猟犬 シャーロック・ホームズ
丈が長い黒のコートに黒のケープを合わせたインパネスコート。
黒のスーツ。
黒のシューズ。
黒のシャツに、その胸元には鈍色に光るネクタイがフォア・イン・ハンドで乱雑に結ばれていた。
帽子の類はかぶっておらず、ショートの黒髪は無造作に跳ねて、鋭い真黒な眼光と相まって、まるで狼のような印象を抱かせる。
身長はかなり高い。年齢も、老年なんてとんでもない。二十代後半か三十代前半で……間違っても三十五にはなっていないだろう。
コートを着ていてもがっしりとした体格であるのは一目瞭然で、猛々しさを感じさせる。
ああ、もしこの世界に真っ黒な毛色の狼がいたらこんな感じに違いない。
呆気に取られた私の脳の部分とは別の場所がそんなことをぼんやりと考えた。
「やっほー、ホームズ。邪魔してるわよ」
やっぱりこの方がミスタ・ホームズなんだ。
この……闇のような、とても荒々しく、紳士な服装を着崩した、全てを引き裂いてしまいそうな牙を持っているように思えるこの方が……。
その事実に少しだけ頭がくらくらとする。
「邪魔をしているだけじゃないだろう。俺には勝手に珈琲まで飲んでるように見えるんだが?」
「なによ、いつものことじゃない。ケチケチしない」
張りがありながらもどこか渋い声でため息交じりに言った言葉に、ミス・レディーコートがそんなことを言う。
変な話だが、目の前にいるミスタ・ホームズを前に軽く口を開ける彼女が凄い人に思えた。私なんて、気を抜いたら生まれたての小鹿のように足が震えてしまうのではないかと……つまり、彼を前に半分怯えているのに。
「それで、この嬢ちゃんは? お前の連れか?」
刺すような眼光がこちらを向いて、私はビクリっと身体を震わせた。
先ほどシュミレーションしたやり取りなんて知らない。地平線の彼方へ吹っ飛んでしまった。
なんとか言葉を発しようと口を開いたが、酸素不足の魚のように口がパクパクとするだけで、喉から言葉が出てこない。まるで気道が貼りついてしまったかのようだ。
「ううん、私の関係者じゃないわよ。 けど、ここに来れた、っていうことは貴方の関係者なんじゃないの? 幻影都市の住人にしては随分と可愛らしいけど、どういった関係があるのか興味深いわ」
そんなミス・レディーコートに彼は面倒くさそうに舌打ちをすると、机に積んでいた紙の一束を取って彼女に差し出した。
「お前がここに来ていた案件はこれだろう? 読めば大体のことはわかるはずだ」
「あら、やっかいものはさっさと去れ、っていうことかしら?」
「その嬢ちゃんがどんな理由でここに来たのかは知らないが、何もかも根掘り葉掘り聞いておこうというお前の根性には少し問題がある。捉えどころのない性格と相まって最悪の部類だな」
彼の視線を受けてもミス・レディーコートはひょうひょうとした表情を崩さず、「ひどい言われようね」と紙の束を受け取った。
「それじゃあ、アリスちゃん。何か困ったことがあったら、こんな愛想のかけらもない探偵じゃなくてスコットランド・ヤードを頼って頂戴な」
そんな!
お願いだから一人にしないで!
そんな思考に、「え、あ……」と情けない声が出てきた。
今彼女に去られたら、私は彼と二人きりになってしまう。一体どんなことをしゃべれば良いのか、それなりに回転が良いと世間から判断されたはずの頭は何の役にも立っていない。
「またどこかで珈琲でもご一緒しましょ。じゃね」
しかし、そんな私の願いは彼女に届くことなく、彼女は綺麗な笑みを浮かべたまま、ミスタ・ホームズから渡された紙の束を持ち直すと、扉を開いてかつかつと音を立てて階段の下へと降りて行ってしまった。
沈黙が部屋を一気に覆い尽した。
そして、さて、と言った様子で再び彼の視線がこちらを向く。
それだけで気圧されそうになるが、私は両の足に力を入れて踏ん張った。
しっかり……しっかりしなさいアリス・リトルバード!
この程度で怖気づいてどうするのっ!?
「それで、どういった用件でここに? 言っておくが、ここはあまり一般的と言えるような場所じゃないぞ」
「え、あっと、それは……」
意気込みとは反対に私の口からは実にか細い声が出てきたが、それでもまだ声が出てきたことを考えれば先ほどよりはるかな進歩だろう。
幾らか冷静になった頭を今度こそ回す。
目の前の彼に、中途半端な回答は許されそうに思えなかった。
ワトソンを追いかけてきたらたどり着いた。
それが間違いない事実なのだが、この場でそれはあまりにも弱弱しい理由に思えて心細い。
何か、何か、会話の糸口になりそうなもの――
――あった!
「あ、あの! 先日、これを拾ったもので……」
咄嗟に差し出したのはこの前拾った紙だった。
彼はそれを興味深そうに――手も大きい。私より二回り近く大きいんじゃないんだろうか?――受け取ると、ふむ、と小さく息を吐いた。
「これを持ってきたということは、助手志望か?」
「いえ、そういうわけでもないんですけど……ただ、落ちてきたのを拾っただけで……その、どこかに掲示されたのが落ちてしまったものとばかり……」
どうにか言葉を繋げようとするが、なかなか言葉が出てこない。結局、私の口から音は途切れてしまって、居心地の悪い沈黙が降りてくる。
そんな中、彼が不意に言った。
「ところで、ドクター・ドイルは健在か?」
「え?」
「アーサー・コナン・ドイルのことだ。ドクターとは腐った縁があるんだ。一人の子を育てていると風の噂に聞いてはいたが、まさかこういった形で会うことになるとは思わなかった」
「い、いえ、そうではなくて……」
私はここに来てからまともに口を開いていない。もちろん、父のことなんて一言も。
どこかで会ったことがあるだろうか? と一瞬考えたが、思い当たるところはこれっぽっちもなかった。それに、もし彼がシャーロック・ホームズなどと名乗っていなかったとしても、こんな人物と出会っていればそれこそ頭の中に残っているはずだ。
じゃあ……どうして、彼は私と父を結びつけることが出来たのだろうか?
「どうして私が父の……アーサー・コナン・ドイルの子だとわかったんですか?」
「そんなおかしな顔をするほどじゃない。簡単な観察と推測だ」
最初にこの部屋に入ってきた時も思ったことだったが、かなり上背がある。
私の背があまり大きくないということもあるけれど、さらに頭一つ分は背が高い。
と……彼は私のひどく傍まで寄ってきたかと思うと、
「ひゃっ!?」
突として私の髪を一束掬い上げ、すん、と小さく鼻を鳴らした。
「な、何をなさるんですかっ!」
飛ぶように後ろに跳ねる。
バクバクと心臓が打って、頬が火に当てられたように熱くなるが、そんな私を余所に彼は何事もなかったかのように、「やはりそうか」と呟いた。
「ここに戻って来た時から珈琲の匂いに混じって微かだが独特のアルコールにも似た匂いがしていた。しかし、お前もレディーコートもそれに類するようなものを摂取、もしくはこの部屋に持ち込んだような形跡はない。加えて、お前の手は綺麗すぎる。貴族の連中ならその綺麗さもあったかもしれいが、それなら爪が切り過ぎと言えるほどに整えられている。それじゃあ、そんな手とアルコールに似た匂い、その二つを結びつけるのは何か?」
よどみなく発せられる言葉に私は思わず喉をごくりと鳴らした。
「それは医者という職業だ」
そう言ったミスタ・ホームズの目は確信に似たものを宿していた。
「本人が医者。もしくは、その補助をする人間と考えるのが妥当だろう。アルコールのような匂いは揮発性の消毒液の匂いだ」
射貫かれた視線に「でも……」と私の何かが反発した。
そして、あろうことかとんでもない言葉が口から発せられる。
「でも、お医者さまということならこの倫敦にもたくさんいらっしゃいます。その中でどうしてドクター・ドイルが結びつくのでしょう?」
私の反発に彼はすっと目を細めた。
その眼光に胸の奥がドクドクと心臓が脈打っている。
今までに覚えたことのない気持ちがそこにはあった。
それは初めて内緒で悪戯をする幼子のようなものに似ていたかもしれない。
「なるほど」
私の『悪戯』にミスタ・ホームズが「ほぅ」とでも言いたげに私を見やって小さく微笑んだ。
「確かに、ただの医者ならごまんといるだろうな。疑問に思うのは確かだろう」
「………………」
「だが、もしこれがただの医者なら、そのアルコールのような匂いは、はっきりとウィスキーのような匂いをさせていただろう。水彩絵具の匂いと言ってもいい。それは、消毒に使われるものが一般的には石炭酸であるからだ。しかし、お前の身体からする匂いはそれとは僅かに違っていた。この倫敦で、一般的なものに流されず、常に己の実験と研究によって技術を進化させていくのはドクター・ドイルくらいなもんだ。この消毒液もその一つなんだろう」
その推察に私は驚きを通り越して感服した。
彼の言った通りである。
消毒に使うのに一般的なのは石炭酸であるが、父はその毒性を懸念して、数年前から独自に開発した消毒液を使っていた。
ここまで完璧に言い当てられては舌を巻く他にない。
シャーロック・ホームズという名前が伊達でないことを目の前で証明された気分である。
それにしても……
「……そんなに、臭いますか?」
あの独特の薬品くさい臭いが自分からしているのかと、つい自分の手首辺りをすんすんと嗅いでしまう。
けれど、そんな私をミスタ・ホームズは小さく鼻で笑った。
「言っただろ、微かだと。余程鼻の利く人間でもない限り気付くもんじゃないさ」
部屋にあった椅子におもむろに腰掛け、テーブルに置いていた新聞を乱雑に掴んだ。ばさりと広げながら言葉を続ける。
「俺は特別鼻が利く。あんたが気にする必要はないだろうよ。それより座ったらどうだ? 立ったままでも良いが、珈琲くらいはゆっくりと飲んだら良い。美味いモノをそう急いて飲むこともない」
その言葉に、再び……とは言っても、最初の時とは比べ物にならないくらい僅かなものだったが、呆気に取られた。
見た目こそ荒々しく、まるで野獣を思わせるが、もしかしたら性格はそこまで粗暴ではない……のかもしれない。見た目で相手を判断してはいけないとはよく言うし、私自身なるべくそうしないように生きてきたつもりなのだけれど……もしかしたら彼にもその言葉が適用されるのだろうか?
失礼します、と一応断ってから近くにあった小さなソファに座ると、両手でマグカップを持って珈琲を一口飲み込んだ。こういう時のホットドリンクというのはなんとも優秀なもので、私の波立っていた心を落ち着けるのに一役かってくれた。
すると、今度はなんとも現金なもので、私の中にミスタ・ホームズに対する興味がぷくりと水の中から浮き上がってくる空気のように生まれてきた。
それは最初こそその外見に完全な混乱状態に陥ってしまったけれど、考えてみれば彼はこの寵愛都市倫敦で名探偵の名を欲しいままにしているシャーロック・ホームズなのだ。いきなり私に襲いかかってきたりするはずはない。
「………………」
珈琲を飲む動作のついでに、ちらりとミスタ・ホームズを見やる。彼はとてもつまらなそうに……けれど真剣に新聞の文字に目をやっているように見えた。
不思議なことに、その辺りから私はこの空間にいることにそれほどの緊張を必要としなくなっていった。もしかしたら、慣れてきたのかもしれない。
場違いな気分というのがあるのと同じに、私はその空間に自分の存在が認められる場合があると思っている。パズルのピースのように、かちりとそこにはまると驚くほど納得してしまうのだ。
そして――何とも奇妙なことなのだけれど、私にとってここはその空間の一種らしい。
マグカップの珈琲を飲みながら失礼にならない程度に部屋を見回す。
お世辞にも整理整頓が出来ているとは言えない部屋。
よく見れば壁には銃で撃ったらしい跡まであったし、机には一通の手紙が、あろうことかナイフで留められていた。そんな雰囲気を好ましいなどとは一度もないのに、それでもなぜか落ち着くのだ。
『お前はここにいても構わない』
まるで全知の神からそう言われているような感覚でさえあったかもしれない。
「あの、一つ聞いて良いでしょうか?」
すると、私は無意識に彼に一つの問いかけをしていた。
「なんだ?」
「父とはどういうご関係なんですか?」
「ドクター・ドイルとか?」
新聞から目を離して私の方を見やる。
目つきが悪いだけで、私を睨んでいるわけじゃない。
「本当にただの腐れ縁だ。ある意味、お前に似たようなものかもしれないな。まぁ、ドクターは俺の世話をしたとは思っていないし、俺もドクターの世話になったとも思っていない。互いの意志は不干渉であったが、存在としては干渉していた。それをドクターがどう思っているか……生憎だが俺にはわからない」
妙ちくりんな言い方はそう簡単に理解出来そうになかった。
不干渉であり、存在は干渉している。
ひどく哲学的なものだと思う。
一言で説明出来ないような複雑なものがあるのか、それとも答えをはぐらかしているだけか。はたまた、文学に疎い私では理解する頭を持っていないのか? キャロなら少しはわかるのかもしれない。
「お前は……そう言えば、まだ名前すら聞いていなかったな。レディーコートはお前のことをアリスと呼んでいたが」
言われて私も、あっ、と気がついた。部屋にお邪魔させてもらうどころか、珈琲までいただいているのに自ら名乗ってすらいなかった。
「す、すいません、申し遅れました。私はアリスと申します。アリス・リトルバード」
「何の捻りもないが、悪評が立つような名前でもない。ドクターらしいな。それでお前は、もう俺の名前は知ってるんだろう?」
「はい。シャーロック・ホームズ、ですよね、ミスタ・ホームズ」
「名乗る必要がある時はジョン・スミスと名乗ることが多い。そちらの方がなにかとやりやすいからな」
なるほど、確かにそうかもしれない。
初対面でシャーロック・ホームズなんて名乗ってしまったら相手がどういった方向にせよ警戒してしまうだろう。特に何かの事件の犯人だったりしたら余計に気を遣ってボロを出さないようにするはずだ。もっとも、それでも謎を解き明かしてしまうのがミスタ・ホームズなのだろうけれど。
「ドクターとの付き合いは長いのか? ドクターが子を育てていると聞いたのは七年ほど前だったが」
「えっと……」
実のところ、私はそこまで直接的な記憶を持っているわけじゃない。
父の言う所によると、私は何か心的ショックのせいで昔の記憶が曖昧で、父に拾われる以前のことはさっぱり覚えていなかったし、父の元にお世話になりだしてから二、三年の記憶もそこまではっきりしているというわけではなかった。
「十年ほど前だと思います。私が公立学校の初等科に入学するくらいの時だったと思いますので」
「なるほど、そうなると納得がいく」
「納得、ですか?」
「こちらのことだ。気にするな」
言って彼は再度新聞に目を移す。
一体何について納得がいったのだろう?
珈琲を口に含んで考えてみるけれど、私にはさっぱりだった。もしかしたら、父と何か関係があるのかもしれない。
まぁ、私が理解出来たところでどうなるわけでもない。
ちびりと珈琲を飲みながら、片肘をついて新聞を読むミスタ・ホームズを見る。鋭い眼光は相変わらず睨みつけているようで、口元はぎゅっと一文字に閉じられていた。まるで多くの文字が羅列した新聞の中からたった一つのキーワードを探しているかのような表情は名探偵と言うよりも獲物を探す狼に思えた。
でも……、と一つだけ疑問が浮かぶ。
シャーロック・ホームズの名前がこの寵愛都市でその名をはせるようになってから少なくとも三十年が経つ。
私立探偵を始めたのはもちろんそれ以前なのだから、もしかしたらシャーロック・ホームズがこの倫敦に現れたのは四十年近く前のことかもしれない。
しかし、目の前の彼は五十、六十もの年をくっているわけがない。若く見積もればまだ二十代半ばのようにすら思える。
八年前に父との面識があることを考えるとそこまで若いわけではないだろうが、少なくとも三十年前は彼はまだ幼児と言って良い年だったに違いない。もちろん、そんな年で名探偵なんて出来るわけがない。
こうなると、顕学院で聞いた一つの仮説が頭に浮かぶ。
『シャーロック・ホームズとは組織を表す言葉で、単独の人間を指したものではない』
という仮説。
組織とまではいかなくても、シャーロック・ホームズがある種の称号であり、誰かから誰かに受け継いでいかれるものなら納得がいく。
何代目かはわからないけれど、目の前の彼は何代目かのシャーロック・ホームズなのだ。
ただ、そこまで聞くのは少し立ち入り過ぎるというものだろう。
それに、もしそれが事実だとしても彼は言葉をはぐらかすに違いない。そんな重要事項、そう簡単に部外者に話すわけがない。
マグカップの珈琲を飲み終えて、私はふぅ、と一つ息を吐いた。
「あの、珈琲ごちそうさまでした。これで失礼させていただきます」
再びミスタ・ホームズがちらりとこちらを見る。
そして、すぐに新聞に目を戻したかと思うと、
「一つ聞くが、あんたは自分が本当は何者なのか知りたくはないか?」
彼はまるで今日の天気の移ろいを聞くかのような淡々とした様子でそう言った。
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