最悪で最高の夜

しほ

最悪で最高の夜



 ほんと、腹が立つ。

 もう顔も見たくない。


 春先にしては薄めの上着を掴み、財布片手に私は飛び出した。一人息子は中学生。反抗期の真最中だ。


 受験生なのに塾もさぼりゲームばかりしている。息子の将来が心配だから、少しでもいい高校に入ってもらいたいから、つい言葉は厳しくなる。しかし、どれだけ言い争っても私達の間に入る者は誰もいない。


 私は初めて家を飛び出した。家出ではない。少し落ち着きたかっただけだ。


 怒りで強く踏みしめていた足音も、夜風に当たると心なしか緩やかになった。誰もいない道端で私は立ち止まった。


 大きなため息が一つ出た。


「何か買って帰ろう」


 今しがた飛び出して来たはずなのに、もう帰ることを考えている自分がおかしかった。


 こんな夜遅くに開いているのはあそこだけだ。私はぬくもりを求め、五分ほどのんびり歩くと、仕事帰りに立ち寄るコンビニが見えてきた。まるでオアシスのようだ。


 何だかほっとする。


 真夜中なのにコンビニは昼間のように人の出入りがある。こんな私も浮いていないはずだ。そう思い扉に手をかけた。すると一瞬目を疑う光景が飛び込んできた。タイムスリップでもしてしまったのだろうか。


 そこには懐かしくも見慣れた後ろ姿があった。


 昔付き合っていた彼……。洸平こうへいが若い姿のままいるのだ。私は声をかけることもできず、彼の背中を追った。


 洸平は店内を見渡しアイスのコーナーをチェックしている。

(お腹弱いのになぁ)昔のままだ。


 お次はドリンクの棚へ行き、お目当ての甘いコーヒーを取った。そしてお決まりの雑誌のコーナーへ向うのだ。全てが昔のままだった。懐かしくて嬉しくて涙が出るのを必死で抑えた。



 私は大学卒業間近に妊娠した。もちろん洸平の子どもだ。けれど彼は海外への留学が決まっていた。しかも四年間。


 私は何も言えずに別れを切り出したのだ。もしも、妊娠の話をしたのなら彼は留学を諦めるだろう。彼はそういう人間だ。それだけは絶対に避けたかった。しかし、中絶をするのも嫌だった。だって大好きな洸平の赤ちゃんだから。


 そして私はシングルマザーの道を選んだ。


 

 若いままの洸平は袋菓子やホットスナックを買い会計を済ませた。


洸平こうへい


 私は思い切って声をかけたつもりだった。しかし、彼の耳には届かなかった。いや、届かなくてよかったのかもしれない。だって、私はおばさんになり、洸平はあの頃のままだったから。


 洸平はコンビニから出ると夜の街に消えていった。私はレジから外れ、洸平が手にしていた袋菓子とホットスナックと漫画を買った。


 コンビニの帰り道、夢見心地の私は桜の散った公園に立ち寄った。


 息子が小さな頃、よく二人で来た公園だ。砂場で山を作り、一緒に滑り台に乗った。転んで泣いたこともあった。思い出が次々と溢れてくる。小さな頃はあんなに抱きしめてあげたのに……。


 急いで私はアパートへ向かう。


 息子が産まれて十五年、私はシングルマザーのままだ。後悔をしていないと言ったら嘘になるけれど、昔の自分の判断を間違ったとは思わない。


 帰るなり息子は玄関で待っていた。


「ただいま」


「お帰り」


 不愛想ながら迎えてくれた。私は買ってきたコンビニの袋を息子に差し出す。


「あっ、これオレの欲しかったヤツ」


 洸平の面影を持つ息子は笑顔を見せた。


 今夜は不思議な夜だった。

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最悪で最高の夜 しほ @sihoho

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