下壇の三賢女

吾妻栄子

下壇の三賢女

「お雛様だあ」

 ガラスケースに入った二段の雛人形を目にした、まだ起き抜けでピンクのパジャマを着たままの三歳の少女は黒目勝ちの大きな瞳を輝かせた。

「この二段目の三人官女には名前があるの?」

 上段の女雛に勝るとも劣らぬ下壇の三人の女人形には漢字で名前を記された立札が横に配されていた。

 赤いエプロンを着けたまだそこまでの年配でもないのに白い物の目立つ頭の母親は荒れた手で娘の真っ直ぐで艶のある黒髪の頭を撫でる。

「この三人官女は真ん中の筆を持っているのが小野小町おののこまち、紅梅の枝を持っているのが紫式部むらさきしきぶ、白い梅の枝を持っているのが清少納言せいしょうなごんなの。三人ともとっても凄い女の人なんだから」

「そうなんだ」 

百恵ももえちゃんが綺麗で、賢くて、優しい女の人になりますようにってパパと一緒に選んで買ったんだよ」

 隣に並ぶ幼い娘と生き写しの大きな瞳をどこか虚ろにした母親は語る。


*****  

「我らより官女たちの話ばかりだな」

「この三人あってこそ私も中宮になれたというものですから」

 上段の主君たちが苦笑しつつものんびりと語り合う一方で、下壇の三人の女人形は母娘が朝食を取るダイニングをガラスの壁越しに見守る。 

「あの母君ははぎみをご覧なさいな、すっかりやつれて」

 中央の小町は墨を含まぬ筆を手にしたまま苦い物を含んだ声で続けた。

「元は綺麗な人だったのに」

「あの姫君ひめぎみが生まれた頃には両親共に仲睦まじく一緒に店に来て私たちを選んでくれたのに」

 紅梅を手にした紫式部は幼い少女の笑顔を眺めながら哀しく呟く。

「あんな可愛らしい姫君を置いて父君は今朝もどこにいらっしゃるのか」

「昔から子供を産ませたらよそに目が向いて知らん振りなんて殿方の多いこと」

 白梅を携えた清少納言は乾いた声で笑った。

「子供ほど罪なく可愛らしいものなんてないのに」


*****

「平安三賢女か」

 黒髪をきっちりお下げに結って水色のランドセルを背負った少女は大きな瞳でガラスケースの中の人形を見詰める。

「清少納言と紫式部って仲悪かったし、小野小町って落ちぶれて死んだ人なんでしょ」

「まあ、これはお祝いのお人形だから」

 こちらも栗色にカラーリングした髪をアップにして紺色のスーツを纏った母親は苦笑いして滑らかな透明のネイルを施した白い手でランドセルの背を押す。

「今日は塾が終わる頃迎えに行くからお夕飯は好きなもの食べましょう」

「塾の近くに新しいレストラン出来たから行ってみたいな」


*****

ちんがいつのみかどかは話にも出ぬな」

「それは私も同じですわ、陛下」

 上段のどこか寂しげなやり取りをよそに下壇の中央に座す小町は挑むように語った。

「私が老いて醜くなって落ちぶれたなんて袖にした男たちが触れ回ったこと」

「私も似たような噂を立てられた」

 清少納言はカラカラと笑う。

「女は美しくて才気溢れるより一という字も知らない振りをした方が可愛げがあって幸せになれるんですよ」

 紫式部はやり切れない声で語った。

「本当にそんなこと思ってるの?」

 白梅を手にした官女は紅梅を抱く朋輩に問い質す。

 中央の筆頭女官は澄んだ声で左右を制した。

「まあ、とにかくあの母君が姫君のために生気を取り戻して良かったとしましょう」


*****

「もうこんなのやめてよ」

 長い黒髪をハーフアップを結ったセーラー服の少女は虚ろな黒い瞳をガラスケースの雛人形に注ぐ。

「私、結婚したいとか全然思ってないから」

「これはあなたが健やかに育つために買ったから飾ってるの」

 海老茶にカラーリングして縮らせた髪にグレーのスーツを着た母親は自分の背を追い越した娘の後ろ姿にやり切れない眼差しを向けている。

「大事に保管して毎年飾っているから、ちゃんと第一志望の学校にも合格できたでしょ?」

 ガラスケースの中の緋毛氈に座したきらびやかな装束の人形たちに痛ましい目を走らせた。

「離婚が成立したら、私、学校辞めなきゃいけないんでしょ?」

 セーラー服の袖口から抜き出た滑らかに白い手が強く握られる。

「お母さんと二人だけになったら学費高過ぎるから」

「あなたはそんな心配しなくていいの」

 シミは目立つがシルバーのネイルを隈なく爪に施した手でセーラー服の肩を押す。

「今日は早めに上がれるから英語教室が終わる頃、迎えに行くから」

「一人で帰れるからいいよ」


*****

「我らもそろそろ用済みやもしれぬ」

「私はどこへなりともおかみいて参ります」

 上段の主君二人が悲壮な声で語る一方で下壇の紅い梅を手にした紫式部は言い放った。

「娘の学びを閉ざす父親に惜しむ価値はありません」

 白い梅を持つ清少納言は穏やかに語る。

「切れて別々に進んだ方が幸せな縁も沢山ある」

 筆を取る小野小町は重い声で告げた。

「永く愛する価値のある殿方はそもそも多くはありませんからね」


*****

「いい部屋が見つかって良かった」

 真っ赤なセーターの肩の上で切り揃えた真っ直ぐな黒髪を揺らして娘は笑う。

「あそこならキャンパスからも近いから安心だね」

 髪型こそ娘と同じセミロングだが、淡いピンクのカーディガンに漂白されたように白い髪の母親は変わらぬ大きな瞳の目尻に深い皺を刻ませて微笑んだ。

「実験で遅くなることも多いみたいだけど、あそこなら安心そう」

 そこまで話した所で娘はズボンのポケットでブルブルと震え出したスマートフォンを取り出す。

「もうアオイたち、店に集まってるみたい」

 滑らかに白い面に浮かんだ笑いがどこか寂しくなる。

「サクラは京都に行くし、ユリカは沖縄だからしばらく皆では会えなくなるしね」

「気を付けていってらっしゃい」

 母親は白い髪の頭を頷かせた。

 娘が弾んだ足取りで出て行くのを見届けると、黒い額縁の写真が立てられたリビングの飾り棚に向かう。

「もうすぐあの子もこの家を出るの」

 さながら洗い流されたように白くなった髪の女はまるで息子のように若い写真の男に語り掛ける。

「私一人には広過ぎるくらいね」

 桃の花と同じ色のカーディガンを纏った薄い肩が微かに震えた。

「これで良かったのかな」


*****

「朕もあの愚かしい夫に似ているだろうか」

「私はお上といて不幸と思ったことは一度もありませぬ」

 老いた声で語り合う上段の夫婦をよそに白き梅の枝を持つ清少納言は笑い飛ばす。

「あの写真の父君は亡くなった時より随分お若くはないかしら」

 苦いものを含んだ声で続ける。

「五年前にこの部屋で倒れてそのまま息を引き取った時には今の母君よりもっと老けて荒んだ様子だったのに」

「あれは、姫君が生まれた頃に家族三人で撮った時の姿ですわ」

 紅き梅の枝を手にした紫式部は痛ましさを秘めた声で語った。

「急に遺された方は一緒にいて一番幸せだった頃を思い出したいものなんですよ」

「妻と娘がいざ出て行こうとする段になって急にやり直そうと言い出してそのまま倒れて死んでしまうなんて」

 片手に筆だけ取った小野小町は飽くまで澄んだ声で呟いた。

「生きた女性は粗末にしてもずっと自分を待ち続けてくれる人形ではないのに」

 レースカーテンから暮れかけた春の陽が射し込んで、ガラスケースの中の雛壇に並ぶきらびやかな人形たちの姿を影と共に浮かび上がらせた。(了)


 

 


 

 


 

 

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下壇の三賢女 吾妻栄子 @gaoqiao412

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