深夜の病院内散歩

ぽんぽこ@書籍発売中!!

深夜の病院エレベーター


「深夜、西側のエレベーターは使わない方がいい」


 新人の病院薬剤師だった私が当直業務を始めた頃、先輩から言われたセリフがこれだった。



「ちょっと、やめてくださいよ先輩。こう見えて私、怖がりなんですから……」

「いや、マジで出るんだよ。この病院」

「あははは、またまた~」


 すでにいいトシをした大人ではあるのだが、この手の話はどうにも苦手だった。


 しかも当直というのがワンオペ(一人でこなす)だったので、ただでさえプレッシャーになっているのにである。


 他人の命を預かることでヒヤヒヤしているのに、心霊現象で肝まで冷やしたくない。


 先輩の後輩イジリにも困ったものだ。私は帰宅していく先輩の背中を見送りながら、残っていた仕事に集中することにした。


 そう、普段は笑顔を絶やさない先輩が、あの話をしていた時は微塵も笑っていなかったことを脳裏から振り払うように。



「うーん。急患はこないし、思っていたよりも落ち着いているなぁ」


 深夜零時を過ぎたあたりで、私はカルテの書き仕事を終え、一息ついていた。


 チラホラと訪れていた時間外診療の外来患者もパタリと来なくなった。

 今なら支給されるお弁当を食べても、誰からも邪魔されないだろう。



「ごちそうさまでした」


 冷え切ったから揚げ弁当を食べ終わった私は椅子に座ったまま背伸びをする。



「う、ヤバいな。急に満腹になったから眠くなってきちゃった」


 当直は仮眠を取ってもいいことにはなってはいるのだが、コール(呼び出し)があるとすぐさま対応しなくてはならないため、熟睡することはできない。


 ましてや初めての当直なので、自分がキチンと起きられる自信もない。



「仕方ない。病棟にカルテを返すついでに、腹ごなしの運動でもしてこよう」


 本来であれば朝までに届ければいいのだが、この際だ。今のうちに行ってしまおう。


 眠い目を擦りながら、私はカルテを持って調剤室を出る。


 調剤室は三階で、目的の病棟は九階。


 あぁ、今は患者さんも居ないし、横着してエレベーターを使ってしまおうか。


 ボーっとした頭のまま、エレベーターを呼ぶボタンを押すと、すぐに扉が開いた。


 サッと入り、九階のボタンを押す。


 動き始めたエレベーターの壁に寄り掛かりながら、欠伸をふわぁとひとつ。


 隣には大きな姿鏡があり、疲れた様子の自分の顔が映って――



「うわぁああああ!?!?」


 私は目に入った光景に驚き、思わず手にしていたカルテを取り落とした。



「な、ななななんで手が! 手形がこんなに!!」


 私の視線の先には、鏡いっぱいに付いた手形があった。


 それも子供がイタズラでつけたようなものではなく、成人した男性ぐらいの大きさ。


 それが上から下の床スレスレにまでビッシリと付いていた。



 ビックリしていると、間もなくエレベーターは目的の九階に辿り着いた。


 私は落ちたカルテを慌てて拾い集め、ナースステーションへと駆けこんだ。



「あ、あの!」

「あぁ。薬剤師さん。どうしたんですか、こんな夜中に」


 朝に開始する点滴の準備をしていた看護師さんの姿を見付け、さっき見たことを説明する。



「て、ててて手が!!」

「いや、落ち着いてくださいよ。なんですか、手がって」

「エレベーターに手が! びっしり!!」


 もう泣きそうになりながらそう言うと、看護師さんは呑気な笑顔で「あぁ」と答えた。



「出るんですよ、この病院」

「で、出る!? 幽霊ですか!?」


 あぁ、やっぱり先輩の言っていたことは本当だったんだ。


 私が言うことを聞かず、エレベーターに乗ってしまったから……。


 どうしよう、私は呪われてしまうのだろうか。


 念願の薬剤師になったばっかりなのに、もうここを辞めるべきなのだろうか。


 ショックと絶望で頭が真っ白になりなっていると、目の前の看護師さんはクスクスと笑いながら首を横に振った。



「やだなぁ、そんなわけないじゃないですか。犯人は悪戯好きの元気な患者さんですよ。その人、いつも消灯前にエレベーターに手形を残すんです」



 出るってそっちかーい!!


 翌日、いつも通り出勤してきた先輩は、疲労困憊しきっていた私を見て爆笑しておりましたとさ。

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