第39話 帝国の主


 その場所は、ひどく冷たい場所だった。温度ではなく、まるで凍てつくような空気が人の心すらも凍らせる。無駄な言葉、無駄な動き一つも許されることのないその宮殿の中には、冷え冷えとした大理石の段上に、一人の男が豪奢な椅子に足を組みながらふん、とつまらなさげに息を吐き出す。


「……なんだ、このわけのわからん書状は」

「ウィズレイン王国の王からでごさいますな。遠回しに、事前の予告もなく国境を越え兵を挙げたことに対する我が国の非道を責め立てる内容となっております。まあ……そこそこに正論ですな」

「馬鹿を申すな!」


 男はすぐさま書状を破り捨て、怒りに顔を赤黒く染める。かの男こそ、アルバルル帝国の国王、リゴベルト・ジャン・アルバルルである。かきあげられた前髪からは整った風貌が惜しみなく顕わになっているが、見るものを萎縮させる眼光の鋭さである。

 しかし顔を隠した黒いローブの男はしわがれた声を平坦なままに変化させることなく、言葉を続ける。


「我が王よ、破り捨てるのは結構ですがそちらの書状にはミュベルタ国の名も連ねられておりますぞ。国境を越えた理由はウィズレイン王国の征服を目的としたものではなかったと、適当な理由をでっちあげる方が無難でしょうなぁ……」

「そもそもミュベルタの正妃は、ただの人質同然の正妃、ミュベルタにとってあの国は捨ておける程度の属国ではなかったのか? まさかウィズレインのためにわざわざ兵を出すなどと信じられん」

「表では必要以上に関わらぬ姿は演技であった、ということかと」

「すべてはあちらの手の上であったということか」


 リゴベルトは苛立つように足を組み換え、指の先で忙しなく肘掛けを叩く。苛立ちに瞳を閉じ、次に目を開けたときにはどこかに感情を落としたかごとく、冷たく、落ち着いた顔つきだった。


「愚かなことよ……」


 リゴベルトにとって、自身の言葉、考えがすべてだ。


「ウィズレイン……あの国は、もとは我が国から勝手な独立によってできたもの。つまり、


 だから理解できない者は、ただ愚かな人間にすぎない。「思い込みとは、かくも恐ろしきものですなぁ……」と黒いローブの男が、自身に聞こえるほどのわずかな声でほくそ笑む。


「ウィズレイン、そしてマールズ。つまりは両方とも私のものだろう。ならばマールズの土地に眠る鉱山と鉱石……《竜の鱗》もそうだ。違うか?」

「いいえ、我が君。その通りですとも」

「マールズも我が国の属国として日陰の中に生きていけばいいというのに。まったくおかしな欲を出しおって。……仕方ない。ウィズレインの街をもう一度火で焼くか。我が土地を痛めつけるのは少々胸にくるが、不出来な子を躾するのも親の役目だ」


 なんてこともない顔で「ウィズレインはどうせ俺のものになるわけだし、マールズも頼りの先を焼き尽くしておいた方が、こちらに従いやすくなるだろう」と、あっさりと提案する。


「ふむ……。内と外の混乱を引き起こす引き金としてあの襲撃は、我ながらいい考えかと思ったのですが。残念ながら報告によると監視がさらにきつくなっておりまして、下手に侵入することは難しいかと」

「なんと」


 乗り出していた体をがっくりしてリゴベルトは椅子にもたれる。まるで幼い子どものような仕草だ。


「仕方がない。表向きは、適当な謝罪を行っておくべきか……なあ、よ」

「なんですかな?」


 リゴベルトはこの男の名を知らない。影とお呼びください――そう言って、ある日リゴベルトの前に現れた。いつも顔を隠しているその男は、男であるということ以外、若者なのか、それとも老成した年寄りなのか、奇妙な声色であり判別すらつかない。

 が、影は様々な情報をリゴベルトにもたらした。マールズ国に新たな鉱山が見つかったことをいち早く知らせてきたのはこの男である。


「お前がどこから得た情報を俺に流しているのか、興味はない。が、下手な考えを持っているというのなら、その命はないものと思えよ」

「これはこれは恐ろしい。……私も、彼の国は少しばかり思い入れがあるのでございますよ」

「……ほう?」


 一瞬、影の声色に揺らぎが見えたとリゴベルトは面白げに片眉を上げる。


「竜の鱗をですな。作っていたのです」


 なんてこともなく告げられた言葉に、リゴベルトは呆気にとられた。そして盛大に吹き出した。それが鉱山としてのものか、それとも、言葉通りの意味か読み取ることはできなかったが、なんにせよ荒唐無稽な話である。


「それで、完成したのか?」

「残念ながら」

「やはり無理だったか!」


 腹を抱えて笑うしかない。


「いえいえ、ほとんど完成はしていたのですよ? しかし竜に邪魔をされてしまいましてねぇ」

「ほほう、竜か。ウィズレインの地に生まれたと噂には聞いていたが……」


 ウィズレインにせよ、マールズにせよ、古臭いものを信仰するのだなと鼻でせせら笑っていたものだが。それが事実というのならば。


「影よ、ウィズレインは俺のものだ……と、いうことは、だ」


 獰猛なほどに歯を見せ、リゴベルトはにまりと笑う。


「――その竜も、俺のものということに違いはないだろう?」


 わずかな間をあけて、影はゆっくりと返事をした。

 声色は微笑んでいる様子だ。


「ええ、もちろん。その通りですとも」





***





 クロスが出陣して一月ほどたった頃、クロスと兵は帰還した。

 すでに何度か伝書魔法を通じて手紙のやり取りを行っていたので、事情は把握していたものの、やはり実物を見るとでは気の持ちようが違う。安堵の息をついたのは、まだまだ記憶に新しい。


 なんだかんだと忙しくするクロスと会うことがなく時間ばかりが過ぎていったが、その日は珍しくクロスの執務室に呼ばれていた。指定の時間まではまだ間がある、と手持ち無沙汰であったためにわずかでもメイドとしての仕事を行おうとしたエルナだったが、少しだけ困ったことがあった。いや、少しどころかものすごく困っていた。

 ここ最近、城ではなく街を訪れ復興の手伝いをしていることが多かったために、メイドとしての仕事は久しぶりなのだ。そして同時に、ノマと顔を合わせたのも同じく久々のことで。


 ノマとエルナは、現在会話どころか笑みの一つもなく互いに背中を向けあったまま庭の掃き掃除を行っていた。これじゃあまるで初めに出会ったときのような気まずさね――とエルナは考え、原因は自身であることに気づいてはいた。エルナのポケットの中から、ハムスター精霊が鼻をひくひくさせながらきょろきょろ顔を覗かせている。


「あ、あの、ノマ!」

「……なあに?」


 ともすると冷たいような声でノマはゆっくりと振り向いた。一瞬、逃げ出してしまいたくなったがぐっと箒の柄を握りしめて、口元を引き締め気合を入れる。


「私――エルナルフィアなの!」


 叫んだ後に、ん? ちょっと分かりづらいかもしれない、と眉をひそめて、もう一回言い直す。「私、エルナルフィアの、生まれ変わりなの!」、と。


 ノマはエルナのその発言を聞き、初めはきょとんと瞬いた。しかし次第に顔を真っ赤に変え、怒りのあまりだろうか、箒を握る腕をぶるぶると震わせ強くエルナを睨んでいた。

 気持ちはわかる、とエルナは深く心の中で頷いたが、そんな顔はおくびにも出さず、ただ真面目くさった顔でノマを見つめる。騙すつもりはなかったが、結果として同じならそこに差異はない。どんな罵声も受け止めるつもりだった。

 しかし、次に続いた言葉は予想外のものだった。


「そんなこと、もう知ってるわよ、この馬鹿! ジピーに聞いたんだから!」

「じ、ジピーに……」


 王都が燃えたあのとき、ジピーは兵として救出作業に当たっていたし、その後もエルナの馬鹿力を何度も目にしているだろう。なるほど、と納得したとき、ノマがぶんっとこちらに手を振る動きが見えた。エルナは思わず目を瞑って衝撃を待ったが、次に来たものはただ力強く抱きしめられただけだ。ノマが落とした箒が、からんっと地面に落ちる音がする。


「心配、したんだからぁ!」


 驚いてはっとして目を見開き、自分も思わずノマの背に手を当ててしまう。


「あ、あの日、お、王都が燃えて、どこを捜してもっ、エルナが、いなくてっ」


 少しずつ、ノマの声がしゃくり上がる。じわじわと、さらに強く抱きしめられる。その小さな震えと、ノマの声にエルナは呆然とした。そして次第に自身の瞳に薄い透明な膜が包んでいることに気がついた。ノマの気持ちを想像した。そしてとうとう耐えきれなり、ぼろりとエルナの両の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「し、死んでしまったのかとっ、あの日……!」


 声をかける時間などなかった。そんなものは言い訳で、大事な友人を不安にさせたことが、ただエルナは情けなかった。「ごめんね」と謝ることしかできず、互いに喉をしゃくり上げた。そして二人して大声で泣いて、エルナはぎゅっとノマを抱きしめ返した。






「エルナがエルナルフィア様だってこと……私がもう知ってると思ったから謝ったんでしょ?」

「うん、その通り……」


 エルナとノマはお互いまぶたをぱんぱんにしたまま、庭の隅にちょこんと座っている。

 子どものような泣き方をしてしまった自分が恥ずかしく、けれども胸の中にあったもやもやがすっきりしたから、楽な気持ちでもあった。


「さっきも言ったけど、そりゃ知ってるわよ。街じゃ随分な噂だって言うじゃない。ジピーに教えてもらったときはびっくりしたし、ジピーだって驚いてたけど……。でも、エルナはエルナだもの。敬えっていうならもちろんそうするけど」

「偉い竜だったのは私の前世で、私じゃないから別にいいよ。竜が偉いかどうかってのも、実はちょっとわかってないけど」

「そう。じゃあ、今まで通りね。でも……エルナが街を、救ってくれたってことも、もちろんわかってる。本当にありがとう」

「……うん」


 ずずっとノマは男前に鼻をすすりながらじっと正面を見つめていた。エルナも持っていたちり紙でちんっと鼻をかむ。自分でも先程の泣き方にはびっくりする……というくらいに泣いてしまったのだ。とりあえず今は平素の顔を作るしかない。

 なんともいえない沈黙を破ったのはノマの重たいため息だった。


「……やっと水で手が荒れているのが治ってきてたのに。こんなに火傷だらけにして」


 まるで割れ物にでも触るように、そっとエルナの手を持ち上げて痛々しげに顔をしかめる。


「そんなに痛くないよ。我慢できる程度だったし、それにもうかなり治ったから」

「でも痛かったことに代わりはないでしょう」

「そうかな……」


 そうなのかな、と妙な返答をしてしまう。


「……あの、ごめんね」

「別に、今更私のことはいいのよ。それよりヴァイド様でしょ」

「クロ……ヴァイド様って、どうして?」

「だって」


 ぽかんとするエルナを横目に、ずず、とノマはもう一度鼻をすすった。それから手の甲でごしごしと目頭をぬぐっている。


「ご結婚、なさるんでしょ? ヴァイド様と」





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