深夜の公園

ひろたけさん

第1話

 困ったことになったなぁ。


 俺は机の前でペンを指の上で回しながら大きな溜め息をついた。


 目の前に広げられた問題集の字面を追ってみるが、内容が一向に入って来ない。もう受験本番まで三か月とないのに。


 こんな事態に陥ったのは、ひとえになべのせいだ。


 やつはいきなりキスをして来た癖に、翌日にはまるで何事もなかったかのように振舞った。話しかけてもほとんど無視するような対応をして来るし……。


 そして、そんな田辺の対応に何故か深く傷付き泣いてしまった苦い記憶が蘇る。


 田辺のキスは本命の想い人に告白するための予行演習で、そもそも恋愛感情など俺には抱いていなかったのだという現実を突き付けられ、自尊心が傷付いたのだろうか。


 でも、俺は恋愛に興味のない上に、男である田辺に想いを寄せられたところで迷惑でしかないのに。自分がそんなことで自尊心が傷付くほどの繊細な心の持ち主だとも思っていない。だったら、何故?


 頭の中を不快なまでにとりとめもない考えがぐるぐる渦巻き、勉強が手につかない。


 ふと時計を見上げると、ちょうど日付が変わった頃だった。


 このまま机の前に座っていても埒が明かない。


 俺は外の空気を吸おうと、玄関でサンダルを足につっかけて家を出た。小さな庭を横切り、門を開けた時のことだ。


「わあ!」


 門を出たすぐそこにいた人影に俺は大声を上げた。一瞬、泥棒か不審者かと身構えたが、そこに立っていたのはあの田辺だった。


「た、田辺?」


 泥棒ではなかったものの、田辺が深夜に俺の家の前に佇んでいるというのは、別の意味で心臓に悪い。


 田辺の方も何やら驚いた顔で俺の顔を覗き込み、すぐに何でもない風に顔を背けた。


「こんな深夜に何処に行く気だ」


 ぶっきらぼうに田辺が問う。


「田辺こそ、何でこんな時間に俺の家の前に?」


 質問に質問で返すと、田辺は何やら気まずそうに横を向いた。


「バイトの帰りに通りかかっただけだ」


「バイト?」


「俺、もう受験必要ないからさ。今はバイトして大学の下宿代貯めてる」


 へぇ、派手な見た目の割に意外に堅実なんだ、と思う。


「あの……さ。朝倉、これ」


 田辺がおずおずと財布を取り出すと、俺の手に金を握らせた。田辺の温かい手の感触に俺の背中にビクンと刺激が走った。


「え?」


「本代。今度払うって言っただろ」


「あ、ああ。そうだったね……」


「じゃあな」


 田辺はそれだけ言うと、そばに止めてあった自転車にまたがり、帰ろうとした。


「あ、あのさあ!」


 俺は咄嗟に田辺を引き留めていた。何故そんな行動に出たのか、自分でも驚く。田辺も怪訝な顔をして振り向いた。


「何?」


 俺は引き留めておきながら、何も田辺に対してかける言葉も用意していなかったことに気が付いた。どうしよう……。


 俺がまごついていると、「悪い、もう遅いから帰る」と田辺は自転車のペダルに足をかけた。


「昨日のあれ!」 


 俺は叫んだ。


「……何だったの?」


 俺は反射的に叫んだものの「キス」という言葉を口にすることを躊躇し、「あれ」という指示代名詞で内容を誤魔化した。すると、田辺は俺に振り返ることなく、しばらくその場にとどまった。俺たちの間を沈黙が流れる。


「……怒って……ないのか?」


 田辺がいつになく歯切れの悪い口調で俺に問うた。声も心なしか震えて聞こえる。


「……怒ってはない……かな。びっくりはしたけど」


 すると、ここで田辺は俺の方を振り返った。その顔には驚きとも悦びとも取れるような感情が表れていて、俺は図らずも心臓が跳ねるのを覚えた。


「本当か? 俺のこと、嫌いになったりしてないのか?」


 田辺はどこか切羽詰まったように俺に問いかけた。


「いや、嫌いってそんな強い感情を田辺に抱いたことなんかない。でも、何で田辺が昨日、俺にいきなりあんなことをしたのかずっと気になってはいた」


 俺がそう答えると、田辺は大きく「はあ」と息をついた。


「今、時間あるか?」


 田辺は俺の顔色を窺うように目を覗き込む。何だかそれが気恥ずかしくて、俺は視線を下に向けた。


「あるけど……」


「じゃあ、ちょっと付き合ってくれよ」


 田辺はそう言って自転車から降りると、それを押して歩き始めた。俺も黙って田辺に続く。


 俺たちは並んだまま、だが、言葉を交わすこともなく夜の住宅街を歩いて行った。


 深夜にこっそりと家を抜け出し、キスして来た男と二人で夜道を散歩しているなんて、まるで逢引きいているみたいだな、とふとそんな考えが頭をよぎる。その途端、カッと身体が熱くなり、どうしようもなくなった。


 俺たちは近所の小さな公園までぶらぶら歩いて行くと、並んでベンチに腰掛けた。すぐ横に田辺の体温を感じ、胸がドキドキ高鳴って止まらない。


 何だよ、俺。何でこんなにドキドキしているんだ。これじゃ、本当に田辺のこと……。


 その時だ。


「朝倉。俺、朝倉のことが好きだ」


 田辺は大きくはないが、確かな力強さを伴った声で俺に告げた。


 俺は思わず田辺の顔を見る。田辺は意を決したような表情で俺を一心に見つめていた。


 夜の公園を照らす照明の光に照らされた田辺の顔は、俺が今まで見たどんな田辺よりも美しかった。

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