深夜の散歩ではなにも起こらない

lager

深夜の散歩で起きた出来事

 街灯の明かりが、ぼんやりとアスファルトを照らしていた。

 空は深い藍色で、薄く張った雲が月明りを滲ませている。

 立ち並ぶ民家には一つの明かりも灯っていない。

 腕時計を見れば、二時半。

 私はため息を零すと、ネクタイを僅かに緩め、足を踏み出した。

 革靴がアスファルトを叩く音が、やけに大きく響いた。


 何故私がこんな深夜に住宅街を歩いているのかというと、きっかけは五日前に遡る。




「お前、働きすぎ。明日から有休消化五日間」


 本社のマネージャーから、そんなことを言われたのである。

 その耳慣れない言葉に、私は不覚にも数秒固まってしまった。

 ユーキューショーカ?

 なんだろう。お店で始まる新しいキャンペーンか何かだろうか。それとも最近コマーシャルで岩下志麻と若い女性(名前が分からない)がロココ調のコスプレをしている――


「UQモバイルの話はしていない。休めっつってんだよ、殺すぞ」


 そう言って私の鳩尾をどついたマネージャーは、その小柄な体躯とゆるふわショートボブの髪に似つかわしくない三白眼で私を睨みつけた。

 命の危機を感じた私が、そうはいっても店長の私がいきなり五日も店を開けてはシフトが回らないし、明後日には棚卸もあるのだから、せめて少しずつ分散して取れないかと交渉してみたが、彼女は今度は肝臓を狙ってボディーブローを打ってきた。

 小さな拳が背広とシャツを突き抜けて鋭く突き刺さる。


「お前のことだから先延ばしにするといつまで経っても取らないだろう。そのうちタイムカード押さないで仕事し始めるだろう。最近はサブロク協定だの働き方改革だのなんだの煩いんだ」


 そんな馬鹿な。私にそうやって本社の人間を誤魔化す方法を教えたのは他ならぬこの人なのに。

 ん?

 ああ、なるほど。そういうことか。取りあえず有給の申請だけ出して本社にアリバイを作っておけと、そういうことか。


「ちなみに、シフトは私が埋める。店に来たら殺すからな」


 どうやら私の未来は、死ぬか休むかの二つに一つらしい。

 五日も休めばその今にも死にそうな面も少しはシャキッとするだろう、と、そんなことを言われてしまった私は、いまいち納得がいかないまま、その日の仕事を終えて帰宅した。


 閑静な住宅街の中にあって、そこだけ戦後からタイムスリップしてきたかのようなアパートに帰宅した私は、買い置きの冷凍食品で食事を済ませると、明日からの予定に思いを馳せた。

 休み。五日間。

 いや、私だって別に休みなしで働いているわけではない。

 普通に月九回の休日は貰っているし、残業だって基準以内に収めている。まあ、従業員の女性に小さな子供がいるせいで急なシフトの穴が開くことも多く、ちょっとだけシフト表を誤魔化して穴埋めしたりはしているのだが、それにしたって月に一回あるかないかだ。


 ただ、数年前は休日に呼び出されて仕事にいくことも今よりは多かったので、どうせ呼び出されるなら着替えも面倒だと、休日でもワイシャツと背広を着てネクタイを携行する習慣をつけてしまったところ、同じアパートの住人からは変人扱いをされてしまったのだが、私なんてこのアパートの中では常識人もいいところだ。


 まあ、なにはともあれ、折角もらった五日間の休日。

 たまにはゆっくり羽を伸ばすのも悪くない。

 どこか遠出でもしようか。久しぶりに凝った料理でも作ろうか。ヤナイさんに長編小説を借りたりしてもいいな。


 そんな妄想をして始めた休暇、その最終日にして。


 私は不眠症に陥っていた。


 眠れない。

 全く眠れない。

 なにをしても一切眠気がやってこない。

 当然だろう。私は休み前に立てた計画を何一つこなすことができないまま、だらだらと家の中に引きこもって過ごしていたのだから。

 体に疲労など溜まっているはずがない。


 時刻は深夜二時。

 冴えわたる目には、天井の木目の一つ一つがはっきりと見て取れる。


 なぜだ。

 休暇とは体を労わるためのものではないのか。

 私はなぜ休むことによって体と精神に異常をきたしてしまったのだろう。


 これは良くない。非常に良くない。明日には仕事に行かねばならないのだ。なんとかして睡眠時間を取らなくては。


 こうして私は、無理やりにでも体に疲労を溜めるため、深夜の散歩に出かけたのだった。


 てくてくと歩いていく。

 すたすたと歩いていく。


 これでも学生時代は陸上部で、最初の勤め先では営業職だったのだ。

 町中を歩き回って疲労を溜めようと思ったら、それなりの距離を歩かなければならない。


 てくてく。

 ひたひた。

 すたすた。

 ひたひた。


 うん?


 何か、自分の革靴の音に紛れて、別の足音が聞こえなかっただろうか。

 ふと振り返ってみても、代わり映えのしない住宅街の景色しか見えるものはない。

 気のせいだろうか。


 てくてく。

 ひたひた。

 すたすた。

 ひたひた。


 しかし、なんとなくだが、聞こえる音が大きくなっているような気がする。

 まるで、私の後ろを付けて歩く人物が、少しずつ近づいてくるような――。


 ぞわり。


 次の瞬間、私の体を生暖かい風が通り抜けた。


『アレ?』


 それと同時、風の音に紛れてなにか小さな声が聞こえたような気がした。

 しかし、立ち止まってあたりを見回してみても、やはり誰の姿も見えない。


『今ニモ死ニソウナ顔ノクセニ、憑リツク島モナイ』


 なんだろう。気のせいだろうか。人の声が聞こえたような気がするのだけど。

 そういえば、さっきアパートを出た時にも、上の階から妙な声が聞こえたような気がしたのだ。『キヲツケテ。キヲツケテ』と。ただ、私の上の203号室は長く空室のままで、誰も住んでいない。

 管理人のクミさんが言うには、ここはこのままでいいんだ、とのことで、時折何かお札のようなものを交換しているのだが、どういうことなのだろう。

 まあ、『くわがた荘』の家賃が一部屋分増えたところで収入に大した違いはないのだろうが。


 私は気を取り直し、再び歩き始めた。


 ふと、目の前の街灯の一つが、ぱちぱちと点滅しているのに気付いた。

 奇妙なことに、光が落とす電柱の影が、不自然に膨らんでいた。

 まるで人間一人がその場に立ち尽くしているように――。


『ねえ、私キレイ……ちっ。こいつ見えていないな』


 その電灯を通り過ぎるときに、女の人の声が聞こえた気がした。

 ただ、やはり振り返ってみても誰もいない。

 やっぱり気のせいだろうか。いや、ひょっとすると塀の向こうのお家で、誰かがカーテンを閉め切ってテレビでも点けているのかもしれない。


 私が言うのもなんだが、夜更かしはほどほどにしたほうがいいと思う。


 しばらく進むと、一匹の黒猫が目の前を横切った。

 尻尾が二本生えていたように見えたけど、見間違いだろう。


 しばらく進むと、ゴミ捨て場から青白い手が何本も伸び、私を手招きしていた。

 誰かマネキンでも捨てたのかな。


 しばらく進むと、ブロック塀に赤くどろりとした文字で、『タスケテ、タスケテ』と書かれていた。

 まったく、誰の悪戯だろう。ああいうのは消すの大変なんだよな。


 しばらく進むと、夜の空を羽の生えた巨大な目玉が二つ飛び交っていた。

 凝ったドローンだな。でも、いくら深夜とはいえ住宅街では飛ばさないほうがいいと思う。


 てくてくと歩き続ける。

 すたすたと歩き続ける。


 その間にも、時折小さな声で舌打ちが聞こえたり、囁き声が聞こえたりしたのだが、もう私も慣れてしまっていちいち足を止めたりはしなかった。

 なんだ、こんな時間でも意外と起きてる人はいるんだな。みんなどういう生活をしている人たちなんだろう。

 突然降って湧いた五日間の休日で、私はすっかり孤独を感じてしまっていたのだけど、こんな深夜の住宅街でも自分は一人ぼっちじゃないのだということが、何故か少しだけ嬉しかった。


 そのまま何事も起きないまま、私は一時間ほど歩き続け、帰宅した。

 



 そして、翌朝。

 

 爽やかな目覚めだった。

 カーテンを透かして朝日が差し込み、一日の始まりを告げる。

 手癖で枕元のスマホを手繰り寄せると、ちょうどぴったりアラームが鳴る。なんだか得をした気分だ。


 軽くストレッチをしてシャワーを浴びると、僅かに残っていた眠気もキレイに消え去り、頭がすっきりした。

 朝食は作り置きしていたおにぎりとみそ汁、ゆで卵とパックのもずく。

 歯を磨き、髭を沿って、シャツに着替える。ワックスで髪を整え、背広を羽織れば、すっかり仕事モードだ。


 時計を確認すれば、いつも通りよりも少し早い。

 最寄りの駅までは少しのんびり自転車を漕いでいこう。

 今日はいい一日になりそうな予感がする。


 さあ。たっぷりと休養は取れた。

 また今日から、お仕事頑張るぞ!


「なんだ、今日も死にそうなツラだな」

「おはようございます、ハジメさん。大丈夫ですか?」


 玄関を開けた途端、アパートの住人二人にそんなことを言われてしまった。


 庭先でストレッチをしていたのは、御年七十五を迎えるご隠居と、昨年からこのアパートに入居している大学生の青年だ。

 私が苦笑混じりにこの五日間休暇を取っていたこと、昨晩は眠れなくて年甲斐もなく夜更かしをしてしまったことを告げると、ご隠居――ゴロウさんが目を丸くした。


「お前、昨日の晩外に出たのか?」


 うん? なにかまずかっただろうか。


「いや、ううむ。まあ、お前さんなら大丈夫か」


 心配してくれたのだろうか。まあ、彼から見れば、私だって若造のウチなのだろう。別に非行に走ったわけでもなし、この辺りで物騒なことなんかも起きないだろう。


 釈然としない様子のゴロウさんの横で、若々しい笑顔を浮かべた青年が私に笑いかけた。


「じゃあ、今日からまたお仕事なんですね。頑張ってください」


 今まで五日も空けたことがないから、店がどうなっているか不安だと、そんなことを言う私に、青年がふと思いついたように首を傾げた。


「そういえば、ハジメさんって、なんのお仕事してるんですか?」


 おや。彼には言ったことがなかっただろうか。

 まあ、あんまりこんな風体の男が働くような場所じゃないから、自分から言ったりはしていないけれど。


 ぬいぐるみショップの店員だ、なんてさ。


「お前は二回目で登場しておけ」


 

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