真夜中の迷子

茅野 明空(かやの めあ)



「ふぅ」


 大きくため息をついて、俺はやや乱暴に参考書を閉じた。

 疲れた。今日はもうひたすら勉強して脳みそがぐでんぐでんだ。もう何も考えたくない。

 冷えた足先を擦り合わせて暖をとりながら、俺は大きく伸びをする。


 受験勉強ってキリがない。希望の大学の試験日まで、ひたすら知識を詰め込むことしか俺にできることはない。その大学入試の過去問がだいたい苦もなく解けるようになっていても、それに安心して勉強を怠ったせいで試験に落ちるのではないかと強迫観念が生じて、結局休むことなく勉強を続けてしまうのだ。


 きっと俺は、めちゃくちゃ要領が悪いんだろうな。


 第一志望の大学の入学試験日まで、あと1ヶ月。多少精神的に追い詰められるのはしょうがない。


「・・・・・・気晴らしにコンビニでも行くか」


 ふと甘いものが食べたくなって、俺は四つ折り財布をスウェットのポケットに突っ込んで自室を出た。

 階段を降り、リビングでテレビを見ている両親に声をかける。


「ちょっとコンビニ行ってくるー」

「ええ、こんな時間に? 気をつけるのよー」


 心配性の母親がそんなことを言ってくるが、コンビニは家から歩いて5分の距離にあるし、街灯は煌々とついている。確かに真夜中という時間帯だが、何かが起きるわけがない。

 適当な返事をして、壁にかかっていたダウンを羽織り、外に出た。


 熱った頬に、真冬の冷気が心地よい。煮詰まった頭がスッキリしてくる。やっぱり、気晴らしに外に出るって大事だ。

 コンビニでスイーツを吟味し、大好きなバスク風チーズケーキを手に取る。レジでマイバッグを持ってくるのを忘れたことをちょっと後悔しながら、コンビニ袋に入れてもらったチーズケーキを受け取った。

 コンビニを出て真っ直ぐ家に向かおうとした足が、止まる。


(ちょっと遠回りして帰ろうかな)


 もう少し、夜風に当たっていたかった。勉強机に戻りたくなかったのもある。

 家に向かうまっすぐな道を横にそれ、俺は街灯の少ない住宅街に足を踏み入れた。

 家の近くだし、もちろん道は熟知しているが、夜に見る細い路地はいつもと全然違って見えた。それもまた楽しい。

 鼻歌でも歌いそうな心地で歩いていた俺だったが、そのうち、違和感に気づき始めた。


 一向に我が家が見えてこないのだ。


 この路地を曲がったら見えるはず、と思って角を曲がっても、見えない。歩いている路地に見覚えはあるはずなのに、家がある路地に一向に出ない。


(・・・・・・ん? あれ?)


 なんだが喉が渇いてくる。焦る心にせかされるように、俺は自然と早足になる。


 角を曲がる。家はない。

 次の角を曲がる。あるはずの家が、やっぱりない。


 俺はとうとう駆け出した。コンビニ袋を握りしめて、白い息を吐きながら走る。めちゃくちゃに角を曲がり、路地をかけ、角を曲がり、路地をかけ‥‥。

 とうとう、疲れ切って足を止めた。

 痺れるような恐怖が首筋を這い上がってくる。


(どういうことだ・・・・・・?)


 さすがに勉強のしすぎで頭がおかしくなった、わけでもないだろう。道は正しい。迷子になるほど、家から距離があるわけでもない。ただただ、自分の家が見つからないのだ。


(どうしよう)


 俺はスマホも持たずに家を出たことを激しく後悔した。夜だから、暗いから、俺が何か勘違いをして道を間違えたのかもしれない。そうだ、そうに決まっている。そうやって自分を納得させていた俺の耳に、ふと低い声が飛び込んできた。


「お前は、どこに向かっている?」


 弾かれたように振り返る。街灯の明かりから逃れるように、男が一人、暗がりの中で腕を組み、家の塀にもたれかかっていた。

 長い前髪に隠れ、顔は見えない。しかし、その声を聞いた時に、俺は言いようのない違和感を覚えた。

 気配もなく現れた男に動揺しながら、俺は口を開く。


「あ、俺、家に帰ろうとしてたんですけど、なんか、迷子になったみたいで・・・・・・」


 道を聞こうとしたのだが、男は俺の言葉を遮るように、再び問いかけてきた。


「お前は、どこに向かっている?」

「・・・・・・え?」


 言葉に潜んでいる、何か得体の知れないものを感じ、俺は眉を顰めた。

 この男は、何かがおかしい。変質者、という雰囲気ではない。俺を傷つけようという意思はなさそうだ。だが、なんだろう。

 男の輪郭がぼやけているように感じる。

 まるで———この世界に馴染んでいない、異質な存在に見える。


「角を一つ曲がるたびに、お前は選択している。その選択が、お前の道を作る」


 男はゆらりと塀から体を離し、じっと俺を見つめた。


「流されるな。視野を狭めるな。その数えきれない選択の中で、選ぶことを諦めるな」


 一方的に言いたいことを言い、男は唐突に背中を向けた。


「お前は、行きたいところに行けばいい」


 そして颯爽と歩いていき、ふいっと路地の角に消えてしまった。


「あ、ちょっと!」


 慌てて彼の跡を追って路地を曲がり、言葉を失う。

 男の姿は消えていた。姿を隠せる場所などどこにもないのに。いったい、どうやって。

 呆然と辺りを見回して、やはり男の姿が見えないことに首を捻りつつ、元来た道に戻った俺は、「あっ」と声をあげる。

 路地の先に、あんなに探し回った家が、当たり前のように存在していたのだ。


(わけわかんねぇ・・・・・・)


 狐につままれたような顔で家に辿り着き、ぼうっとした顔のまま自室への階段を登る。

 勉強机の前に腰掛けて、俺はせっかく買ってきたチーズケーキもそのままに、しばらく放心状態だった。


「“お前はどこに向かってる”、かぁ」


 なんとなく、先ほどの男の言葉を反芻する。

 あの男は誰だったのだろうとぼんやり考える。近所の人ではなかった。それに、あの声、あの顔、なんだか・・・・・・。


(まぁ、気のせいだよな)


 机の上に目を向ける。参考書とノートの周りが、だいぶ散らかっていることに突然気がついた。最近は勉強するスペースしか見ていなかったから、周りの整理整頓がおざなりになっていた。乱れた心の表れのようだ。


「とにかく、片付けるか」


 なぜだかすっきりとした心持ちで、俺は机を片付けようと手を伸ばしたのだった。





   了

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