第11話 当時の出来事に感謝?致しません!

 生き地獄の一年目が終わる頃、父の仕事の都合で転校が決まった。

 小学時代からそれまでも何度となく転校を繰り返しており、その都度、仲の良かった友達と別れることを悲しんだが、この時は違った。


「勝った!」と確信した。

 イジメに勝った。死に勝った。人生に勝った。

 サバイバルゲームで最後まで生き残ったような、意地悪な神様の支配から解放されたような、そんな気がした。


 面白いことに、担任教師やクラスメートに「転校する」と勝利宣言をすると、彼らの態度はドラマの最終回のように豹変ひょうへんしたのである。少しは責任や良心の呵責かしゃくを感じたのだろうか。

 一切のイジメや嫌がらせはピタッとなくなり、気持ち悪いほどの作り笑顔で、偽善的な優しさを押し付けながら私を送り出したのだ。


「当時は辛かったかもしれないけど、人生でそこまで大事にできる宝物に出会えたのだから、その時の出来事に感謝しないと」

 大人になって、九死に一生を得た経験をやっと自己開示できるようになると、

「神様が引き合わせてくれた」とか「当時の出来事に感謝」とか言われたが、冗談ではない!


 神様は、助けてくれない。神様は見ているだけである。

 イジメを傍観するだけでも同罪だと言われている昨今。

 相手が神様ということで百歩譲って、神様に罪はないとしても功もない。

 ましてや、当時の出来事に感謝する気は毛頭ない。

 私はそこまでのお人好しにはなれない。


 今でも消えることのないイジメ後遺症を与えたクラスメートや担任に感謝する理由や必要性は、地球がひっくり返っても発見することは出来ない。


 私が感謝する相手は、孔明先生を始めとする三国志の英雄たちと、彼らの時空を超えた「命と希望を捨てるな」というメッセージをしっかりと魂で受け止めた私自身である。


 辛かった当時を振り返って、その出来事に感謝するか否かの決定権はあくまでも当事者に委ねられるものであり、他人に強要されるものでも、学びを見出すものでもない。


 命懸けの日々を生き抜いて、今、ここに、目の前に生存している本人の存在こそ、周りが「頑張って生き続けてくれて、ありがとう」と感謝するに値するのではないだろうか。


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