第18話 火竜、エルナルフィア 後編


 がらりと空気が変わったということを、すぐさまエルナは理解した。エルナの肩に乗っていたはずのハムスターは、即座にポケットの中につっこむ。そして飛び跳ねるように司祭とエルナは互いに距離をあけた。間の空間は、長椅子が三列。初老とは思えぬ機敏な動きだ。さらに、気配のみ膨らみ上がっていた“それ”がぼとぼととこぼれ落ちエルナを狙う。


「誰かいるのはわかっていたけどね……!」


 祭りの日と同じく、司祭以外の人間が息を殺して隠れ潜んでいたことには気づいてはいた。仮面をつけた男達が、それぞれ武器を握りながらエルナに向かう。瞬間、腹部に拳を叩き込んだ。あぶくを飛ばしながら教会の壁の端まで吹き飛ぶ姿を見送り、「ふうっ」とエルナは拳に息を吹きかける。


「別に、何人いようと問題ないよ。全員叩きのめしてあげるから。それにしても随分と怪しい場所を作ったものだね。司祭様も偽物ということは……わかっててカカミも逃げたかな? どうりであの子の所在を聞き出そうとするわけだ」


 巻き込む人間がいないとするならば、むしろ存分に暴れることができる。さらに二人、三人と飛びかかる男たちを、エルナは一人残らず叩きのめす。とうとう残った人間は司祭一人で、呆然とエルナを見つめている。


「メガネ、ずれてるよ。大丈夫?」

「お、お前は、なんだ、その力は……!」

「馬鹿力の小娘なんだ」


 じゃなきゃこんな怪しいとこ一人じゃ来ないよねと口の端で笑いつつも、これではクロスのことを怪力だと馬鹿にはできないなと、ふと頭の端で考える程度には余裕である。


「ハルバーン公爵はエルナルフィア教の信者だというのなら、接点を作ればいくらでも怪しく仕立て上げることができそうだよね。自分の息がかかった使用人を送ることもそう。っていうか、牢から逃げた人はどこに行ったの?」


 ハムスターが種を投げつけたのは司祭ではなく犯人に対してだ。まさか同一人物、というには顔も違いすぎる。

 エルナの右腕にはすでに轟々と炎が燃えていた。体を舐め尽くすように燃え上がる炎は、少女の顔を静かに照らす。


「全部話してくれるなら、優しく燃やすよ」


 司祭はへたり込みながらも、呆然とエルナを見上げた。はくはくと口を動かしつつ、瞳をきょろつかせるが、すぐにずれたメガネを直しながら、顔に貼り付けていた柔和な笑顔はかなぐり捨て、にまりと表情を歪ませ立ち上がる。


「お、お前、その力は……まさか、お前こそが、エルナルフィアの生まれ変わりか……!」


 もちろん、答える義理はない。

 炎を身にまといながらも司祭に近づき、こつり、こつりと足音を立てる。


「ああ、ああ、アセドナの神よ! なんという幸運でしょうか!」


 司祭が叫んだ名の神は、エルナにも聞き覚えがある。少なくとも、この国の信仰ではないその神の名を訝しく問い詰めようとしたそのときだ。教会の壁や、長椅子に埋もれるように倒れていた男たちが、一人ひとり奇妙な角度で起き上がる。


「……もう、動けないはずだけど?」


 吹き飛ばされ壊れた材木をゆっくりとかき分け、ざくり、ざくりと近づく。一人の男がつけていた仮面が、こつりと音を立てて床に落ちた。焦点は合うこともなく、口元からよだれが一筋こぼれ、床を濡らす。


「……何これ、意識がないけど」

「神よ、神よ、神よ! これで偽のエルナルフィアを作る必要などなくなりました! この者を、捕らえることができれば、それで!」

「偽って、ちょっと、うわっ!」


 意識のない男達がエルナに飛びかかり、殴り飛ばそうとも、蹴り飛ばそうとも変化はない。「なんで、この……!」 だんだんと、エルナの首筋に汗が滲んだ。なんてことのない攻撃ばかりで避けることも容易かった。けれどもエルナの身体は、今は竜ではなくただの人だ。次第に肩で息をしながら、動きも鈍くなってはくる。炎の魔術を使えば、一瞬で男たちを炭にすることはできる。しかし、それでは彼らを殺してしまう。


 明らかに男達に意思はない。逃げることもできるだろうが、そうしたとき、彼らはどうなってしまうのだろうか。


(そんなこと、どうでもいい。いちいち考える必要なんてない!)


 自身に言い聞かせて、唇を噛み締めて体中の魔力を炎に変換する。そして、殺す。一人残らず、殺す。心では、そう思っている。なのに身体が動かない。殺したくない。人は殺せない。傷つけたくない。


 悔しくて、悔しくてたまらなかった。わけもわからない感情ばかりが身体の内で暴れている。


「さあ、お前たち、エルナルフィアを捕まえるんだ……!」

(何を、勝手な……!)


 苛立つ感情を噛み締めた。なのに、やはりエルナの身体は動かなかった。『ちゅ、ちゅらぁ! ちゅらー!!』 ポケットの中で、暴れている声がする。息を吐き出した。「大丈夫、守る」 話しかけたつもりではない。ただ、自身に言い聞かせた。自分のことなど、どうでもいい。けれど、この子だけは守らねばと。

 ポケットの中にいる、小さなこの命は、守らなければいけない。



 ***




 ざわりと風が鳴る音とともに、クロスはゆっくりと顔を上げた。目の前には一本の剣がある。鬱蒼と茂る樹木の天井からは、わずかな隙間から星が瞬き、こぼれおちていく様が見えた。


「……エルナ?」


 不思議とその名を呟いていた。

 青年の胸元に下げられた鱗が、淡く明滅を繰り返した。握りしめると、ざわつく感情が流れ込み、ぞっと顔を上げた。そして、流れるままに剣の柄に手を置いた。


 ――繋がっている。


 どくりと、大きな音が響く。クロス自身の内側か、それとも。

 キアローレはひどくクロスの手に馴染んでいた。胸元から鎖がこすれ、音を立てる。ざわめく枝葉の隙間から、幾筋もの星が尾を引くように流れ落ちていく。握りしめた剣は、どこかにクロスを連れ去ろうとする。まるでおとぎ話の中にいるかのようだ。右も、左もわからないほどに落ちていく星々の中で、迷うこともなく。


 クロスは――剣を、引き抜いた。



 ***



「……なんで」


 エルナは口元を力強くぬぐった。寒いはずなのに額からは汗が吹き出ている。小さな精霊を胸元で守り、肩で息を繰り返している。


「うむ。呼ばれたから来てみれば、随分な状況だ」

「な、なんで、どうして、クロスが……」

「お前と俺は繋がっている。そして、キアローレもな」


 エルナの前に立ちながらにこやかに振り返るクロスの手には、古めかしい宝石が柄に埋め込まれた、一本の剣が握られている。ただの剣は、長く人々に語り継がれることで物語となり、力を得たと以前にクロスは語っていた。

 クロスは穏やかな顔でゆるりと微笑んではいるが、まるで落雷のようにも思えた。瞬く白い光が教会のステンドガラスを砕き落としたかと思うと、青年がエルナの前に背を向け、その場に立っていたのだ。エルナはただただ瞠目するしかなかった。


 月明かりの中で、クロスの背は不思議と今も輝いているようにも見えた。きらきらと、そっと光の雨が降っている。


 同時に、エルナに襲いかかっていたはずの男達はいつの間にか吹き飛ばされ、今度こそ意識を失っている様子だ。


「ほら、エルナ」


 エルナの手からハムスターの精霊はするりと逃げ出し、ポケットの中に収まる。

 クロスから差し出された片手を、しばし瞬きながら見つめて慌ててあいた手を伸ばすと、すぐにぐいとひっぱられた。かしゃり、とガラスを踏みしめてしまう。


「うわ、わ」

「まったく、俺の嫁は活動的でたまらんな」

「よ、嫁ではないと何度言ったら……」

『もうここまできたら嫁と認めるでごんす』

「ニ対一になるのはやめい!」


 わちゃちゃちゃと話しているうちに、司祭はふらふらと立ち上がった。そして血反吐を吐くように叫ぶ。


「お前、クロスガルド王か……!」「クロスガルド? 誰? また新しい名前?」「長すぎるからな。そう呼ぶやつもいる」「パターン多すぎじゃない?」『ごんすごんす』


 いつの間にか自宅にでもいるのかと思うほどにまったりするエルナ達を見て、「わ、私を無視するなぁ……!」と司祭は半泣きになっている。


「悪い、あまりにも興味がなかった……とは、言ってはいられんな。これはどういうことだ?」


 前半は司祭に、後半はエルナへとクロスは問いかける。エルナはすっと瞳を細め、短く現状を説明する。「そいつはアセドナを信仰している」 おそらく、これだけで十分だとエルナは判断した。


 そして想像通りに、クロスはきゅっと金の瞳を見開いた。その神の名は、エルナルフィアの時代から存在する。ウィズレイン王国は、もとは帝国の一部であり、この地で圧政をしいた領主から独立した小さな国だ。そして、領主が信仰していた神の名は――アセドナ。


「帝国の手先か」

「わからないけど」


 さて、とクロスが剣の柄を握りしめたときだ。


「神の名を、汚いその口で話すな……!」


 青筋を立て、揺らめきながら喉を震わせるその様は、すでに以前の面影はどこにもない。懐から取り出された玉のような何かに、エルナは全身の毛が逆立つように感じた。禍々しい力が吹き出し、次第に呼吸すらも重たく、肩で息を繰り返しながらクロスの服の裾を握りしめる。どうした、とクロスが問いかける前に、「わかるか」と司祭はゆっくりと呟く。


「わかるか、この宝玉の意味が。これは、【竜の鱗】だ。ただの宝石ではない。【竜の鱗】と名のつく宝石を、いくつも重ね合わせて作り上げた、本物のエルナルフィアの鱗だ。いや、そうなるはずだった」


 すでに司祭は無力な男だ。それを、一体何を伝えようと言うのか。


「“私達”は、長い年月をかけて擬似的にエルナルフィアの鱗を作り上げる方法を模索していた。いつか生まれ落ちるであろうエルナルフィアを手中に収めるよりも、人時的にエルナルフィアの鱗を作り上げ、“偽物”を祀り上げる方が現実的だろう」


 国を内側から撹乱させるために、とでも言いたいのだろう。その不安はすでにクロスも予測していたことだ。エルナルフィアが生まれることで、小さなこの国は、これから大きく揺れ動く。ローラの偽証は多くの娘たちの前で行われたことだ。すでに各地に漏れ出ており、エルナルフィアの鱗の存在は未だ伏せられてはいるものの、クロスの胸元に下げられている。

 エルナの存在を否定したところで、落とされた波紋は多くの変化をもたらしていく。


「どこぞの貴族の娘が、エルナルフィアであると戯言をのたまったと聞いたときはとても苛立った……。が、万一そやつがエルナルフィアである可能性もある。偽の竜を作るためには、鱗が必要だ。貴族の娘が竜であると認められる前に、こちらが先んじて動くべきと計画を前倒しにした。……少々無茶をしたが」


【竜の鱗】と呼ばれる宝石が、王都で盗難が相次ぐようになったのは、ここ最近のことだ。


「しかし目の前に竜がいるとなればこんなものは、もう不要だ! お前さえ、捕らえることができれば……!」

「……その偽の鱗は、どうやって作ったの?」


 あぶくをふいてのたまう言葉に、エルナはただ冷淡に返答する。目的は十分に知ることができた。だからこそ、問うべきものはただ一つだ。嫌な予感がした。握りしめた拳はじっとりと汗をかいている。


「……気になるか? 気になるな?」

「早く答えて」

「まて、エルナ。聞くな」

「いいや、お前は聞かざるをえない! 引き寄せられているはずだ、この……多くの者達の魔力に!」

「耳を塞げ! 語り、伝えることは力にも変わる! キアローレの伝承と同じだ!」


(……クロスの声は、聞こえる)


 それなのに、どうしてだろう。

 ただ、エルナは司祭が握りしめる宝玉から目を離すことができない。エルナをかばうように前に出ていたクロスの制止すらも振り切り、片手を伸ばした。溢れ出る司祭の魔力はとっぷりとエルナを水のように包み込み、いくつもの幻が流れては消えていく。ぷくり、ぷくりとエルナの口元から泡がこぼれた。そうして、多くの人間を目にした。


 ――無念の声が、聞こえる。


 親元から連れ去られた子供。動くことのできない老人。すべてを諦めた瞳を持つ女。炎の魔力を身にまとった彼らは、命ある限りに宝石に魔力を注ぎ込んだ。無理やりに連れ去られた者たちばかりで、魔力を注ぎ込む度に、宝石はどろりと色濃く淀んでいく。


(カルツィード家の領地から、消えていった人たち……)


 さらわれた、炎の魔術を持つ者達だ。その中で一人の美しい女が涙をこぼしていた。赤い毛を柔らかくウェーブさせた女も望まぬ形で家族から引き裂かれ、宝玉に命の欠片のような魔力を送り込み続けた。しかし、あるとき彼女の中から魔力が消え失せた。それは彼女自身ですらも知らぬことではあったが、腹の中に芽生えていた命が魔力のすべてを吸い取ったからだ。


 まさか自身が身重であるとも知らずに役立たずとなった女は、そのあまりの美しさに人さらいの褒美としてカルツィード男爵の元へと授けられた。


 ――ああ、エルナ。寒いねぇ。私もね、昔は炎の魔力を持っていたのよ。それがあったら、あなたを温めることができたのにねぇ……。


 記憶の中で今も柔らかな声がゆっくりと聞こえる。


(母さん)


 気づくと、エルナは二本の足で変わらずその場に立っていた。ひたひたと、体中から水が滴り落ちていくような息苦しさを感じたが、すべてはただの幻だ。宝玉を掲げたまま司祭は嬉しげに声を上げて笑い狂っている。


「ああ、すごい! すごいなあ! 魔力が膨れ上がっていく。これはもう、偽の鱗なんてものではない! この愚かな国に、滅びの鉄槌を下してやるわ!」

「……あなたの話はもういい。攫って、魔力を吸い取った人達は、どこに消えた」


 エルナの問いに、司祭は興が冷めたようにつまらなさそうにふん、と鼻で笑う。


「そんなもの知らぬわ。攫った者は私ではないのでな。……しかし、予想はできる。搾り滓など、残しておいたところでゴミにしかならん」


 吐き出す息は、声にすらもならなかった。

 ぶつりと、エルナの中で何かがねじきれる音がする。わなわなと指先を震わせ、息が喉すらも焼くように、とにかく熱くて仕方がない。

 視界がどんどんと滲んでいく。こらえきれない。人を傷つけたくはない。息は荒くなり、唸りながらも頬をひくつかせ、嗚咽をこらえる。


 流れくる記憶の声があった。


 ――エルナルフィア、お前の鱗は美しいなぁ。


 そう言って、老いた男は竜の鱗を撫でた。立派な青年だったはずだ。なのに、最後はただの骨となり、消えていった。


 ――エルナ、ごめんなさいねぇ。


 エルナは母を愛し、母もエルナを愛した。痩せこけた腕を掴むことは恐ろしく、一人、ひとりと消えていく度にエルナの胸には途方もない痛みを残し、抱きしめるはずの骨を探した。


 誰も消えるなと願ったことは、一つ限りも叶わない。人間は恐ろしい。あっけなく人は傷つき、そして死ぬ。竜であったとき、エルナは人をたらふく殺した。ヴァイドとともに空を蹂躙するように駆け巡り炎を吐き、勇者を背に乗せた多くの武勇はエルナルフィアの誇りでさえあった。


 けれども知ってしまったのだ。人の命は限りあるものなのだと。誰かは、誰かの家族であり、愛すべき人間であり、誰一人として欠けてはいけない。欠けてほしくもない。

 宝石泥棒を炎の魔術で消し炭にしてやろうとしたときのことを思い出した。勝手に炎が消えたときは困惑したが、それもエルナの意思だ。


(誰も、死んではいけない。絶対に、もう私は人を殺しはしない)


「――殺す」


 むき出しとなった歯茎から、地を這うような声が響く。ぎしり、ぎしりと空間が揺れた。

 青い瞳が、炎を燃やすように混じり合い赤黒く変化していく。びきびきと指先に力が弾けた。

 司祭は即座に宝玉を構え、呪文を唱える。その宝玉一つで王国を呑み込むほどの魔力を練り上げ、エルナ達を水の魔力で抑え込む、が。そのすべてを、エルナは即座に蒸発させた。波の中で崩れた残骸に足をかけつつも赤い髪をうねらせ、ふうと一つ、息を吐き出す。


 さて、殺そう。

 エルナは、何の抵抗もなくそう呟いた。それはとても簡単なことだ。いちいち優しくしようとするから手間取るだけで、殺すだけならば楽なものだ。壊れた宝玉に悲鳴を上げる司祭をあとはただ一瞥するだけ。ぱちり、と指を一つ鳴らせば、残るものは消し炭一つ。そのはずなのに。


「エルナ」


 強く、腕を掴まれた。


「お前は人だ。もう――竜じゃない」


 途端に、エルナは息の仕方を思い出した。

 まるで重たい水の中で喘ぎ、言葉すらも忘れてしまっていたかのようだ。次に瞬いたエルナの瞳はすっかり空の色に戻っている。

 けれども喉の奥からせり上がる重たい何かが苦しくて、うぐ、と口元を押さえた。何度嗚咽を繰り返しても出てくるものは涙ばかりで、ぼろり、ぼろりと情けなく頬をつたる。「まったく本当に、俺の嫁は泣き虫だ」 崩れ落ちそうなエルナの細い身体を、いつの間にかクロスに抱えられていた。心臓の温かさが伝わるほどに近く、にじむ涙が彼の服に染み込んでいく。


「ほ、宝玉が砕けようとも欠片一つでもあれば、貴様らなど――」

「しかし、嫁を守るのは俺の、夫の役目でもある」


 エルナを片手で抱き止めたまま、クロスは力強くキアローレを崩れ落ちつつある床に突き刺した。突如、円状に溢れ出る光が司祭を叩きつけた。苦悶の声を漏らしながらふらめく司祭をクロスは見下ろす。


「……やはり、魔の者か」


 どこからか吹き荒れる風は、彼自身が生み出したものなのだろう。


「キアローレは、もとはただの鉄剣だ。それがどうだ。強大な魔族を打倒した宝剣であったと、いつしか人々は噂するようになった。語り継ぐことは物語となり、力となる。嘘が真に、真が嘘に。長い年月の中で、ただの鉄剣は魔を打ち倒す宝剣となった」


 ――大樹の下で、木陰に隠れながらも静かにこの国を見守りながら。


 突き刺したキアローレをさらに片手で持ち上げ、ずしりと重たいはずの剣を羽のようにクロスは振るう。瞬間、触れてもいないはずが司祭が握りしめていた偽の竜の欠片が、ぱきりと音を立てて弾け飛び、残ったものは砂のように粉々となったものだけだ。


「あ、そ、そんな、まさか、くそっ、くそぉ……!」

「逃さん」


 すべてを投げ捨てた司祭は、肉体を捨て黒い塊となり空へと逃れようとした。その魂でさえもクロスは剣を投げ壁に縫い止め、月明かりの下、黒い魂は風にあおられ霧散する。割れたステンドグラスの隙間から落ちる月の光は、がらがらに崩れ落ちたその場をそっと青く静かに映していた。


 司祭であったはずのものや、エルナを襲った男たちはすでにただの塊となり果てている。


「土塊を操っていたのか。これは、消えた囚人ももとは人でなかった可能性も高いな」


 さっそく近づき冷静に検分しているクロスにはっとし、エルナも慌ててクロスのもとに走った。


「……さっきの、司祭様は魔族だって」

「帝国と手を結んだか、どうかな。この国ができたときから、いわくしかない相手だ」


 エルナが、まだエルナルフィアで、クロスがヴァイドであった時代のこと。この地に圧政をしいていた帝国の貴族を相手にヴァイドは反旗を翻し、今のウィズレイン王国の基礎を打ち立てた。しかし、打倒した貴族は、もとは温厚な人格者だとも言われていた。貴族が変わってしまった裏には魔族の関与も疑われてはいた。だからこそ、キアローレの物語も作られたのだが。


「そう……人では、なかったの……」


 まるで体中から力が抜けていくような気分だ。傷つけたくない、殺したくはないと思っていたはずが、ただの土塊を相手にしていたのだ。虚しいよりも自身の愚かさに笑ってしまいそうになる。

 ポケットの中からハムスターの精霊が気遣わしげに顔を出して、きょろきょろと周囲を見回した。エルナの手をつんっと鼻の先でつついたが、上手く身体も動かない。


「……私、馬鹿みたいだね」

「そんなことはない。エルナ、お前は自身が心に決めたことを貫き通そうとした。それだけだ。何も間違いはない」


 クロスはエルナを振り返りながらにっと笑う。金の髪が月明かりの中に照らされて、さながら王子様のようで笑ってしまった。「ふ、ふふ」と堪えきれない声に、「なぜ笑う」とクロスは憮然とした顔をしたが、次第に泣き笑いになるエルナを片眉をひそめつつ口を閉ざして見下ろした。


(なんで……こんな……)


 ただの言葉一つなのに、ぐっと胸を掴まれて苦しくなる。彼を相手にすると、いつもそうだと思うとわけもわからずまた視界がにじみそうになる。ごしごしと、強く瞳を拭った。そうして、呟く。「……もし、私が」かすれたような声だ。どうした、とクロスはエルナに問いかけた。


「うん。もし、私が、また間違ったら。さっきみたいに、止めて……ほしい」

「……人の選択に間違いなんてものはない。そして同時に俺に正解を決める権利なんてものはなくてだな」

「そういうのはいいから。お願いを、しているの!」

「お、おう」


 エルナのあまりの勢いに、おう、おう、とクロスは何度も頷いて思わず両手を上げて後ずさった。エルナは眉をつりあげ、真っ赤な鼻をすすった。それから、すぐにくしゃりと顔を崩した。気づいてしまったのだ。


「クロス」

「ん?」

「ヴァイドカルダドラガフェルクロスガルド……」

「唐突に本名を呼ぶのはやめてくれるか? というかよく覚えたな……」

「何か……悔しすぎて、覚えた……」


 もちろん彼の弟の名前もすぐに覚えたので、そのつながりで弟のこともすぐにわかったというのは余談ではあるが。


(エルナルフィアは一人取り残されるのではなくて、彼女が愛した人とともに死にたかった……)


 あまりにも長すぎる竜としての生が辛くて、苦しくて、たまらなくて。

 その気持ちはエルナとなった今も変わらない。けれども、本当は少し違う。(私は)胸の内から、こぼれる感情がある。それをとどめようとしても水が小さな器からあふれるようにどんどんと膨らむばかりで、どうしたらいいのかもわからない。


(私は、クロスと、一緒に生きたい)


 ただ、死にたいのではなく。

 生きて、生きて、そして――彼とともに死にたい。愛した人とともに、死にたい。


 はは、と力なく笑ってしまう。「欲ばかりが、溢れてくる……」 いつの間にか近づいていたクロスの服をちょいと掴むと、「なんだかよくわからんが」と前置きしつつも、「欲があるのはいいことだ。人とは、幸せを追い求めるようにできているものだ」と、エルナの背を屈みながら手を伸ばし、優しく叩いた。


「なんにせよ、もといた司祭の行方も捜す必要があるな。他に関与をしている可能性がある者を洗い出す必要もある。これから少し忙しくなるだろうなぁ……」


 エルナの肩口にがくりと額を載せつつ力を無くすクロスの背に、今度はエルナが恐るおそる手を伸ばした。本人が筋肉が付きづらいと漏らす程度には細いと思っていたが、実際に触ってみるとそんなことはなく、意識をしてしまうとあわわと頬が熱くなってくるような気がする。そんな自分に気づかれたいわけはないので、ひいひいとごまかすように息をすると、さらに怪しい。「……どうした?」と耳元で囁かれる声に対して、「ひぃい!」と妙な声を上げてしまう。


 逃げ出そうとするエルナを見て何かを察したのか、さらにクロスはエルナを捕まえ、「だはは」とどうにも楽しそうに笑った。「俺の嫁は、かわいいやつだな」と続く言葉に、「おもちゃじゃない!」と反論しつつも、少しだけ、考えることがある。


 それを、どうクロスに伝えればいいのか。

 割れたステンドグラスを通して見える、冴え冴えとくもり一つない星屑が落ちてきそうな空を背中にほんの少し息を吐き出すと、白い息は、ふわりと、どこかに消えていった。


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