夜、桜に化ける

おかお

本編

 家に帰って来てから30分は散歩をするようにしている。グレーのスーツからスウェットとTシャツに着替える。身体の締め付けから解き放たれて、


 朝はギリギリに起きるから走っている時間はない。夜の方が朝散歩するよりもぐっすり眠れるような気がしているから、この時間にわざわざもう一度外に出る。


 毎日道順を変えている。道順を同じにして「毎日会う人」ができると大変そうだからだ。


 その日は少し離れた公園まで歩く。川に面した広い公園で、昼間は長い滑り台で遊ぶ子供や、ギターを弾いている人がいる。季節ごとに咲く花も魅力の一つであり、今は梅が満開を迎え、桜がぽつぽつと咲き始めているところだ。


 8時から9時という時間のため、塾終わりの小中学生や仕事帰りの人がぽつぽつといる。みんな移動することに精一杯である。その中で、公園のベンチに座っている人影がやけに目立っていた。


 ベンチに座っていたのは女(少女?)である。彼女は蛍光灯の下で絵を描いていた。長くまっすぐな髪が顔にかかって影を落とし、顔を真っ黒にしている。全てのパーツは曖昧になっている。無遠慮にも覗き込むように歩いていた。


「そこにある筆、取っていただけませんか」


 すると、声をかけられた。高いトーンの声であることから少女と判断する。指を指された方をみやると、足元に棒切れが一本落ちているのが分かる。しゃがんで拾うと初めて平筆であることが分かった。


「どうもありがとう」

「暗い時間に絵を描いてるのは珍しいような気がする。しかも絵の具を使って。色はきちんと見えるのかい」

「うーん、あんまり」

「今は何に色を塗ってるの」

「桜。だけど何色を塗っているのかはよく分からない。実物も絵も全部青白く見えるし、そうじゃなかったら真っ暗に見えるから」


 また指を指す。今度は木の方向だ。木は電灯より大分遠くにあり、昼間のように色を識別できるわけではなかった。


「完成しそう?」

「これを明るいところで直したりしたら。あと少しで出来上がるわ。明日も来る?」

「どうだろう」

「明日もここにいるわ。来てくれれば見せられると思う」


 翌日同じ公園に行った。毎日同じ道を選んでいた僕としては、これは特例だ。彼女との約束だ、という思いが強い。暗く白い所で描いた絵を、明るい場所に持っていって、また暗く白い場所で見る、というのはとても奇妙だ。結局薄暗く、何が何だかよく分からないままに違いない。


 電車の遅延のために帰りが少し遅れて、その上月が欠けて来たので、空は昨日よりやや暗い。絵を見るにはますます向かない状況になってしまった。


 昨日と同じベンチに彼女は座っていた。長くまっすぐな黒い髪は相変わらずだ。


「本当に来た」

「完成したの」


 彼女がベンチの隣を指差すので、僕はそこにこしかけた。彼女の手には絵がある。A4サイズの紙に描かれた、白昼で見たような夜桜の絵だ。白昼で見たような夜桜というのは我ながら奇妙な表現だ。なんでこの絵だけやたら明るいんだ?蛍光灯以上の光を当てている訳でもないのに。


「直しで形を変えるわけじゃないの。色のバランスだけなの、直してくるのは。今日は昨日より暗くなるって分かっていたから、少しずつ濃くしてきたの。夜と蛍光灯の色に合わせて。そしたら綺麗に見えるのよ。当たり前だけど、明るい時に見てみたら間抜けな色してた」


 彼女の説明はこなれていた。何人にも説明し終わったみたいだ。


「僕は君のことを馬鹿にしているところがあったのかもしれないな」

「種明かしする前は皆そうよ。当たり前」


 彼女は一瞬、顔を上にあげた。その時目元が潤んでいるのが分かった。とても美しい女性に違いなかった。


「私の絵を見たかったからここに来て。昼も空いてるけど、私は夜に来て欲しい」


 そうやって手渡された名刺は暗くてよく見えなかった。キャバクラや風俗の新手のキャッチかと疑ったが、こんなにコストパフォーマンスの低いキャッチもない。


「また会いたい」


 そう言って彼女はベンチを立った。立ち上がったことで初めて、彼女がミニスカートを着ていること、脚がむやみに細いことが分かった。


 この後の散歩ルートを歩くと彼女と同じ道を歩くことになってしまう。それはさすがに無粋だと思い、来た道を引き返した。その結果散歩は15分で終わった。


 帰って来てすぐに名刺を見ると、それがただの白い画用紙だと分かった。化かされたような気持ちだ。あの時店の住所と名前を訊いておけばよかった。



 彼女が一筋縄では行かないと気がついたのはそれから5ヶ月も経ち、なんとなく、捨てられずに取ってあった名刺を見ていたときのことだった。

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