第10話 覚えのない地図

 

 かりかり、かりかり、と聞こえる音はハムの本日のおやつである。

 精霊なのでご飯は不要なはずだが、それはそれ。小刻みにひげと一緒にほっぺたを震わせながらひまわりの種の皮の端っこを横に剥いで歯で開け、取り出した中身をするりとほっぺたの中にいそいそ詰める様は器用としか言いようがない。


「ああ、かわいい……ふくふくしてる……ふっくふく……」


 ノマはうっとりと両手を握りしめつつハムを見つめて、すぐに首を横に振った。はたきを取り出し中断していた作業に戻る。ノマの真面目さを、エルナはもうすっかり理解していた。

 あけっ放しにしていた窓からはふわふわと埃が飛んでいく。エルナは口布をずらし、けほんと一つ咳をした。

 窓の外を思わず見つめていると、しみじみとノマが呟いた。


「いい、天気よねぇ……」

「うん……」


 窓の外では、雲ひとつない青空が広がり、白い王宮の壁をさんさんと太陽が照らしていた。


 ――エルナがメイドとして王宮で働くようになり、いつの間にやら、早一週間。


 まずは仕事に慣れるため、と最初は色々な仕事や場所を点々とすることになった。誰が、どこで何をしていて、どこに何があるのかと、まずは場所の把握に務めようとして、最終的に行き着いたのが各部屋の掃除だ。エルナへの説明がてらに城の中に数あるほどの部屋を一部屋一部屋確認していき、文字通りあまり日の目を見ることがない部屋の窓をあけ、風通しをよくする。ついでとばかりに積もった埃のお掃除だ。


 庭がすぐそばにあった回廊とは違って部屋の中まで精霊がやってくることも少ないため、エルナは想像よりもずっと平和に日々を過ごしていた。


「うん。換気はもうそろそろいいかな」


 ノマが満足げに頷いている。二人の頑張りにより、部屋の中はぴかぴかになっていた。

 エルナは口布をずらし、片手を窓枠にかけた。そうしたときに窓の外を見下ろしてみると下では小さな人が行き交っていて、城の中は随分たくさんの人たちが過ごしていることがわかる。「おお……」「おっわーーーー!!? エルナ、あなた何してるのよー!」 半身を乗り出すようにして外を見ていた小柄な身体をノマは悲鳴を上げながら部屋の中に引っ張り込んだ。


「ここ、何階だと思ってるの? 落ちたらどうなるのかわかってるの!?」

「え?」

「え? じゃないわよ、落ちたらぺしゃんこよぉ、鮮血のウィズレイン城の出来上がりだわぁ! 勘弁してよねぇ!」

「ああ」


 ごめんごめん、とどうしても軽い様子で謝ってしまうエルナをノマは胡乱な目つきで睨んでいる。エルナは苦笑しつつ、部屋の中を見回した。シックな色合いの調度品は、まるで時間を忘れていたかのようにじっと静かに佇んでいたのだが、明るい光の中で息を吹き返したかのようだ。


「……この部屋、他のところとはちょっと様子が違うね。全体的に落ち着いているというか、立派なのに、あまり人が入っていないというか」

「元はお勉強部屋らしいわよ。殿下が大きくなられてからは使われていないんじゃない?」

「……殿下?」

「陛下の弟君様の方の話ね。あとは王女様もいらっしゃるけど、側仕えならまだしも私達がお会いする機会なんてそうそうないものね。ええっと、お名前は……ジャンヴァイドフェリオラ……ええっと」


 おそらくまだその後にも続く名前があるらしい。ノマは眉間の間に深いシワを刻んで、人差し指でこめかみをぐりぐりしている。そのままピタリと止まってしまった。


「……相変わらず王族の人達は名前が長いんだね」

「ごめんなさい、城のメイドとして勉強不足よね。コモンワルド様に後で確認しておく」

「私が聞いておく。途中まででも間違いないんだよね。ジャンヴァイドフェリ……ああ、違う、待って、覚える」


 ぶつぶつと口の中で呟きつつも、「絶対に、覚えてやる……」と聞きようによってはなぜか恨みがましくも見えるエルナの口調にノマは首をかしげていたが、実はクロスの名前がめちゃくちゃ長かった事件は今でもエルナの記憶に色濃く残っているのだ。


 それにしても、王女とは。

 つまり、クロスには殿下と呼ばれる弟と妹、もしくは姉がいるということだろう。

 まるで寝耳に水のような気分だった。ヴァイドには兄弟はいなかった。けれど、クロスとヴァイドは同じ記憶を持っていたとしても別の人間なのだから当たり前だ。


 部屋の壁には、大きな地図がはられていた。

 勉強部屋だということは、これもきっと教材の一つなのだろう。茶色く黄ばみができた布の端側は少し剥がれてしまって、セレストリア大陸、と文字が書かれた下には猫が大きく伸びをしたような大陸の形があり、さらにその中に詳細な国の形と名が描き込まれている。

 ふと、エルナは眉をひそめた。


「随分、小さいな……」

「小さいって、何が?」

「え、いや。その。この地図、間違ってない? ほらここ。マールズ地域。ここってウィズレイン王国の所有でしょ」


 エルナが指をさした先には、別の国名が記載されている。


「別に間違ってないわよ。マールズ地域がこの国の所有だったなんて、ずっとずっと昔のことじゃない? ウィズレイン王国はもとは帝国から独立してできた国だから、東にはアルバルル帝国、西には聖王国と強国の間に挟まれているでしょ。この国を守護してくださっていたエルナルフィア様がお亡くなりになってからもう随分な年月が経ってしまっているもの。毎年、国土は少しずつ削られているわ」


 この地図も古いから、実際はもう少し小さくなっているかもね、と付け足された言葉を聞いて、エルナはただただ瞳を丸めて、何も言えなくなってしまった。


「……エルナ。ねえエルナ?」

「な、なあに」


 びっくりしすぎて、ただただ壁に貼られた地図を見上げていた。呼びかけられて、はねるように振り向くと、ノマは小首を傾げている。多分、もう何度か呼ばれていたのだろう。まったくもって耳に入ってこなかった。ごくん、と唾を呑み込み、パチパチと瞬きしながら見つめ合う。奇妙な空気が流れていた。


 ノマからすれば当たり前のことに、ただただ話を聞いて仰天しているエルナは、そりゃあ不思議に違いない。「……なんというか、こんなことを言うのはあれだけど」 ふと、ノマが言いづらそうに、そして意外そうにぽつりと。


「エルナって、案外知らないことが多かったりするのね」

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