酩酊月夜神婚譚

猫矢ナギ

酩酊月夜神婚譚


 なんだか、騒々しい。

 左右から体を揺さぶられる感覚があるが、それ以上に頭の中が混ぜ返りそうなくらい回り続けている。おまけに、まるで頭蓋骨の内側を硬い鉄の棒で打ち付けられているかのような、痛みが響いて仕方ない。

「──……が! 目ぇ覚ませ、稜牙りょうが!!」「起きろ、清川!!」

 ようやく聞き取れた俺を呼ぶ声が、カーテンの隙間から射す白い陽の光と共に脳の奥に突き刺さる。

「うるせーな……」

 仕方なく上体を起こすと、目眩なんてもんじゃない酷い浮遊感に襲われた。

「うるせーじゃねぇよ! 説明しろ!」

 目の前で謎に憤慨しているのは、昨夜一緒になって酒盛りした友人一号・芝山。

「オレらが潰れてる間に何があったんだよ、一体」

 呆れ果てた様子でこちらを見ている眼鏡男が、同じく友人二号・山崎。

「なんの話だよ……。そんなことより水くれ、水。頭痛え」

 最早俺の頭痛は、喋るだけで激痛が走るほどの酷さに達していた。完全なる二日酔いだ。

 ふと、頭を押さえて床を睨みつける俺の視界の中に、水の入った小さな湯呑が差し込まれる。

「ああ。サンキュ。助かった」

 湯呑を受け取って、中に注がれていた水を飲み干す。それは意外なことにちょうどよい温さの白湯で、不思議とこの狂うほどの酔いが醒めていくような感覚がした。

「──そなた。その身に耐えうる限界というものを知らぬのか? こうなると分かっておれば、余も加減したものを」

「いや、俺だって好きでこうなるワケじゃ……」

 ……はて。反射的にそう返してから、違和感に気が付く。

 ここに居るのは、俺と芝山と山崎。男三人だったはず。しかし今の声色は、この悪酔いした頭にも難なく通るほど涼やかな音色の、どこをどう聴いても女性のものだった。

 恐る恐る、声のした方向。俺の左隣へと視線を向けてみる。

「ん? どうした?」

 なんて呟きながら、俺に向けられたしとやかな微笑み。

 そこに居たのは、静粛な清流のように透き通る長い髪に、目を奪われるほどの美貌を称えた、全身に白い着物を纏ったどこか古風な雰囲気の美女だった。


「…………だ、誰?」


 全身から血の気が退いていく中、絞り出した俺の一言に白い着物の美女はきょとんとした瞳で答える。

「何を言う。そう他人行儀に呼ばれると、余とて少なからず傷つくのだぞ。“ミツメ”。そう呼んでくれと申したではないか」

 ミツメ、と名乗る美女は、不貞腐れたように微かに視線を下げる。そして、まさに寝耳に水の一言を告げたのだ。


「リョウガ。そなたはもう、余の伴侶なのだから」



 ◎



 寝起きの状態が嘘のように、すっきりと醒めた思考。

 俺たちはフローリングの上にさらに敷かれた絨毯の上、低いテーブルをまるで座敷のように正座で囲んでいた。

 横に並んで座らされた俺とミツメ。その正面に向かい合って座するのは、芝山と山崎である。

「さーて。説明してもらおうか、稜牙」

 まるで判事気取りでふんぞり返る芝山。その瞳孔に含まれる感情は、俺を蔑んでいるように冷ややかだ。

「いや、どうもこうも記憶が……」

「記憶が無い、なんて無責任な言い訳は通用しないぞ、清川。お前はもう、取返しの付かないことをしたんだ。男として責任を取れ」

 そう言って山崎が指し示す先で、ミツメが妙に惚れ惚れと俺にしな垂れかかっている。

「よーく思い出せ。昨日の夜、おれたちが酔い潰れてすやすやしてる間に、何があったのかをな」

「昨日の夜……」

 芝山に言われて頭を働かせると、段々思い出してきた。

「あれは────」



 ◎



 深夜一時……否、二時を迎えようとした頃だったか。

 全員の就職先も決まり、記念に久しぶりに限界まで飲もうぜ、なんて一人暮らしの俺の部屋で始めた酒宴。もう思考能力なんて溶けきった真夜中。

「やべー。めっちゃ暑ぃ。ちょっと外で頭冷やしてくるわ」

 息を吸い込むだけで酔いそうなほど、酒臭さの充満する室内。そこから抜け出したくなった俺は、上気する頬を風に当てて冷やしたい一心でこの部屋を飛び出した。

 バカだ。本当にバカである。

 しかしながら、脳までアルコールに浸かりきった俺は、気の向くままに深夜の散歩という名目で徘徊を始めた。

「すげー。なんか月が二重、いや三重、四重に見えるー」

 前後不覚な上に上を向いて月見まで始めた俺は、道の横に広がる用水路の存在に当然のように気付くことはなかった。

「……あぇ?」

 とかなんとかアホな声を上げながら、俺はまんまと用水路の中へ落下する。

 知っているだろうか。人間は顔さえ浸かれば、ほんの数センチの水深でも溺れるのだ。

 前述の通り落下した時に口まで開けていた俺は、そのまま用水路の水に顔を浸けることとなり、死が目前に迫っていた。

「おい、おぬし。しっかりせい。ここの水は農耕用のものだが、そのように含めば体に障るぞ」


──そうだ。俺をその状態命の危機から救い出してくれたのが、彼女──ミツメだった。


 何が起こったのか、詳しくは思い出せないが。

 二重三重の意味で意識の混濁した俺を、ミツメは用水路の中から地面の上へと引き上げてくれた。この時の彼女は、今のように真っ白ではなく、もっと夜の星空のような着物を纏っていたように思える。

「やれやれ。つい手を貸してしまったが。ほれ、人間はこのような所で眠るものではなかろう? 目を覚まさぬか」

 この時、俺の頬を軽く叩くその手が、随分優し気で。冷たくて心地良かった、ような覚えがある。

 まぶたを開くと、空高く昇る月に重なるように、彼女が俺を見下ろしていた。ミツメは気遣うように、意識のない俺の頭にその膝を貸してくれていたのだ。

「よし。目を覚ましたな。酒を好むのは嬉しい限りだが、このように死なれるのは余としても本意ではない。生まれ育んだその命、余らのためにもそなた自身が守るのだぞ」

 そう言って笑う彼女の満月のような眩しさを目にして、俺はぼんやりと口を開いた。


「──……綺麗だ」


 月の見守る星空の下、しばし流れた静寂の後。

 ミツメは、その美しい白い肌を徐々に紅く染めていく。

「……ほぇ!? そ、そそそそなた、急に何を言い出すのだ!?」

 赤く染めた頬を恥ずかし気に押さえながら、しかし両足を俺に貸しているため動きを封じられた彼女は、立ち上がることが出来ない。

「恥ずかしがって隠さないでくれ。せっかく、こんなに可愛い顔してんのに」

「は!? か、かかかかわっ!?」

 そっと頬を触れてやると、整った彼女の顔は愛らしく困惑の色を滲ませる。

「……名前」

「な、なんだ?」

「君の名前、聞かせてくれないか」

 困ったように悩む仕草を見せた後、彼女は恐る恐るその儚げな唇を小さく開く。

「余は、酒弥豆女神さかみずのめのかみ。あまり古くもなく、名の通らぬ神であろうが……。酒と酒造を司る……そなたにわかりやすく言うなれば、酒の神である」

 そう名乗ると、彼女は申し訳なさそうに表情を曇らせた。

「……理解したであろう? 余とそなたとは、生きる世界が違うのだ。そのような戯けた言の葉を、軽々に紡ぐでない」

 語るその瞳が、哀しげに揺らいだように見えたから。

 俺は無意識のうちに起き上がると、気づく間もなく彼女の陶器のように白い手を握っていた。

「君が神様だとか天使だとか、そんなことは関係ない。何にしろ、俺にとって君は女神以外の何者でもないのだから」

「はぇ……」

 面と向かって視線も交わせないほど狼狽する彼女。しかし一度滑りだした俺の口は、止まることを知らない。

「君自身は、俺になんて呼んで欲しいんだ? 俺は、君が望むように君の名を語りたいんだ」

「み、ミツメ……と。兄上様はそう呼ぶ。余はこの響きを気に入っておる」

 不安そうにこちらの様子を伺う、彼女のあまりの愛らしさに、絡み合う指先に力が入る。

「──ミツメ。結婚しよう」

「!?!?!?!?!?!?」

 言葉を失うほど真っ赤になる彼女は、夜風に負けようもないほど高い熱を宿していた。

「そ、そなた……!」

「稜牙。俺の名前は稜牙だよ、ミツメ」

「りょ、リョウガ。そなた、己が何を言っているのか分かっておるのか!? に、人間が神を娶るなど。全く無いわけではないが、そうそうあるものではないぞ!」

「先達が居るのなら、恐れることはないじゃないか」

「う、うぐぐ……」

 やがて観念したようで、ミツメは居住まいを正した。

 二人して月下の地の元で、滑稽なほど不似合いなことに正座で向かい合う。

 たった一度の瞬きの後、俺の眼前には目映いほどの白無垢を纏うミツメの姿が顕れた。

「本当に。本当に余で良いのだな、リョウガ」

「そんなに照れなくても、純白の君はこの月の輝きにも負けない美しさだよ」

「はわああああああ」

 嬌声を上げるミツメの小さな手のひらの上に、いつの間にやら一つの盃が光っている。

「それは?」

「む? いつからだったか、人の世ではこうして一杯の盃に注がれた酒を分け合うのが、婚姻の儀となるのではなかったか……?」

 首を傾げるミツメの手に持たれる、一杯の盃。透明の澄んだ酒の水面には、空に浮かぶ月が映りこんでいる。

 ここまで言われてしまっては、男が廃るというもの。

 盃を持つミツメの手を包み込むように俺の手を重ねると、そのまま盃を口元へ運んだ。

「……っ!?」

 間近で見る花嫁を肴に口にする酒は、この一晩で吞み干したどの酒よりも俺の喉を熱く火照らせた。

「……次は、君の番だろ?」



 ◎



 絶句。

 俺の話を聞き終えた芝山と山崎は、頭を抱えて顔を伏せた。

「稜牙お前……。いつかやるとは思ってたが、本当にやっちまったのか……」

「お前が酔うと女口説く癖あるからって、オレらは毎回気遣ってこうして宅飲みしてんのに……嘘だろ……」

 そんな友人二人を前にして、俺自身とて酔った自分の行動に困惑していた。記憶はあっても、行動した自覚がないのである。

「稜牙。ミツメちゃんのこと、幸せにしろよ」

「結婚おめでとう」

「末永く宜しく頼むぞ、リョウガ」

 こうして俺は、酒に呑まれて自覚のないまま、一柱の酒の女神様の伴侶となった。



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