遭逢

混沌加速装置

遭逢

 家族が寝静まった夜更け過ぎ、外着に着替えてそっと家を抜け出した。部屋着を誰かに見られるのが心配なのではない。静謐さをたたえた、深夜という特別な世界への礼儀のようなものだ。


 真夜中に女子高生が独りで出歩く、などと言うと、倫理観の塊のような言葉が飛んできそうではあるけれど、それはきっと、都会やそこそこ人口の多い街でのことだ。県外へ出ないと高校にも通えない、限りなく村に近い体裁のこの町では、危険な存在を探すほうが難しい。


 遠くにポツンと灯る、街燈の光を見つめる。今日はどこまで歩こうか。迷うほどの選択肢はないのだけれど。川べりの土手か、十波となみ海岸の砂浜か。望美山のぞみやまの麓をぐるりと一回りするのもいい。


 緑の息吹を感じに、少し足を延ばしてみよう。


 花冷えの澄んだ空気が肌に刺さる。あえて厚着はしてこなかった。み入る寒さが心地いい。梅の香りがふわりと鼻先をかすめる。遅咲きの八重やえ揚羽あげはだろうか。


 私が毎晩こんなことができるのは、学校へ行っていないからだ。十七歳の女の子にだって、事情は色々とある。不良、というわけではない。と自分では思う。でも、人として欠陥があるという意味では、やはり不良なのかもしれない。


 子供の頃から、感情の無い子だとよく言われていた。心が無い、とも。喜怒哀楽の表現が下手なだけで、無いのとは違う。どちらかと言えば控えめな性格でもあるから、そういった誤解を招くのも仕方がない。わかってはいても、簡単に直せるものでもないし、直す気もないのだから始末が悪い。


 自分のことは自分さえわかっていればいい。無理してわかってもらう必要なんてない。だから、他人からの評価に対し、否定も肯定もしてこなかった。そんな頑なな態度を貫いてきたせいか、それとも他人から思慮のない言葉を浴びせられ続けた影響か、いつからか私の心の中には、虚無のような空間ができあがっていた。


 どんな辛いことや悲しいことも、その空間に放り込んでしまえばいい。数も大きさも関係ない。いくら放り込んでも溢れ返ってくることがないから。でもそれは、いつしか私の制御を振り切って、嬉しいことや楽しいことまで飲み込んでしまうようになった。そう、まるで強大な重力を持つブラックホールのように。


 そして私は、本当に感情も心も無い人間になった。




 望美山の近くまで来ると、緑の香りが強くなったように感じた。道沿いにはまばらに家が建っているが、どこも明かりが消えて深閑と静まり返っており、そのたたずまいは海に沈んだ古代文明を連想させた。


 麓の道に入る手前、小さな稲荷神社の鳥居のそばに、街燈の光に照らされる人影があった。こんな時間にこんな場所で一体何をしているのか、と思いはしたけれど、相手だって私に対して同じ感想を抱いているに違いない。事件など起きたことのない町だとわかっているからか、不思議と怖い感じはしない。


 引き返そうか。でもそうすると、相手に警戒しているように思われ、不快感を与えて怒らせてしまうかもしれない。逆上させて追いかけられても困る。気づかないふりで黙って通り過ぎようか。それとも、こちらから挨拶ぐらいはするべきか。


 決心がつかぬまま歩みを進めるうちに、相手の容姿が確認できるところまで来てしまった。キャラメルカラーのダッフルコートをまとい、その肩口には茶色がかったストレートの髪が触れている。コートの裾からは黒だか紺だかのスカートがわずかに覗いており、そこからすらりとした細い脚が伸びている。幽霊ではなさそうだ。


 どうするか迷っていたところ、相手と目が合ってしまい、「こんばんは」と声をかけられた。性格の良さが滲む、朗らかで落ち着いた声だ。


 軽く会釈をしつつ「こんばんは……」と返す。他人と言葉を交わすのが久しぶりなせいで、思った以上に陰鬱な声が出てしまった。


「夜風が気持ちいいね」


 小春日和のような柔らかな笑みを浮かべて彼女が言った。同い年くらいだろうか。大人びた顔をしているが、十代に特有の幼さも窺える。


「え……うん……」


「この町のこと、どう思う?」


 挨拶を返したらそのまま立ち去るつもりだったのに、彼女が訊ねてくるせいで足を止めてしまった。あまり町から出たことがないから比較のしようがない。


「えっと……」


「私は好き。自然が多くて、住んでる人も優しいから」


 前半は私も同感だ。自然はいい。一部だけを見て自分勝手な思い込みを押し付けてきたり、どんな生き方をしても人格を否定してきたりはしないから。後半はどうだろう。そう信じたいと思う一方で、素直に賛同できない私がいる。


「私はそうは思わない、って顔してる」


 彼女の微笑みに、少し寂しそうな、憐れむようなかげりが差す。


「そりゃあね、優しい人は皆いい人、とは思わないよ? 好きな人たちが、酷いことや悪いことをするのを見て、悲しい気持ちになるときもある。裏切られたーってなって、落ち込むことだってあるし」


 なんだか、私が失ってしまった、心の大事な部分を代弁してくれているよう。そんなことまで顔に出てしまっているのだろうか。


「でもね、それが人なの。そういうの、ぜーんぶ含めて」達観した台詞とは裏腹に、彼女は子供がするように両腕を大きく開いた。「それで気づいたんだ。思い込みや決め付けをしていたのは、私のほうだったんだって」


「え?」


「だからね、いいんだよ。そんなふうに苦しまなくても。あなたは何も失ってなんかいないんだから。もう許してあげなよ」


 左の頬を、温かいものが伝い落ちる感覚があった。


「うん、よかった。伝えることができて。じゃあね」


 そう言って満足そうな笑みを浮かべた彼女は、鳥居を潜って小走りに奥の暗がりへと消えていった。私は放心したように、しばらく神社のほうを眺めていた。ふと夜空を仰ぐと、名も知らぬ春の星座が音も無くまたたいていた。




                               了

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