深夜のおっさん

あじさい

* * *

 ――おっさんなんて、みじめなことばっかりだ。


 と、昭夫あきおは内心どくづいた。



 春、まだ肌寒く、桜が咲かない頃のことだ。


 会社の飲み会で遅くまで拘束こうそくされ、やっとの思いで終電に乗り込んだら、寝過ごして終点まで来てしまった。

 今日はもう電車がないから、帰るにはタクシーを使う必要がある。

 だが、同じ状況の人間が多いようで、昭夫あきおがうかうかしている内に、タクシー乗り場には長蛇の列ができていた。

 こうなることはタクシー会社も分かっていそうなものだが、タクシーは1台も待機していない。

 スマホで近所のタクシー会社を調べて電話をかけてみたら、いかにも面倒くさそうに、「今向かってますよ。順番にお待ちください」と言われた。


 ――こっちが頼るしかないと思って、いい気になってやがる。ぼったくり商売のくせに!


 と、昭夫は思った。


 こうなったのは寝過ごした自分の責任だとか、タクシー会社の人々は収入が低いのにこんな深夜まで頑張ってくれているとか、そんなことは思い浮かばない。

 自分の失敗や不手際については仕方がなかったと自己弁護に余念がないが、他人も自分と同じように疲れたり苛立ったりするとは想像できない。

 昭夫はそういう男だった。



 古林こばやし昭夫は46歳の、洒落しゃれのない中年男性だ。

 頭頂部とうきょうぶ禿げ始めたのを気にみ、加齢臭がただようのを恐れているが、肌荒れや口臭こうしゅうは基本的に気にしない。

 建設会社、ぞくに言う土建屋につとめている。

 スーパーで働く妻と、中学生の娘がいる。


 サービス残業が日常茶飯事、休日は会社の人間と好きでもないゴルフにり出される――と書くと、昭和の漫画のように陳腐ちんぷな生活だが、当の昭夫あきおにとっては冗談では済まない。

 会社は経費節約のために職員をやといたがらないし、若い人間を雇ってもすぐに逃げられるから、職場は常に人手不足で、仕事が定時までに終わることはまずない。

 休日のゴルフは、辞退することもできなくはないが、ゴルフ場、あるいはその後の居酒屋や風俗店で仕事上重要な話が決まってしまうことがあって、翌週出勤したとき、社内の話についていけなくなっていたり、面倒な業務を押し付けられていたりする。

 ただ、文句を言えた筋合いではない。

 昭夫自身、ゴルフや飲み会の場で上司のご機嫌をとり、割のいい仕事を回してもらったことが幾度となくある。

 


 今日の飲み会も、どうしても行きたいわけではなかったが、ことわると後が怖いから出席した。

 二次会に行ったのも同じ理由からだった。


 どうしてこんな会社につとめているのか、こんな生活を続けていて大丈夫なのか、自分でも分からない。

 だが、別に転職は考えていない。



 そんな昭夫あきおはタクシーを待っている内に、飲み会後の疲れたからだであと何十分もっているということが、バカみたいに思えてきた。

 幸いなことに明日は予定のない正真正銘の休日だし、いち早く家に帰りたい理由もない。


 ――あのコンビニで飲み物と軽食でも買おう。


 と、昭夫はれつを抜けた。


 仕事終わりの深夜で、酒が入っていることもあり、昭夫は商品だなの誘惑に負けた。

 コンビニに陳列ちんれつされた酒のつまみは、どうも魅力的に見えていけない。

 ただ、残念ながら、美味しそうなものほど、立ったまま食べるのには向かない。

 昭夫はコンビニを出てから近くをぶらついて、どこか公園のベンチでも探すことにした。

 素直すなおに駅に戻っても面白くないからだ。


 この駅周辺の地理には詳しくないが、海辺うみべの町なのは昭夫も知っている。

 とりあえず海の方に向かえば、公園か何かあるだろう。

 そう思って暗い住宅街を歩き始めると、思いの外すぐに、黒々とした海が見てきた。

 昭夫がっていなければ、潮風しおかぜぐこともできたかもしれない。


 そこに海が見えるという事実は、昭夫の気分を何となく高揚こうようさせた。


 ――我ながら良い思いつきだったな。



 さらに5分ほど歩いて、海に面した遊歩道に入ったとき、昭夫は人影ひとかげに気付いて足を止めた。


 ――夏でもないのに、こんな真夜中に海をながめている奴がいるなんて。


 昭夫は自分のことをたなに上げていぶかしんだ。

 暗くてはっきりとは見えないが、若い女だ。

 昭夫はほとんど直感的にそう思った。

 実際、それは当たっていた。


 ストレートロングの黒髪、あるいは茶髪を垂らしていて、ほぼ横からなのに顔が見えない。

 すらりとした体型で、スカートではなくタイトなズボンをいている。

 羽織はおっているのは革ジャンに見える。

 バイクに乗るか、バンド活動でもしているのだろうか。



 昭夫は彼女にもっと近づいて、声をかけたくなった。


 ――というか、顔を見たい。こんな夜更よふけに海を眺めているのだ、きっとクール系の美人だろう。いや、恰好かっこうとがっているだけで、顔は意外とおさない、かわいい系かもしれないな。


 彼女の小ぶりで引き締まったお尻をガン見して、じりじりと距離を詰めながら、昭夫は「ロマン」をふくらませ、1人でそわそわした。

 それがどれだけ気持ち悪いことか、気付くだけの客観性は持ち合わせていない。

 だが、実際に声を掛けるわけにはいかない、とは思った。



 ――おっさんなんて、みじめなことばっかりだ。


 と、昭夫は内心どくづいた。


 ――立場が逆なら、何も躊躇ためらう必要はなかっただろう。もし俺が若い女の子で、おっさんが海を見ているところに通りかかったのだったら、声をかけたところで何も問題にならない。でも、俺はおっさんで、今は深夜で、若い女の子に声なんかけようものなら、不審者として通報されてしまう。今の世間じゃ、おっさんは存在自体が不潔ふけつでみっともなくて、性犯罪者予備軍で、世間話せけんばなしをしただけでセクハラになる。ろくに話も聞いてもらえない。



 昭夫は家庭で肩身かたみせまい思いをしている。

 妻はガミガミとうるさいし、娘は反抗期さかりだ。

 そのことが昭夫は不満でならない。


 もちろん、人が他者への――しかも最も身近な家族への――嫌悪感をあからさまにするからには、相応そうおうの理由や経緯がある。

 少し考えれば分かることだ。

 仕事と「付き合い」を口実こうじつに同じくつとにんの妻に家事と育児を押しつけ、ほぼ毎日朝食と夕食を用意してもらっておきながら『俺の妻でいたいならもっとマシな料理を用意しろ』と言わんばかりの仏頂面でねぎらいの言葉一つかけない夫が、妻にかれるはずがない。

 また、家族での団らん中にゲップやおならをしてはばからず、娘の胸や下半身をじろじろ見て、ごくたまにだけ娘のご機嫌を取ろうと適当な話をってくる父親が、思春期に入った娘に、というか人格を持った1人の人間に、拒否感を持たれないはずがない。


 ただ、妻も娘も、2人で愚痴ぐちることはあっても、昭夫あきお本人に対して懇切こんせつ丁寧な説明はしない。

 日々の不満を受け止めてもらえない経験から、自分たちが何を言ったところで昭夫はろくに聞かないし、更年期や反抗期のせいにして自分を改めることはないと知っている。

 面倒な相手に遭遇そうぐうした人間の多くと同様に、場をき回すストレスやリスクを引き受けるよりも、可能な限り我慢してやり過ごす段階に、この2人も入りつつある。


 昭夫にはそれが分からない。

 だから、自分は真っ当な人間で、浮気もDVも児童虐待もせず、会社でも家でも真面目に生きてきて、なのにむくわれていないと思っている。



 今もまた、女性のお尻から目をはなさず、彼女が美人かどうか確かめたいと念じながら、昭夫は自分を理性的で潔白な紳士だと信じて疑わなかった。

 おっさんだから警戒されると心配するばかりで、彼女が昭夫の視線や距離感などから下心を的確てきかくに見抜いてくる可能性には思いいたらない。

 そのとき彼女が何を思うか、それが彼女の人生の中にどんな経験としてきざまれるか、それが――あるいはそういった気持ち悪い体験の蓄積ちくせきが――どれだけ彼女のアイデンティティと自尊心を傷つけるか、そして男性全体に対する不信感をどんなに強めるかなど、想像だにしない。

 真夜中に海を見つめるほどの何かを内にめた女性ではなく、オンナとしての彼女しか、昭夫の目には入っていない。



 昭夫は彼女から10mほどはなれたベンチに座った。

 ほそい女は夜でも絵になるなぁ、と無遠慮に考えながら、コンビニで買った酒や軽食を取り出すこともなく、彼女と海を眺めた。


 数分って、彼女がスマホを取り出し、ふと昭夫の方を振り返った。

 彼女は昭夫に見られるためではなく、自分の都合で海を見ていたのだから、予告なく動くのは当然だ。

 だが、昭夫は不意を突かれた思いで、目をらすこともできずドキッとした。

 目が合った瞬間、彼女もまた身を引いて、一歩後ずさりした。


 ――ヤバい! 悲鳴を上げられるかも。それか、持ってるスマホで通報されるかも。


 だが、彼女は声を出さなかった。

 その代わり、スマホの画面を光らせたまま、すたすたと歩き去った。


 彼女の背中がすっかり見えなくなってから、昭夫は安堵あんどして息をいた。


 ――目が合っただけだし、通報はされないよな。でも、真夜中に海を見て黄昏たそがれていて、いつの間にか近くに人が座っていたら、おどろいて当然か。あの反応はさすがに警戒しすぎだと思うけど。ちょっとへこむわ。そもそも、こんな時間に出歩いてたら、同年代の女の子より、会社帰りのおっさんと出会う確率の方が高いんだから、警戒するくらいなら外出しなきゃいいのに。あーあ、やっぱりおっさんはみじめだ。どうせなら、俺が話しかけづらいのを察して、あのから話しかけてくれたら良かったのに。そうしたら気持ちよくおしゃべりして、気持ちよくお別れできたかもしれない。


 そんなことを、昭夫は思った。


 彼女がギョッとしたのは、中年男性が近くのベンチに座っていたからという以上に、彼がずっと自分を盗み見ていたらしいとさとったからなのだが、やはり昭夫あきおは察せない。

 女性が夜中の外出を躊躇ためらうのも男性を警戒するのも男性のせいなのに、男性に言動や意識を改めさせるのではなく、女性に我慢をいるのは、男性の都合を女性に押しつける、典型的な男尊女卑の発想なのだが、昭夫はそのことにも気付かない。

 


「にしても、あんまり美人じゃなかったな。残念」

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深夜のおっさん あじさい @shepherdtaro

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