事件と忠告

 サロンを出ると雨はすっかり上がっていた。

 薄ぼんやりとした煤煙の向こう側に陽の光がのぞいている。

 街中ではさっそく清掃の人が屋上から吊るされたゴンドラに乗って建物の掃除に取りかかっていた。

 腕に巻いた時計を一瞥してから、ひとまず私は顕学院へと向かうことにした。午後に講義が一つ入っているのだ。

 もちろん、キャロがいなくなった今、顕学院のことも家のことも放り出して捜しにまわりたい気持ちもあったが、もしキャロがそんな私の行動を知ったら雷を落とすだろう。「自分なんかのために、なんでそんなことを」、と。

 もちろん私だってそれに、「だったらいなくならないでよ!」と声を大にして言い返すけれど……まぁ、それはキャロが見つかった時のためにとっておくことにした。

 それに、言いたいことならまだ他にもある。

 一ヶ月以上前から誕生日の予定を空けておくようにと言っていたキャロからはまだ「おめでとう」の一言ももらっていない。

 約束を破るというのは人が最も簡単にすることが出来る罪の一つだ。

 それが現実的な被害を出したかどうかはまた別の話だけれど、少なくとも約束によって結ばれた絆は切れてしまう。

 そんなことをつらつらと考えながらサロンのある中央区から顕学院のある西地区へと向かう。

 普段はあまり行かない所にあるせいでとっさに最寄りの乗り合い馬車の駅の場所がわからなかった。仕方なく、大通りに出ることを目標にして小道へと入る。

 このままなら講義の時間には悠々と間に合うだろう。

 そう思った、直後だった。


「――え?」


 今いる路地よりさらに細くなっている路地が伸びている場所で、いきなり手が伸びてきた。

 大きな手のひらに、ごつく太い指。

 それが、がしりと私の手首を掴む。

 まるで万力で捕らえられたかのような感触。

 手首が縛りつけられる。

 突然のことに私の背筋には冷たい電気のようなものが走った。

 しかし、私の口が何かの言葉を発するより早くその手はその隆々とした手に相応しい力で私を路地へと引きずりこんだ。

 肺が収縮し、ひゅっと空気が細く吸い込まれる。

 手首を掴んでいた手が外れるが、一瞬もしない内に今度は羽交い絞めにされた。

 持っていた傘が手からこぼれ、カランカランと音を立てる。

 その時になってようやく我に返った身体が全身の細胞をフル稼働させてその手から逃れようとするけれど、私より一回りも二回りも大きな体躯はとてもではないが振りほどけられるものではない。がっしりと、まるで壁か何かに縫いとめられたような錯覚に頭が混乱する。


『誰かっ!』


 そう声を出そうとしたが、もう一方の手が私の口をふさぎ声は声にならなかった。

 ドクンドクンと胸の中で暴れる心臓に、口が空気を求めるように喘ぐ。


「大人しくしやがれ! 余計なことをしなきゃ、痛い目は見ずに済むぞ!」


 太い声が私を脅す。

 それだけで私は一瞬でも血の流れを止められたかのような錯覚を受けた。

 単純に頭を殴られるよりも言葉には目に見えない恐怖がある。

 眼前にぽっかりとした大穴が開いたように私はすっかり縮こまってしまった。

 何とか抵抗しなければならない。

 そう思うのに身体がいうことを聞いてくれない。まるで、氷漬けにされたかのような感覚が全身を襲う。

 もう、ダメかもしれない。

 何に対してなのかわからないけれど、そんな漠然とした思いを抱きかけた私を引き戻したのは空気を裂くような声だった。


「フシャーッ!」


 はっとして見やった私の前で一匹の真白なネコが絹を裂くような声を発していた。

 全身の毛を逆立て、普段は愛らしい顔が鋭い気配を放つ。ぐわりと開けられた口からは、小さいながらも見事な牙がむかれていた。

 そして、再度大きな声で威嚇をしたかと思うと、彼――ワトソンはネコ特有のバネを存分に活かして大きく跳んだ。


「ぐっ!?」


 振り抜かれた前足が私の口をふさいでいた手を引っ掻いた。

 男の何十分の一のサイズでもその爪の鋭さは折り紙つきだ。深々と刺さっただろう一撃に、私の力ではどうしようもなかった手が僅かに緩んだ。

 その隙に私はありたっけの力を振り絞ると、身体をひねるようになんとか拘束から逃れる。


「このっ――!」


 しかし、男は再び私の肩に手をかけて捕らえようとする。次こそ大通りにまで届くような叫び声を上げようとした矢先――


「何をやってるのっ!?」


 声が一閃に飛んできた。

 男が舌打ちをして私の肩から手を離す。

 そのまま反転して逃げ出した男に、駆けつけてくれた主が「待ちなさいっ!」と声を飛ばすが、男はあっという間に路地の奥へと逃げ込んでしまった。

 今、一人にはして欲しくない。

 そのまま男を追いかけてしまうかと思ったが、私のそんな気持ちを読んでくれたのか、その人は私の傍を離れようとはしなかった。


「大丈夫?」

「は、はい。ありがとう、ございます……」


 荒れた呼吸のままお礼を言おうとその人に顔を向けると、それは私の見知った人だった。


「み、ミス・レディーコート……?」


 灰色のトレンチコートと、シルバーグレーの髪。

 どうして、ミス・レディーコートがここに? そう疑問に思ったのが顔に出たのか、彼女は視線を向けて言った。


「街を巡回してたら呼ばれたのよ、そこの騎士さんに」


 その視線の先にいるのはワトソンだ。


「ネコにも、ただならぬ気配ってのはあるのね。とにかく、ただ事じゃないっていう感じで鳴くもんだから、走ってついてきたらあなたの姿が見えてね。何にせよお手柄よ、ワトソン」


 そんな賛辞に彼は、当然だ、といった顔で「なぁお」と一鳴きすると、しっぽをピンと立てて街路の塀へと飛び乗った。そのままネコらしい軽やかさで住宅街の奥へと消えていく。


「それにしても、今の男は誰なの? 知り合い……っていう雰囲気じゃなさそうね」

「は、はい……顔をはっきりと見たわけじゃないですけれど、少なくとも私の知っている人じゃなかったと思います」

「単なる物取り……っていう雰囲気でもなかったな。別に取りやすそうな物を持ってるわけじゃないし、そもそも何かを奪うって言うよりかはアリスちゃん自体に焦点を当てていたっていう感じがしたし。このまま、それじゃあ気をつけて帰ってね、って別れるには少し危ないか……。悪いけれど、本部まで来てもらえる? この後に用事は?」

「学院で講義があるくらいですけれど……」

「申し訳ないけれどそれはお休みね。万一のことがあってからじゃどうしようもない。それに、忠告の件もあるし」

「忠告?」

「ええ。スコットランド・ヤードの本部、歩いてでもすぐそこだから、詳しいことはそこで説明するわ」


 先に歩き始めたミス・レディーコートに付いていく。

 突然のことに縮こまっていた神経が落ち着き始めて、私は先ほどあったことに対して再び恐怖を覚えた。

 本当にギリギリのタイミングでワトソンとミス・レディーコートが来てくれたから良いものの、もし助けがなかったら今の私がどうなっていたかわからない。それこそ命だってなくなっていても不思議じゃなかっただろう。


「申し訳ないわね」


 ミス・レディーコートの言葉にはっとする。

 彼女は私を横目で見やり、何を思ったのか私の左手を優しく握ってくれた。先ほどの男とは全く違う温かい感覚が手から伝わってくる。

 再度覚えかけていた恐怖が溶けるように消えていったのがわかった。

 この年になって誰かに手を引かれているというのは少し恥ずかしいことだったけれど、それよりも安心感の方が何倍も勝っていた。


「ご友人のこと。キャロル・ルイスちゃん」


 私の恐怖がすっかりなくなった頃を見計らったようにミス・レディーコートが言葉を続けた。


「一応スコットランド・ヤードだけじゃなくて、倫敦市警察にも、割ける要員は割いてもらって捜しているんだけど……まだ、手がかりらしい手がかりもなくて」

「いえ、そんな……」


 スコットランド・ヤードの刑事さんというだけで彼女の正式な階級はわからないけれど、どうやら彼女はスコットランド・ヤードとは管轄が違う市警察にもそれなりに顔が利くようだった。ミスタ・ホームズとも知り合いということを考えると、かなりのエリートなのかもしれない。

 ホワイトホールにあるグレート・スコットランド広場に面した本部に着くと、ミス・レディーコートは近くにいた巡査さんと何か二言三言会話を交わした。


「顕学院にも一応連絡を入れておきましょうか? サボっても大丈夫な授業だったら良いんだけど、そういうのをすると教授に目をつけられるとかだったら困るでしょう? ここなら電話もあるし、事情も伝えやすいけど」

「それじゃあお願い出来ますか?」

「オッケー、了解」


 そのことも巡査さんに伝えてくれる。

 私が通されたのはそう大きな部屋ではなかったが、殺風景な部屋でもなかった。

 たぶん取り調べ室とかそういう場所じゃなく、何かちょっとした会議をするような部屋なのだろう。しっかりとしたソファに、窓も大きく取られている。

 ややあって、先ほどの巡査さんがホットの珈琲を二杯持って来てくれた。顕学院に連絡を入れてくれたことと、応対してくれた相手の事務員さんの名前も私に告げてくれる。


「さ、どーぞ。ホームズの所みたいに上等なもんじゃないけどその辺は勘弁してね。まぁ、飲めないほどひどい代物でもないからさ」


 手の仕草で巡査さんを下げて、ミス・レディーコートがマグカップを傾ける。

 私のはいわゆる普通の、何の変哲もない無地のマグカップだったけれど、彼女のは可愛らしいウサギのイラストがついたものだった。もしかしたら彼女専用のものなのかもしれない。

 五分ほど二人してゆっくりと珈琲を飲んでから、「さて」と改めてミス・レディーコートが言葉を始めた。


「早速で悪いんだけれど、襲われるような心当たりは?」

「……ありません」


 ここに来る前に何度も考えたことだったけれど思い当たることは何もなかった。

 人の恨みというのは買おうと思って買うものじゃないし、無意識の内に恨まれている可能性だって無きにしも非ずだけど、やっぱり心当たりなんてなかった。恨みを買うようなことをやった記憶もない。


「そりゃそうよね。アリスちゃん、どっからどう見ても優等生なお嬢ちゃんだもの。まぁ、仮に心当たりがあるって言われても、子羊が「狼を襲って食べました」って言うくらいに信じられないけれど」

「それより、ミス・レディーコートがさっき言っていた忠告ってなんなんですか?」

「あぁ、気になってる? 忠告って言うより予言って言った方が正しいんだけど……」


 カリカリと後頭部をかく。


「この前、ホームズに会った時に言われたのよ。近々アリスちゃんの近くで何かあるかもしれないから注意してろ、って」

「え?」

「またなんか変なこと言うなと思ったんだけど、今日みたいなことがあると一概に変な、とは言えないでしょう? それに、何もホームズがこういうこと言うのは初めてじゃなかったしさ。ホント、推理だか推測だか知らないけれど、化け物染みた未来予知ね……っと、そう言えば私も一本電話しなきゃいけないんだった。悪いけど、少し待っていてくれる?」


 誰に電話をかけるのだろうか? と思ったが、ミス・レディーコートは眉を少しだけハの字にしてその答えを言ってくれた。


「ホームズに、アリスちゃんに何かあったらすぐに知らせろって言われてんの。すっかり忘れてた」


 とは言っても、ベイカー通り221Bのあの部屋に、電話機はなかったように思うのだけれど……。それに、仮にあったとしてもそもそも電気通信網があそこまで来ているのかが怪しい。

 ……まぁ、ミスタ・ホームズに関わることを常識で考える方が間違っているのだろう。


「ホームズ、随分あなたのことを気にかけてるみたいだけど、そっちの方も心当たりある?」

「っ」


 ドキリと心臓が跳ねた。

 ミス・レディーコートの柔らかくも鋭い視線が真っ直ぐに私を射抜いて、私の頭の中から『永遠の少女』とかそういう単語を取り出してしまいそうに思えた。

 一度表に出してしまった動揺を再びしまってもどうしようもないとわかりつつ、私は視線を横に泳がせてしまう。

 そんな私に彼女はクスリと小さく笑った。


「まぁ、そっちは事件とは何の関係もなさそうだから置いとくとしましょう。とりあえず電話をしてきちゃうわ。それから、本格的に調書の作成ね。アリスちゃんも家に連絡するなら今の内にやっちゃった方が良いかも。費用はこっちで持つから、その辺は心配いらないわよ」


 その言葉に甘えて、ちょっとしたトラブルに巻き込まれてスコットランド・ヤードにいること、刑事さんのおかげでことなきを得たこと。少し帰宅が遅くなることを電報で父に送らせてもらった。

 それから、ミス・レディーコートともう一人巡査さんを交えて調書の作成に取り掛かる。

 とは言っても、私もはっきりと犯人の顔を見たわけではないし、わかるのは相手が男だったということぐらい。身長がそれなりに高く、体つきががっしりしていること。それから、初老とまではいかないがそう若い年でもなかったということくらい。

 だが、わかるのはそのくらいのもの。それだけで絞り込めるほど倫敦の人口は少ないわけがない。

 情報はあまりにも些細で断片的。

 やっぱりそれだけじゃ調書の作成ははかどるわけもなく、遅々として進まなかった。

 そして一時間ほどが経った時。突然部屋の扉が開いたかと思うと、


「――なっ」


 いきなり一人の男が放り込まれてきて、私はとっさにソファから立ち上がって後ずさった。

 後ろ手に手を縛られているせいか、バランスを取れず部屋の中に倒れこんでくる。

その顔は実にひどいものだった。

 年は四十過ぎほどに見えるが、顔にはいくつも殴られた痕があって、鼻からはまだ乾き切っていない血が垂れていた。

 体躯はかなり大きい。筋骨がたくましく、がっちりとしているけれど、着ているものは――あちこちに出来たばかりに見える破れがあることをのぞいても――みすぼらしいと言えた。

 その格好を見るに東地区の工場か港で働いている労働者のように思える。

 そして、かつかつと靴音を立ててその男を放り込んだと思しき……ミスタ・ホームズが入って来た。

 それを見てミス・レディーコートが大きくため息を吐き出す。

 小さく舌を打ってそれまで書いていた調書をぐしゃぐしゃに丸めたかと思うと、部屋の隅にあったゴミ箱めがけて放り投げた。カコンと縁に当たって、紙くずが転々と床を転がる。

 たぶん一番戸惑ったのはまだ年若い巡査さんだろう。私だって驚くには驚いたが、ミスタ・ホームズのことを知っていると知っていないとでは雲泥の差だ。彼からしてみれば、突如としてスコットランド・ヤードの本部にならず者が二人も入って来たようなものだ。実際、今だっていきなりのことに顔をあたふたとさせ、一体何が起こったのかと視線を彷徨わせている。

 そんな巡査さんにミス・レディーコートは真っ直ぐに扉を指し示した。

 それを見て彼は動揺した様子でもう一度部屋にいる人物全員に視線を振ってから、再度ミス・レディーコートに顔を向けた。そんな彼に、その判断が神に導かれた当然のものであることを認めるかの如くミス・レディーコートは鷹揚にうなずいた。

 早足で巡査さんが部屋から退出し、バタンと扉が閉まる。

 そのまま、しんと静まり返った沈黙が部屋を満たす前に彼女は口を開いた。


「相変わらず人の努力を無駄にするのが好きなようね」


 トレンチコートの内ポケットから紙巻き煙草を取り出して彼女は口にくわえた。火をつけ、たっぷりと吸い込んでから拗ねた顔を作って煙を吐き出す。


「人聞きが悪いことを言うな。犯人を捕まえて来たんだ。感謝こそされても、悪く言われる覚えはないぞ」

「ま、そりゃそうだけどさ」

「いつまで転がってるつもりだ? さっさと立て」


 ミスタ・ホームズが男を足先で小突くと、男が「ぐぅ」と呻いた。身体にもいくらか傷を負っているようで、男は芋虫のように身をよじってうずくまった。

 まさかとは思うけれど……これは、ミスタ・ホームズがやったのだろうか?

 彼の運動能力の高さはベッティ・ハイドリッヒの時にわかってはいたが、こんな屈強そうな男を相手にミスタ・ホームズは傷一つ負った気配はない。


「ちょっと。一応ここ、警察なんだけど? あんまり傷害事件起こさないでちょうだい。目の前で犯罪が起こったら対処しなきゃいけないんだから」

「正当防衛だ。こいつはナイフを所持していた」

「ナイフ一本で相手をボコボコにして良いなんて法律、この国にはないわよ」


 灰皿に紙巻き煙草を押しつけたミス・レディーコートの言葉を無視してミスタ・ホームズは未だうずくまったままの男に寄ると、胸倉を掴んで強引に上半身を引き起こした。


「お前には選択肢がある。ここで今以上に傷を増やすか、知っていることを全て吐くかの二択だ。歯はまだ残ってるな? なくなったら、今後物を食べるのに苦労するとは思わないか?」


 二択とは言ったものの、ミスタ・ホームズの発言はそれを許しているようには思えなかった。それを知ってか、男は少しの間沈黙を保ったが、やがてポツリと言葉を発した。


「頼まれたんだよ……拉致ってこいって」

「どんなヤツにだ?」

「く、詳しくは、知らねえ」


 その答えに、ミスタ・ホームズが胸倉を掴んでいた一方の手を離すと、男のみぞおちめがけて拳を突き出した。「がぁっ!」と男が声とは思えない音を発し、私は思わず目をそむけてしまう。


「もう一度聞いてやる。どんなヤツに頼まれた?」

「し、知らねえんだ! 本当だ! 外套で顔を隠していやがった!」

「男か? 女か?」

「そ、それもわからねぇ! 優男に思えたが、聞きようによっては女にも思えた。ただ、気前が良くて、前金で三ギニーぽんとくれたし、連れて来たら加えて十ギニーくれるっていう話だったんだよ」


 怯えたように男が言うが、それでもミスタ・ホームズは手を離さなかった。

 眼光は鋭く、正面から睨まれたら刃物の切っ先を喉元に突きつけられたような恐怖があるだろう。


「こ、これ以上は何も知らねえ! 俺はただ金目的でやっただけなんだ!」

「で、こいつで何人目だ?」

「初めてだよ! 初めてだ! 他には何もやっちゃいねぇ! 本当だ、信じてくれ!」


 その必死な語調に嘘はないように見えた。ミスタ・ホームズも同じに感じたようで、彼は小さく息を吐き出すと、手を離して男の体を解放した。


「処分は任せるぞ、レディーコート」

「散々痛めつけておいてそれはないでしょう? 逮捕も裁判も何もかもすっ飛ばして、私刑執行しちゃってるじゃない」


 面倒くさそうにミス・レディーコートが部屋の外に声をかける。

 先ほどの巡査さんと、もう一人別の巡査さんが入って来て男を立ち上がらせた。ミス・レディーコートは指示を出すと、最後に「傷の手当だけはしといて。一応、まだ聞いときたいこともあるから」と言って巡査さんたちを見送った。


「それから、リトルバード」


 巡査たちが出て行ってこれで一段落かと思ったが、ミスタ・ホームズは今度は私に顔を向けた。


「これに懲りたらこそこそ嗅ぎまわるのはやめておくことだ。今回はたまたま未遂に終わったが、次もそうなるなんて保証はどこにもない。もしお前に万が一のことがあったら女王陛下がさぞかし哀しむことになる」

「……確かに陛下は大変慈悲深いお心をお持ちかもしれないですけれど、たかが一般庶民が一人いなくなったって知る由もないんじゃないんですか?」

「本当にたかが一般庶民なら、な」


 ミスタ・ホームズの表情は変わらずさっぱり読めたものじゃない。

 何を思っているのか、何を考えているのか……いや、そもそも彼の心の内を読もうとするのが間違っているのだろう。


「女王陛下うんぬんは知らないけれど、ホームズの言ってることは一理あるわよ。何の目的かは知らないけれど、誰かがチンピラを使ってアリスちゃんを誘拐しようとした。それは紛れもない事実なんだから」

「でも……どうして私なんかを」


 ふむ、と手を口元に持っていってミス・レディーコートが考える仕草を見せる。

 私だって、自分自身のことを善行を積み重ねてきた聖人などというつもりはなかったけれど、それでも並の悪人よりははるかに善良である自信はあった。少なくとも、悪徳に知恵を働かせてきたことはないし、これと言って罪を犯した記憶もない。


「他にも行方不明の人がいたら連続の誘拐事件とも考えられるけど、そういった事件は今のところないのよね。失踪という意味ではキャロルちゃんだけど、彼女の場合とは少し事情が違いすぎるから、共通で何か犯人がいるとは思いづらい……」


 ミスタ・ホームズはポケットから紙巻き煙草の箱とマッチを取り出すと、一本を口にくわえた。

 マッチで火をつけようとしたが、湿気ているのかなかなか火がつかない。結局、四度やっても火がつかなかったところで彼は舌打ちと共にそのマッチをゴミ箱に向かって放り投げ、新しいマッチで火をつけた。

 鋭い目を一層絞ってじっと部屋の一点を見つめているけれど、その場所を見ているという風じゃない。

 息を吸って、白い煙を吐き出す。

 まるで宙にある何らかの答えを見透かそうとしているかのようだった。


「アリスちゃん」


 いつの間にかミス・レディーコートも新しい紙巻き煙草を口にくわえてふかしている。


「今日アリスちゃんは、キャロルちゃんを捜していたのよね?」

「ええ、そうです……」

「ということは、黒幕はキャロルちゃんを捜されると困る人物……それも、たぶんアリスちゃんのことをある程度知っている人なんじゃないかしら?」

「どうしてそう思うんですか?」

「単に捜させないだけならその場で脅すなり、手紙でも送りつければ良いだけの話だもの。だけど、たぶんアリスちゃんはその類のものを受けてもキャロルちゃんを捜すことは断念しないでしょう?」


 そう問われて頭の中でそんな「もし」を考えたけれど……ああ、間違いなくそんなことではキャロを探すのを止めたりはしなかっただろう。むしろ、キャロが危ない状況にあると考えて今以上に一生懸命になったに違いない。


「そう、ですね。止めることはないと思います」

「アリスちゃんのそういう性格を知っている。だから、拉致しようとした。物理的に捜させないようにするために」

「でも、それじゃあなんで殺そうとしなかったんでしょうか? 殺してしまった方がより確実ですし、そっちの方が簡単だと思いますけど……」

「自分のことなのに随分物騒なこと言うのね……」


 半分呆れたようにミス・レディーコートは言った。指に紙巻き煙草を挟んで頭をかく。


「そうね……そこまでの度胸がなかった、とも考えられるけれど、大騒ぎになるのを避けたかったんじゃないかしら? いくら人員を割いているとは言っても、ほとんど家出少女の捜索だもの。当てられる人数は限られる。だけど、もしそこに殺しが絡んだら話は別だわ。スコットランド・ヤードも倫敦市警察も今とは比較にならないくらいの人を捜査に回すにことになるわ。そうなると、犯人はその先に何か別の目的があると考えるのが妥当ね」


 ミス・レディーコートはそう独りごちて大きく紙巻き煙草を吸った。

 降ってきた沈黙にちりちりと煙草の葉が燃える音が聞こえてきそうに思う。

 ミスタ・ホームズはどう思っているのだろうか?

 そう思って彼の方に目をやるが、それと同時に彼はくわえていた紙巻き煙草を床に吐き出して靴裏でもみ消した。それにミス・レディーコートが盛大に顔をしかめる。


「灰皿使いなさいよ、あるんだから。スコットランド・ヤードが大火の再現なんて勘弁よ」

「ナンセンスだな」

「何が? 灰皿使うのが?」

「今回の黒幕とやらの真意を探るのが、だ」


 そのまま扉を開けてミスタ・ホームズは出ていこうとする。

 しかし、扉をくぐる直前で足を止めると、振り返って私を見やった。


「もう一度言っておくぞ、リトルバード。これ以上こそこそと嗅ぎまわるのはやめておけ。次も都合良く助けが来るなんて保証はないんだからな」


 忠告。

 警告と言っても良いかもしれない。それに、私は何も言葉を返さなかった。



 それからほどなくして、私は巡査さんに付き添われて家へと帰った。

 父からも何か叱責を受けるかと思っていたけれど、「友人が心配なのはわかるが、それ以前にもしものことがあったら大変だろう? あまり無茶をするもんじゃない」と軽くたしなめられただけだった。

 自室に戻って、ふぅ、と小さく息を一つ吐き出す。

 私は机から倫敦の地図を取り出すと、今日行った場所にバツ印をつけた。地図の上には、もう結構な数のバツ印が書かれている。


「………………」


 少し考えてから、男に襲われた所にはマル印を描いた。

 倫敦はそれなりの広さがあるけれど、これだけの数の場所を調べてもキャロについて何の情報も得られていない。

 この倫敦の中央部分についてはプロ中のプロと言って良いだろうスコットランド・ヤードが。スコット・ランドヤードの管轄外では倫敦市警察も動いてくれていることがわかったが、ミス・レディーコートの雰囲気からしたらその両者も手がかりらしい手がかりを見つけていないのだろう。


「後は……」


 所々に印がつけられた地図の中でも空白地帯になっている場所がある。

 東とテムズ川の東南に広がるスラム地区。

 もしかしたらスコットランド・ヤードも市警察もここは手つかずにしているかもしれない。

 何かと難しい場所で私は行ったことすらないが、少なくとも不用心に捜し回って良い場所でないことくらいはわかっている。

 ましてや、今日のようなことがあったのだから軽い気持ちで踏み入れたら冗談ではなく命だって取られるかもしれない。


「待っててね、キャロ。すぐに見つけてあげるから」


 けれど、だからと言ってここで投げだせるかと問われたら、はっきりと首を横に振る自信が私にはあった。

 幸いにも明日は祝日。一日のほとんどを使えるだろう。

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