手紙

 翌日、私の足はひどく重たかった。

 予鈴がなるほんの五分ほど前に最初の講義が行われる教室へと入る。

 学友と二言三言言葉を交わし、顔は平静に少しばかりの笑顔を保っていはいたけれど、心の中は昨日よりも何倍も陰鬱な気分を引きずっていた。

 講義が始まっても、頭の中は二本の紐をちぐはぐに結び固めたかのように、ごちゃごちゃにこんがらがったまま。

 キャロのこと。

 そして、ミスタ・ホームズから聞いたこと。

 ミスタ・ホームズの話など、彼が暇つぶしに私をからかっただけだと片付けてしまえば良い。

 頭の片隅でそう理性が言うが、頭のまた別の部分は、あの突拍子もない話を疑いようのない事実だと感じてしまっている。

 彼は『少女』のことの随分と気楽な存在のように言っていたが、これだけ気分を曇らせている自分が果たしてそれに相応しいのか、どこか嘲りたくもあった。

 今日は一日、こんな気分を引きずるだろう。

 そう考え、ただ機械的に板書をノートに書き写していた私の心ががらりと変わったのは、二時間目の講義が終わった中休みの時だった。


「ミス・リトルバード。良かった、行き違いにならなくて」


 次の教室へと向かおうとした私に早足でミス・ブロンテがかけ寄ってきた。


「ごきげんよう、ミス・ブロンテ。どうかしましたか、随分と急いでいる様子ですが」

「ええ。今朝方、ミス・ルイスから手紙を預かったのです。ミス・リトルバードに渡して欲しいと」

「手紙、ですか?」


 ミス・ブロンテが綺麗な封筒を差し出してくる。表には『親愛なるアリスへ』と整った筆記体が書かれていた。受け取ると、心臓がとっとと僅かに早鐘を打つのがわかった。


「それでキャロ……いえ、ミス・ルイスは?」

「念のためもう一日休むとおっしゃっていましたわ。ただ、身体の具合は随分好くなったようです。たぶん、疲れが出ただけだろうと」

「そうですか……わざわざありがとうございました」


 手紙を仕舞い、ミス・ブロンテと別れる。

 少し悩んだが、私は教室へと向けていた足を反転させ図書館へと向かうことにした。

 講義をサボるなんてもちろん褒められたことじゃないが、それでも今の状態でまともに講義を受けられるとも思えなかった。

 キャロからの手紙に一体何が書かれているのか?

 気になって講義に身が入るとはとても思えない。けど、教室の中でこそこそと隠れて読むのはあまりにも落ち着かない。

 なら、最初から講義に出ず、人気のない図書室の片隅で読むというのはひどく合理的な選択のように私には思えた。

 学院の敷地内に建てられた図書館は学生寮より幾分外見が絢爛に作られている。

 尖塔に、明かりを取るための丸いスタンドグラスは数世紀前のゴシック調で、パッと見た感じでは大きな教会のようにも見える。

 蔵書数がどの程度なのかはわからないけれど、少なくとも私は何か調べ物をする時にこの図書館で事足りなかったことはほとんどなかった。

 はやる気持ちを抑えながら中に入り、私は迷うことなく階段を上っていった。

 キャロほどではないけれど、私もこの図書館を使うことがある。

 調べ物を含めたレポートを書くのなら自習室を使うが、あそこには常にそれなりの数の学院生がいる。流石に大声でおしゃべりをするような人はいないけれど、それでも静かに一人で読書をしたい時などは私は決まって三階奥の読書スペースを使っていた。

 人気のない読書スペースの中でも角の奥まった場所に荷物を置いて手紙を取り出す。

 ああ、こんなに緊張をするのはいつ以来だろう?

 彼女と知り合ってまだ間もない頃は手紙のやりとりが主で、私はいつもそわそわしながら彼女からの返事を待っていたものだ。

 変な表現だけれど、今の私はそんなむずがゆい、懐かしい緊張感に包まれていた。

 鞄から持ち運び用のペーパーナイフを取り出して封筒を開封すると、中には便箋が丁寧に折られて収められていた。

 心臓が落ち着かぬまま開き、素早くその文章に目を通す。

 そして、最後まで読んでからもう一度。

 今度はゆっくりと、文字の一つひとつに優しく触れていくようにしながら言葉をなぞる。

 そんなに長い文章ではなかったけれど、読み終わってから私は長く息を吐き出した。

 昨日お見舞いに来てくれたことのお礼と、追い返してしまったことへの謝罪。それから、クレームブリュレの感想なんかも書いてあったけれど、私にとってはそんなことはもうどうでもよくなっていた。


『今日の放課後、もし時間の都合がつけば部屋に来てくれると嬉しいです』


 最後に書かれたその一文だけで、あれだけ陰鬱に思っていた気分はさっぱりとどこかへ抜けていってしまっていた。

 なんとも現金なものだと自分でも思う。

 けれど、昨日はあのような態度を取っても、今日にはわざわざこんな手紙まで書いて私のことを呼んでくれたのだと思うと、なんとも表現のしがたい……あえて言うなら、陶酔にも似た気持ちが起こってきた。

 別にわざわざ手紙なんて書く必要はなかっただろう。

 ミス・ブロンテの話からすると明日には普通に学院へと来るように思えたし、その時何事もなかったかのように私に挨拶をすれば昨日の出来事なんて些細なものになったに違いない。私とキャロの付き合いはあのくらいのことでこじれてしまうほど浅いものじゃない。

 だけど、そんな中でわざわざ今日という日に私に会いたいと言ってくれた。

 そのことが私の中ではかけがえのない喜びであって、彼女にとって私が『特別』な人の一人なのだと感じさせてくれる。

 彼女が私を必要としてくれている。

 そう思えるのだ。

 もう一度だけ文面に目を通して手紙を封筒に仕舞う。

 まだ時間は正午にもなっていない。これほど放課後が待ち遠しく思えたのは、一体いつ以来だろう?

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