冬の深夜散歩

杉野みくや

冬の深夜散歩

 俺は深夜の散歩が好きだ。中でも冬の散歩は特に好きだ。この季節にしかない、冷たくて澄んだ空気を独り占めしているような感覚が心地良い。仕事で嫌なことがあったり、生きていくうえで悩みが生じたりしても、透き通った空気が全て浄化してくれる。そして、明かりの少ない深夜の暗闇は少しの間だけ、現実から目を覆い隠してくれる。


 俺を素の自分にさせてくれる、数少ない時間なのだ。


 今日も仕事でストレスになることがあった俺は、ベージュのコートを纏って深夜の住宅街を気ままに歩いていた。小さく細長い川と立ち並ぶ家々との間に舗装された道路を歩くの定番の散歩コースだ。満月が照らす中、俺は何も考えずに歩き慣れた道を進んでいった。


 数分ほど歩くと、見慣れた小ぶりな橋が見えてきた。ここがいつもの折り返し地点。気分によってはこの橋で足を止め、ちょろちょろと弱々しく流れる川の音に耳を澄ませることもある。今日はあいにくそうした気分ではなかったので、橋まで行ったらさっさと帰路に着こうと考えていた。


 しかし、今日は普段と少し光景が異なっていた。橋の入り口辺りから人影が近づいてきていたのだ。暗くてあまり見えなかったが、どこかで見かけたことのあるような雰囲気の人だった。せっかくの澄んだ空気を独り占めできないことに軽い不快感を覚えながらも俺は橋へと足を進めた。


 やがて街灯の下で俺は奥から歩いてくる人影と鉢合わせた。普通なら、何も気にせずにすれ違って終わりだ。しかし、今日は少し様子が違った。ショートカットの黒髪に縁の太いメガネ、そして黒のコートをまとってカツ、カツ、と歩いてくるその人に俺は見覚えがあった。相手も自分に気づいたのか、歩みをピタッと止めると即座に口を開いた。


「あれ、もしかして田村か?」


 話しかけてきたなんと職場の上司だった。何でも完璧にこなしながらチームを引っ張っていく活発な人だが、正直いって苦手な部類の人だった。だが、声をかけられた以上無視するわけにはいかず、


「あ、はいそうです」


と言葉を返した。


「こんな時間に何してるの?」

「散歩です。上条さんこそ、こんな時間に何をしているのですか?」


 聞かれたからには自分も聞き返した方が無難だと判断した。本当は一刻も早くこの場を切り抜けたかったが、ここは我慢だ。


「私も散歩だよ。ストレスがたまるようなことがあったりしたときは、よくこの時間に歩いて気晴らしをするんだ。深夜の空気に触れると、不思議と心が洗われる感じがしてね。そうすることで、明日またがんばろうって思えるんだ」


 意外だった。万能でなにひとつ悩みのなさそうな上司もストレスを抱えていて、気晴らしに深夜の住宅街を散歩しているということが、意外だった。先ほどまで抱いていた不快感はシンパシーから来る不思議な感情によって上書きされ、妙に気持ちが良かった。


 その後、軽い挨拶で会話を締め、俺と上司は別れた。橋へと近づいていく中で、俺は先ほどの上司の言葉を反芻していた。できる人でも、自分と同じようにストレスや悩みを抱え、同じように解決している。そう思うと随分と気が楽になるような感じがした。

 橋に着いた俺は鼻から大きく息を吸った。今日の空気はいつにも増して冷たく、そしてとても清々しいものだった。

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冬の深夜散歩 杉野みくや @yakumi_maru

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