二日目(朝)

 幸いなことに、一日目の夜は何事もなかった。

 よってくる獣も、トロルの気配もなし。平穏そのものだった。

 翌日、まだ日が立ち上がって間もない時間に、私はその身を起こした。


 シェルターと外界を隔てるシートはぼんやりと光っている。

 わたしは外の様子を確かめるため、布を口の周りに巻いた。

 雪山の朝の空気はひどく冷たい。肺を痛めないよう、気を使ってのことだ。


 見ると、日輪はまだその姿をすべてあらわしてはいない。爪ほどの厚みを地平線の向こうに見せているが、山肌はそのほとんどを闇に沈み込ませたままだ。


 私は穴ぐらに戻り、朝食の支度を始める。街を離れ、人の営みから遠く離れると、日常のこういった何でないことも、大仕事に変わる。


 わたしは折りたたみ式の携帯ストーブの上に小ぶりの薬缶やかんをのせると、燃料の炭団ピートに着火して、水に熱を加える。菊花を乾かした茶を煎じるためだ。


 人の領域から遠く離れるほど、生きていく事自体に多大な努力が必要になる。

 冒険者はこのことをよく知っている。


 なのでまずは……なんでもいい。腹にモノを入れることだ。

 これをしないと何も始まらない。


 私はエルフ由来の乾パン、「命の糧」を取り出し、ふたつに割ってかじる。

 これの感想を一言で説明すると……土器を食っているようだ。

 ボソボソとしていて、口に含むとあっという間に湿り気を奪われる。

 飲み下すのに多大な努力を必要とするが、その味自体は悪くない。


 「命の糧」は大麦の中にコリアンダーといった香草、多様な種子の抽出物を固めた樹脂ブデリウムを混ぜ、仕上げに甘い蜜を入れて焼いた薄焼きパンだ。


 拷問のような食感に目をつむりさえすれば、甘い新鮮なオリーブのような味がする。


 それに湿気を奪うということは、その分水気がなくて軽いということだ。

 持ち歩くぶんにはその方が都合がいい。


 さて、食事を軽く済ませた私は、出発前の僅かな時間に、今日の計画を立てる。


 メンバーに説明している今回の冒険の目的は、ドワーフの遺跡の発見と、経路の確立だ。その遺跡の中に収められている金に関しては、何も話していない。


 これは私の安全のためだ。


 もし私がバカ正直に、「金を探しに行くぞ」などと言って、人集めをしたらどうなっていただろう。ドワーフの遺跡に、まだ金が残っている保証はどこにもない。


 苦労して行った遺跡で、金も何も見つからなかったら?


 メンバーが「騙したな!」と騒ぎ出すのが容易に想像できる。

 彼らの怒りを買うのは、リーダーである私だ。


 ――間違いなく殺されるだろう。


 だから私は今回の遠征の目的を秘密にした。

 彼らは今回の冒険の目的は、ドワーフの遺跡ヘ向かい、その道中の地図を作るのが目的だと、そう信じ切っている。


 特に剣士のヴァン。あの男は血気にはやって危険だ。

 戦士であればそれでいいだろうが、冒険者としてはあまりよい性格ではない。


 仲間との関係、人当たりの良さは、そのまま命をつなぐひもの太さに関係する。

 少し気がかりだ。


 ともかく、遺跡を目指すにあたって、私たちは心に銘記めいきすべきことがある。


 冒険とは、自分や誰かの限界以上に挑戦するという不遜な態度と同時に、過去にそれと戦い、その記録や経験を私達に遺してくれた遺産を受け入れるのが必要だ。

 まずは、「自分ができないことを知る」といった態度が必要なのだ。


 限界を知らなければ、谷を飛んでも、超えられずに底へちるだけだ。

 自分のものでも、他人の物でも良い。まずは限界を知ることだ。


 そうすれば自ずとたどるべき道が見えてくる。


 我々がもし、このセレスティア岳に勝利するとしたら、それは私達だけの勝利ではなく、過去に生きた人間たちの勝利でもある。

 冒険は、人類共通の栄光になるのだ。


 そもそもドワーフ達は、かつてここに住んでいたのだ。

 彼らにできて、我々にできないはずがない。


 私はドワーフの気持ちになって考える。

 彼らなら……ここからどうやって、要塞に戻るだろう?


 ふつふつと沸いた茶を器に移すと、それをあおり地図を見つめる。


 薄明かりに照らされている地図には、私達の予測位置と、最初の目的とした場所が書かれている。ススラフの村長によると、要塞はセレスティア岳の7合目付近、※切り通しの先に、要塞へとつながる、連絡路の入口を設けているそうだ。


 ※切り通し:山や丘などを部分的に掘削し、人馬の移動ができるようにした道。


 入り口の目印は、巨人のテーブルと呼ばれる巨石だ。

 ドワーフの要塞には、こうした入り口が山の各地にあり、暗号化されたルーンを携えた伝令が移動に利用していたらしい。


 まずはここを目指す。

 外を移動するよりは、ずっと安全なはずだ。


 現在位置は、最初の予定より西に外れた5合目。


 尾根の反対側に出たために、きっと午前中はまったく日が当たらないだろう。

 猛烈な寒さに襲われるのは間違いない。


 星見術師に伝えるため、ルートを地図に木炭で書き入れる。


 まずは一番大きな尾根に対して垂直に移動し、早めにここを超える。しかるのちに北へ変針し、巨人のテーブルを目指す。ここへ至るまで、いっさいの遮蔽しゃへいはない。


 今のところセレスティア岳、彼女の機嫌は良いが、何かの拍子で気が変わって、その天候が崩れ始めれば、まちがいなく致命的なことになる。

 できるだけ早くここに到達したい。


 私は荷物をまとめると、シェルタ―を出た。

 すると、細い針で肌を刺すような痛みが襲う。茶を飲んだことでしっとりと肌にまとわりついた湿気、それが一瞬で凍ったのだ。


 全くとんでもない場所だ。

 私は布で顔を拭って乾かすと、すぐ隣のニルファのシェルターを目指す。

 シートを体で押してその中に入ると、彼はちょうど干し肉をしゃぶって食っているところだった。


 「ニルファ、今日の予定だ」私がそう言って地図を差し出すと、彼は肉食獣のように干し肉を引きちぎり、地図を手に取る。


 彼は地図に書き込まれた黒い線を指でなぞると、いったん複雑な表情を浮かべるが、すぐに首肯しゅこうする。


「巨人のテーブルを目指す前に、尾根を越えるんだな?」


「そうだ。体を動かしても、午後になるまで日陰にいることはできない」


「わかった。これなら間違いようがない。もう間違えないよ」


「ニルファ、そんなに気負わなくて良い。誰にでも間違いはある」


「ありがとうレックス」


 私は彼のシェルターを出て、自分の巣に戻って出発の準備をする。

 ――さて、何事もなければいいが。

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