバァちゃんが川の向こうに……!」

「お前の祖母ちゃん、こないだ百歳おめでとう会でめちゃくちゃ元気だったろーが! 失礼だろ勝手に殺すな! 今度お前の髪の毛手土産に頭下げさせに行くからな!」

 さっさと通り過ぎるつもりだったのに、会話内容が気になってつい電柱に隠れてしまった。

 周りの建物は会社が多いこともあり、今のところ騒ぎに人が集まって来る気配はない。流石にヤバそうな雰囲気を感じたら通報ぐらいはできるから、と言い訳のような理由付けをし、その場にとどまり耳をそばだてる。

 彼女さん、口は悪いしすげぇキレてるけど、礼儀正しい良い子なの伝わってくるな……。

 横を通る際に好奇心に勝てずに思わずちらっと見てしまったが、女性としても結構小柄な体格だけに、勇ましい内面とのギャップが……。

「バァちゃん、キミちゃんのウェディングドレス見るの楽しみって言ってたもんねぇ」

 お、彼氏の方がバァちゃんを盾に何とかこの場を逃れようとしてるな。

 しかし、彼氏も彼氏で股間踏んづけられてる真っ最中なのに余裕かよ……浮気、二回で済んでんのか?

「言ってたなぁ。あと、『お色直しで真っ赤なドレスも良いね』って言ってたぞォ? 『バカ息子に似ちまって、バカな孫だからよろしくね』ってなァ」

 あ、これ彼氏死んだかな。

「え、あー……ほ、ほらぁ、バァちゃんもひ孫見たいだろうし……ねっ。だからあの、キミちゃん足どけいでででホントに潰れちゃう! ごめんってマジで二度としない! 誓う誓う、超誓う! 神と仏とバァちゃんとキミちゃんに誓う!」

 神と仏もそんな軽いノリで誓われても困るだろう。バァちゃんとキミちゃんに至ってはすでに二回破っている。

 しばしの沈黙が流れ、まったく関係のない俺すらも手に汗を握り、ごくりと唾を飲み込む。

 彼女こと、キミちゃんはどう答えるのだろう。それによって、彼氏の金玉の安否がかかってくる。

 時間にして五分ほどか。たっぷりと沈黙した後、距離を取っている俺の耳にも届くほどキミちゃんのでかいため息が聞こえた。

「次浮気したらマジで金玉踏みつぶしてやっからな。そん時はお前の母ちゃんと祖母ちゃんも参戦させっから、逃げられると思うなよ」

 ドスの効いた声だった。まったく関係のない俺も思わず縮み上がる。


「キミちゃん愛してる!」

「あ?」

「ごめん調子乗りました」

 二人の声は段々と遠ざかっていき、場に静寂が戻る。はぁー、と息を吐き、無意識のうちに握り込んでいた手を開く。

 そこでようやく、カップ麺と一緒に買ったアイスの存在を思い出したが、時すでに遅し。試しに袋の上から指先で突いてみたが、ぶよん、と明らかに液体の感触だけが伝わってくる。

 アイスが溶けてしまった、というショックは多少あったが、何よりも自分の創作意欲がむくむくとわき上がっているのを感じた。

「ラブコメ……良いかもしれん!」

 底のめくれたサンダルをペタン、ペタンと鳴らし、俺は逸る気持ちのまま家に帰った。

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