告白

 乱れてもいない前髪をなんとなくいじってから、小さく呼吸を整える。

 よし、と心の中で呟いて、茶色の扉をノック。はい、という返事はすぐに聞こえてきた。


「あの、アリスだけど……」

『開いてるわ。どうぞ、入って』


 キャロはベッドに入ったまま本を開いていた。

 部屋着にカーディんガンを羽織っている。それだけを見たらいかにも病人といった感じだけれど、キャロ自身の顔つきはしっかりとしているように見えた。


「えっと……ごきげんよう、キャロ。具合はどうかしら?」

「心配かけてごめんね。もうすっかり好くなったわ。今日も学院に行こうと思えば行けたのだけれど、読み始めた本が面白くて、ついついサボっちゃったのよ」


 言って、持っていた本をかかげて見せる。


「それより、来てくれたということは、手紙は受け取ってもらえたっていうことよね?」

「ええ。午前中にミス・ブロンテから」

「こんな形で呼び出しちゃってわざわざごめんなさい」

「ううん、なんてことないわ」

「良かった。それから、昨日は本当に悪いことをしてしまったわね。せっかくお見舞いに来てくれたのに、無下に追い返しちゃって。なんて言うんだろう……なんだか、人に会えるような気分じゃなくて……」

「気にしてない。誰だってそういう時もあるもの、わかるわ」


 来客用の椅子に座ろうとしたところで、キャロがベッドの端を叩いた。

 言われるまま、ふんわりと柔らかいスプリングの効いたベッドに腰をかける。


「悪いのだけれど、もう少しだけ待っていてくれる? キリの良いところまで読んでしまいたいの。あとちょっとだから」

「焦らなくて大丈夫よ。今日は別に何の予定も入っていないから」


 言い終わると、薄いベールをかけるように沈黙が降りてくるのがわかった。

 さらり、さらりと、時折キャロがめくる紙の音だけが部屋にあって、私とキャロは二人だけの国に閉じ込められたようだ。

 この時間は、きっと何よりも尊いものなのだろう。

 ふいにそんなことを思った。

 今まで当たり前にあると思っていたこの時間だけれど、あと五年もしたらこういう時間はもてなくなるに違いない。

 私もキャロも学院を卒業していて、どういった形であれ別々の道を歩き始めることになる。

 会えなくなるなんてことはないかもしれないが、のんびりとした時間を過ごすには大人という存在は忙しすぎるに違いない。むしろそれが大人になるということなのかもしれない。

 そんな当たり前のことに私は今の今まで気付いていなかった。

 ……あぁ、私はそういう意味でまだまだ子供だったのだ。

 そう思うのと、背中に重みを感じたのはほとんど同じだった。

 なんだろうと半分振り返るように後ろを見ると、キャロが私に身体を預けていた。


「キャロ……?」


 後ろから私の腰に手が回される。

 背中に感じる温かさに、トクトクと心臓が僅かに早くなるのを感じた。


「どうしたの?」


 そう問いかけると、腰に回された手がぎゅっと強くなった。

 部屋の温度が幾らか上がったような錯覚に、私は心を落ち着けるよう呼吸をした。

 お腹の……ちょうどおへその奥の辺りが、きゅうきゅうと音を上げずに鳴く。

 回された手にゆっくりと自らの手を重ねると、頭では処理しきれない感情がちりちりと胸の奥で燃えあがってくる。

 私とキャロが過ごしてきた年月は、体の隅々まで沁み込んで、もう私の体の一部になっていた。

 一緒にいて楽しいとか心地良いとか……そういうものじゃない。

 煤煙の薄い夜空にはきまって星々が瞬くような……ある意味、一緒にいて当たり前のような関係。

 性格も、趣味趣向も決して似通っているというわけではない。

 けれど、いつの頃からか彼女は私の一番の理解者で……私も、彼女にとってそうでありと思うようになっていた。

 友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である。

 そんな古代希臘(ギリシア)の哲学者の言葉をキャロが教えてくれたのは二年前だった。

 その時の私たちは――言葉こそ交わさなかったけれど、まさにその言葉の通りだと思えていたように思う。

 ……それじゃあ、今の私たちはそうだと言えるのだろうか?

 よぎってしまった疑問。

 それを私は心の中でかぶりを振って追い出した。

 こんなことを考えてしまったという時点で、きっとどこかが歪になってしまっているのだろう。

 矢印は向き合っているはずなのに、いつの間にか少しだけ角度が違ってきてしまっている。

 それは、一見すればピッタリとハマるジグソーパズルのピース同士なのに、僅かに形が違って収まらない感覚に似ていたかもしれない。

 今ここにいる私は限りなくキャロのことを想っているはずなのに、その想いは真っ直ぐに彼女へとは届いていない。

 こうして私に触れてくれているのに、キャロは私に何もしゃべってはくれないし、私だって彼女が一体何を思っているのかわからない。

 些細なことと言えばそうなのかもしれない。

 だけど、それでも私はそんな僅かなズレにある種の悲しさを覚えてしまっている。そして、そのズレをどうすれば……どんな言葉をかければ埋めることが出来るのか見当すらついていない。

 こんなにも近くにいるのに、どこか遠い。

 まるでガラスを挟んで手を合わせているような感覚がもどかしかった。


「……ごめんね、アリス」


 気がつけば、キャロはそんな言葉を口からもらしていた。

 何に対しての謝罪なのか?

 どんな許しを求めての言葉なのか?

 それは私にはわからなかった。


「大好きよ、アリス。本当にありがとう」


 ……そして、その翌日。

 キャロル・ルイスは、この倫敦から忽然と姿を消してしまった。

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