2:卒業は人生の始まりか終わりか?(2)

 そんなに時間がかからず、彼らは音楽が最もうるさい講堂の片隅に監察医を見つけた。端正な顔立の中年の男で、太い黒枠の眼鏡の後ろには疲れた表情をしている。彼は先まで仮眠していただろう。


「私を探していた?」監察医が二人に手をあげて振った。

「あなたがいなくて寂しかったから」 馮艾保は瞬いて微笑んで返事をした。

 元気いっぱいの彼を見て、監察医は苦笑した。彼もセンチネルだ。そして彼もまたホワイトタワーを嫌うセンチネルの一人だ。だから、タワーに入ってきてからはまるで金魚が水を離れたような状態になっている。もがくほどに苦しんでいながらご遺体の外表所見を終わった後、体を横にし、死を待つように口を開いていた。

「どうして先に帰らないか?」

 何思はセンチネルをなだめるガイドとして、何も考えず自分の精神力を使って監察医をなだめようとしていたが、失敗した。ホワイトタワーの性質で自分もくたびれた。

「君たちは私に聞くことがあるだろうと思って、待ってた」

 監察医は通常検案が終わると立ち去るが、なんと言っても、彼の主戦場は犯行現場ではなく、検死室だ。今日はそこに横たわる若い男女に同情したのか、それとも若かった自分のことを思い出したのか、ここに残っていた。

「どうしたの?昔の卒業ダンスパーティーを思い出したのか?」馮艾保は自然に監察医の考えが分かる。

 ホワイトタワーに住んでいる人々はみんな若いセンチネルだ。彼らの特徴が明確になってからホワイトタワーに送られ、そこで暮らして教育を受ける。

 この真っ白のタワーで退屈な生活を送るのはセンチネルの日常だ。彼らの生理的特性ゆえ、生理的機能が成熟していない幼いセンチネルは自分をうまくコントロールすることができないのだ。五感が敏感で脆くて、一般の環境で生活するのはとてもできない。

 いわゆる「外の世界」に置かれると、センチネルは五感の高い敏感性により、心神耗弱で気が狂いそうになって、または過度な刺激をそのまま受けて、永久的な損傷を受ける可能性がある。例えば失聴、失明、認知症などになってしまうとか。

 このホワイトタワーはセンチネルを守るためのものだ。塔内の環境は平穏で単調にしている。マットな白いライト、軽くてかすかなホワイトノイズ、シンプルなレイアウトと内装。その名前の知らずが、頭を空っぽにさせるほど人の精神を有効に癒しせる特別な雰囲気。


 馮艾保の言葉によると、この「墓のように静かな場所」は年に一日だけ、新鮮な空気が息を吹き込むのだ。

 その日は多くの若いセンチネルが待望していた成人式と卒業ダンスパーティーだ。

 その名の通り、卒業を控えた新成人のセンチネルだけが参加できる盛大な行事だ。その代わりに、若いセンチネルにとっては、この日はさらに抑圧的だ。自分の小さい部屋に閉じ込められ、ダンスパーティーの音楽とはしゃぎすぎの歓声を避けるためだ。

 これは同じセンチネルとしての監察医が死んだ二人の若きセンチネルに同情する理由だ。本来、成人式または卒業ダンスパーティーは最も期待される楽しい日だ。この日はホワイトタワーに閉じ込められた子供たちには言うまでもなく、自分たちの人生が希望と光に満ちた新しい章に入ることを意味している。

 彼らは八年から十年間の監禁に耐えてきた。一部の人はこのような拘束生活に慣れ、未練をもっているが、ほとんどの人は幽霊のように生き、理不尽な扱いを逆らおうとせず従っている。そして、わずかの一部の人はこの監禁されたような生活を憎み、翼を生やして飛び立てることを夢見た。

 いずれにせよ、彼らがホワイトタワーを離れることを憧れているのは間違いない。

 講堂全体のデコレーションから見れば、若いセンチネルたちはこのパーティーへの期待が覗かれる。ついに自分たちの首に繋がる鎖の鍵を見つけたカナリアのように、嬉しさのあまりに気が狂いそうになっているが、その一方、一歩間違えばすべてを失うのではないかということをも心配している。

 彼らは長年、雪のような白色に占められていた視覚神経を刺激しないよう、注意深く優しいパステルカラーを選んだ。また彼らは一番ソフトな音楽を選んだが、ちょっぴりの刺激も欲しがっている。ポップスを聴くのはまだ無理だが、クラシックは良さそうだ。ダンスに向いた少し活発なメロディーを選びたい。食べ物も薄味の方がいい。揚げ物はダメだが、焼き料理やソテーぐらいのものなら試してみたい。調味料の瓶を食べ物の横に用意しておいて、適当に味付けをして、長年茹で物を食べてきた味蕾をいきなり傷付けることなく、料理を楽しめる……等々。

 馮艾保も中年の監察医も、この世界を恐る恐る体験してきた経験があった。地面に横たわって命を落とした二人もそれを体験したのだろう。彼らはあと五日でホワイトタワーから出られるのに……あと五日だけ。

 けれども彼らは永遠にここを出ることができないようになってしまった。

「それで、死因について大まかな見当がありますか?」馮艾保が聞いた。

 彼は悲しい感情に溺れる性格を持っていない。センチネルという特殊な身分を除き、前途有望な若者が暴行事件で亡くなった事件を扱ったことがないわけでもなく、この事件はそれとそんなに違いはない。

「今の時点では、心停止による心臓突然死が原因だと思う」監察医が答えた。「未だ外傷も見当たらない。ご遺体はまだ柔らかい。手足の先端に低酸素症の症状であるわずかなチアノーゼが見られたが、長くは続かなかった。彼らはすぐに死亡しただろう」

「誰でも彼らの状態がおかしいと気付かなかったのか?」何思は我慢できずに聞いた。

 センチネルの五感は精密機器より敏感に反応する場合もある。どんな異状も彼らの感覚から逃れることはないはず。常識からいえば、講堂内にセンチネルがいっぱいいる場合、この講堂はまるで無数のセンサーで覆われた状態になったはず。

 想像してごらん。二十数匹の猫が十平米の部屋にいるときの状況を。もし、あるネズミが壁面の穴から出てきてチーズを盗もうとしたら、そんなとき移動は難しいという程度の話ではなく、ネズミのヒゲが壁の穴から突き出た途端、猫は爪でネズミを攫い、すぐに食い殺すだろう。

 その時の講堂はそんな感じだった。理論上、どんなささやかな異常があっても必ず誰かがに気づかれたはず。

「いいえ、今日だけは例外だ」

 馮艾保と監察医は口を揃えて言った。二人は顔を見合わせ、監察医は話す機会を若者に譲る手のジェスチャーをして、自分は口を開けて死を待つ金魚であり続けた。

 馮艾保は監察医の肩を同情な気持ちを含んで軽くたたいてから、相棒に向けて説明し始めた。

「この講堂は先輩と私にとっては過度な刺激がない場所で、ホワイトタワー内部の他のエリアとほぼ同じだ。外の日常生活環境よりは穏やかだ。けれども考えてごらん。今日ここに集まっていた若者は八年から十年間極めて退屈な生活を送ってきたもので、彼の目には白色しか、耳にはホワイトノイズしか経験したことがなかった。このダンスパーティーにある色彩と音楽はもう彼らが耐える刺激の上限値をオーバーしている」

 分かりやすく説明すると、それはまるで長い間目が見えない人が突然この世界を見えるようになって、溢れた色彩と情報が一気に視野に入ってきたときの状況と同じだ。どの情報が重要か、どの情報が二次的であるか、どの情報が正常で、どのメッセージが異常であるのを識別できなくなる。

 識別できなくなると、すべての情報の重要度が一緒になってしまって、情報の裏に隠しているディテールも気付かずになってしまった。

「ということで、二百人近くがここにいたとしても、参考になる目撃者は一人もいなかったのだろう」

 馮艾保は軽い口調で結論を下したが、監察医と何思は同時にため息をついた。

 この事実ほど挫折感を覚えさせるものはない。一般の犯行現場には監視カメラの情報が取れるが、特に学校のような場所では監視カメラの数が特に密度が高いだろう。しかし、ホワイトタワーの環境が特殊で、監視カメラはない。部外者や内部の誰かが事件を仕掛けたとしても、知る由もない。

「そうだな。私はずっとここにいてもしょうがない……」

 監察医は眼鏡を取り外して鼻の付け根を揉んで、眼鏡を掛け直してから再び深いため息をした。

「実際、私はこの二人の子が過剰刺激による心臓突然死を起こしたと思う。つまり、これは事故だ」

 監察医が講堂に入った時、たまたまスピーカーからチャイコフスキーの序曲『1812年』の音が流れてきた。大砲の効果音は成熟したセンチネルの彼にも耳鳴りを引き起こし、鼓膜を痛めた。もちろん、ホワイトタワーを出ていない、安全に守られているこの雛のような若者たちにとってはこれ以上の刺激が感じられただろう?

 その曲が流れるまで、他の強い刺激性のあった曲も流れられたかもしれない。

 この推測について監察医は馮艾保と何思にも言った。何思はどのような曲が用意されたかを調べると承諾してうなずいたが、馮艾保は眉を上げただけで、真剣に受け止めていないかのようにさりげなく微笑んだ。

 でも、ここからは監察医とは関係のない分野だ。現場調査は馮艾保の権限範囲であり、監察医の権限外だ。それぞれ担当する専門分野があるので、彼は自分の職務を謹んで遂行すればいいだろう。

「じゃ、先に帰るね。お疲れ様」

 監察医は手を振って、ようやく酸素不足になっている金魚のような状態から脱却すると決めた。

「先輩、さよなら。気を付けてお帰りください」

 馮艾保は正しくない敬礼をして、監察医が羨ましいほどの明るい口調で言った。このセンチネルはどのようにしてホワイトタワーの中でもこの程度の元気を維持できるのか?不思議だ!

 だから監察医は馮艾保に白目をむいて不満そうな表情を見せた。立ち去ろうとしたとき、突然何かを思いついたように引き返し、何思に向けて言った。「あ!聞いたよ。新婚おめでとうございます。披露宴をあげるとき、私にも招待状をください」言葉を吐いてから手を振って、早い足で立ち去った。

 スピーカーから今度は『カルミナ・ブラーナ』の「O Fortunaおお、運命の女神よ」のメロディーが流れてきた。力強い問いかけを帯びた荘厳な音楽と歌声の中に、馮艾保と何思の目が合ったが、センチネルの方は先に視線を逸らした。

「え?結婚?」

 馮艾保は下唇を触り、先ほどご遺体を観察するために外したサングラスを掛け直した。口元の微笑みには軽い嘲笑を含んでいた。

「わざと教えてあげないようにしていない」

 何思は弱々しい声で言った。小鼻を擦って、馮艾保を和めるためにエンパスempathを伸ばした。

 馮艾保は、何思のエンパスempathから伝えてきた気まずさ、何をすべきかわからない気持ち、罪悪感を感じて、

「実は、知っていたよ」と笑いだした。

 それを聞いて、何思は一瞬に唖然としたが、すぐにエンパスempathを引っ込めた。それでも馮艾保は相棒の逆ギレを感じた。

「怒らないでください。説明させて。まず、先輩を尊重しているので、わざと隠していることがもしあれば、私もそれを知らないふりをする。先輩、これは私の思いやりだ。怒らなくていいだろう?」

 馮艾保って奴、きっと口巧者として生まれたのだ!何思はむかついてしょうがない。馮艾保を睨むことしかできない。三十歳近い男の人だが、頬を膨らませて怒る顔がかわいい。

 馮艾保は彼を一瞥すると、突然指先で何思の頬をつついた。プッという音がして、膨らんだフグをつついたような感じがした。

 二人は暫く会話をせずに互いに見つめあったが、突然二人が同時に口を塞いで俯きながら、くぐもった笑い声を上げた。

「わかった。これは俺が悪いだ」しばらくして、何思は目尻から笑いすぎて流した涙を拭き取り、頭を傾け、不躾な立ち姿をしている相棒を見つめた。センチネルはその長い脚を洒脱に交差して壁にもたれて立っている。その姿はずいぶんリラックスしているように見えたが、いつでも攻撃してくるような緊張感も微かに帯びていた。

「わざと隠しているわけではないと言うじゃないかと思っていた」

 馮艾保は口を半分隠して、あくびをしたようだった。

「そんなつまらない嘘はつかない。言ってもあなたは信じてくれないだろう」

 何思は馮艾保の姿を真似して壁にもたれて立った。けれども彼の姿は馮艾保のような洒脱感がなく、むしろいい子のような慎み深さのある姿で立ち去ろうとする鑑識スタッフらを眺めた。

 馮艾保が再びあくびをするまで、二人の間に沈黙が続いていた。

「馮艾保が聞きたいことを知っている。一つ目の質問に対する答えは、後悔はしていない。それに次いで、よくよく考えた。最後の答えは、いいえ、センチネルとの結婚を考えたことはない」と、何思は速くも遅くもないスピードで一文字ずつを吐き出した。

「おー」馮艾保は肩をすくめた。何思にこの件について質問するつもりはなかった。センチネルと結婚せず、普通の人を選んだガイドは自分なりによく考えただろう。誰もそれに意見を述べるべきではない。

 彼は小さい頃からわかっていた。その決定が正しいかどうかに関係なく、一旦人が決心を固めると、誰もまたは何かがそれを簡単に揺るがすことはできない。そんな必要もない。

 何思は馮艾保の思いをよく理解している。二人はすでに十年間も相棒を組んで一緒に仕事をしてきたし、互いに精神力に通じて、相手の気持ちを知ることもできる。

「この件はもうわかったので、もう一件をついでに言っておく!」

何思は心の重荷を下ろしたように見えた。また、悩みをずっと抱えるよりも、今から打ち明けた方がいいと考えているだろう。彼は姿勢を立て直し、顔を横に向けて馮艾保のサングラスに映る自分の姿を見た。

「俺は退職する。あと一か月で」

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