狭間

陰陽由実

狭間

その日はどうにも月の大きい、夏の夜であった。

私は読書の休憩と称し、少し出歩こうと考えた。

普段であればそんな行動などしないのだが、もしかしたら月に呼ばれたのかもしれない。

私は気に入りの下駄をつっかえて、財布も携帯も、ライトすらも持たずに玄関の戸をガラリと引いた。


本当に、月の大きな夜である。

下駄がカラリコロリと静かな道にひっそり、しかししっかりと音を漂わせていく。

右足の下駄がカラン、と音を立てたとき突然に、何の前触れもなく、ぐわんとした強い目眩のようなものに襲われた。

それは一瞬の出来事で、すぐにおさまった。何だったんだとかぶりを振り、左足の下駄を鳴らした。

右の下駄がカラ、と弱々しく音を立て、続く左の下駄は────鳴らなかった。

あたり一面、知らない場所にいた。

──来てしまったのか。

そこはどうにも歪んで見えた。遠くの方が暗さも相まって、存在を感じさせないほどによく見えない。

どうすることもできないので、とりあえず目の前の道らしきものを進むことにした。

それから10分ほど経ったであろうか。

遠くの前方から自分のものではない、カラリコロリという下駄の音がした。

それはどうやら自分の方へ向かっているらしく、少しずつ大きくなっていった。

「ああ、こちらにいたのですね」

こんな暗闇でも夜目の効いた視界では人の存在がわかるほどに近づいたとき、それは声を発した。

女の、しっとりとしたやや高めの声であった。

女はまるでどこぞの神話にでも出てきそうな、見慣れない衣装を着ていた。なぜだか暗闇であるにも関わらず、その存在はよく視えた。

「ここは狭間。普通の人間の住まえない場所。しかし、時折貴方のように迷いこんでしまう方がいるのです……」

ゆっくりと私にお辞儀をした。頭に挿してある簪がサラリ、と金属の音を立てた。

「わたくしは迷われた方を元の世界へ案内あないする役をしています……」

女はゆっくりと、優雅に物を紡いでいる。私は何も言うことができなかった。

「どうぞ、わたくしの跡をついてきてくださいませ」

衣擦れと共に、女は反対の方へ向いて歩み出した。私はどうするか一瞬躊躇ったのち、女について行くことにした。

「君は、この世界の者なのか」

歩きながら私は女に問うた。

「わたくしはここへ渡る者です」

「住まうてはいないのか」

「わたくしの住処ではありません……」

「では、君は何者なのか」

「管理を少し、している者です……」

こちらには少しも顔を向けず、私の質問に当たらずも遠からずな返答をポツリ、ポツリと聞かせてくれた。

何かは分からないが、どうにもならない物を感じたとき、女は口を開いた。

「着きました」

そこはただの道であった。先に曲がり角がある。

「そこの、角を曲がれば元の世界へ還れます。わたくしはここまでしか案内できません」

そうして、ようやく私の方へ顔を向けた。

「間に合ってよかったです」

その言葉の意味はよく分からなかったが、何か聞いてはいけないような、自分が知ってはいけないような事の気がした。

「行ってください」

女に促されるまま、私は女の前へ出た。下駄がカラリコロリと音を立てる。

「良き縁がありますように」

去り際、そう聞こえた気がしたが、またあのぐわんとした感覚に襲われた。


そこは私の知っている世界であった。

後ろを振り返れば、近所の神社の鳥居が立っていた。

──夜の神域には特別なときを除き、入ってはいけない。



ああそうだ。

私は、ここへ立ち入ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狭間 陰陽由実 @tukisizukusakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ