第7話 戸外の景色

 ・・・・・・

 ひとの音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまう


 思いもかけず巷間にほうり出された格好になったリウは驚かされっぱなしだった。ひとなかにあってまずこころに捉えられたのは、歌が日常のなかに自然溶けこんでいることだった。いや、溶けこむ、というのは相応しくないのかもしれない。日常の茶飯のひとつになっている、といったほうが正確だろうか。

 幼き時分、ひとかどいによって都に連れてこられあの屋敷にいた幾とせ、戸外にでることのなくきたのだったが、戸内で歌を耳にすることはとんとなかった。主一家はむろんのこと--もっとも彼らと近く接することなどほぼほぼなかったわけだからもしかしたら何かしら音曲を嗜んだりしていたのかもしれぬが--フクをはじめとする奴婢仲間は酒を囲むなかでなにやら卑猥な文句をいいあったりがなり立てたりするばかり。それらしいものといえば、塀の外をとおるもの売りの声ぐらいのものか。

 それが石ころのように無造作にどこにでも存在している様子に、目をみはらされた。耳をみはった、というべきか。そんな言いまわしなどないが。尺八をふく虚無僧。経をとなえる禿げ頭。もの売り。当り鉦をもつ芸人。鼻歌や口ずさむ町人、町人、町人。・・・・・・

 郷里の風景のなかには、村祭りだとか、田植え等の作業のさいにようあったし、父母からよう聞かされ、リウも歌いもしたものだったが。それももう稚いみぎりのこと、薄れかけ、擦れてしまっていて、ほんとうにかつてあったことだろうか、夢でみた幻なのではないだろうかとおもうようになってきてすらいる。父母のこと、さえ。そんな常態に気がついたときざっと血の気が失せ愕然とし、再認識しようとしているのか、すくなからずその働きもなくはなかろう、教えられたふるさとの歌をくちびるの内で噛みしめるように口ずさむのだった。

 目をみはらされたのはそれのみならず、往来のひとらの身につける、とりどりな色合いにもあった。赤や茶や青など当たりまえに着こなし着崩し、着物は黒ながら帯は白をあわせ対照のをかしうを個性にするものもいる。これは村でも平生では目にしたことはなかったような気がされる。やはり花の都といわれるゆえんだろう。

 ただ、そこにないものに気がつきもし、小首をかしげもしていた。えんじ色はある。あずきの色もある。さりながら、さやかにみゆる紫のいろが掻暮に見あたらない。都のひとの好尚にかなわぬ色なのだろうか。もっとも、ふるさとでも身につける者を目にしたことはなく、ジュデ染めをよくしていた母の織りなした着物を晴れ着としてーーその色を身におびた母は気高くうつくしく、父は崇高でどこかひとならぬ清明さをみせ、そんなふたりをみて幼ごころに誇らしくかんじたものだったーーまたは手拭いとして首にかけたりしていたくらいであったが。そういうゆかしさだとか思いいれをぬいても、うつくしい色とおもわれてならぬのだが。

 さらば屋敷でなしていたジュデ染めの糸。それによって織られた反物は、いずこにさばかれていたものだろうか。いずこにだとか、いかほどの値のあるものなのか、具体的なことをリウは聞かされることがなく、問うことはむろん許されないことではあったものの、ことさら疑念だとか不足だとかを抱くことはなかった。ただただ染めの行程、結果あらわれるむらさきの糸に安らぎと満ちたりたものをおぼえ、そのためにしていただけのことではあったから。

 改めて考えてみると不可解ではあった。さりとて、不可解なことだらけではあり、それが尖鋭化されることはなく埋もれてゆくものではあった。

 また、他人のそれより自らのものが気になって仕方なく居たたまれずいて、どこか物陰に潜んでいたい気分でしばらくいた。正に穴があったらはいりたし、自ら穴を掘ってそうしたくなるほど、身の置きどころのないおもいにあった。

「その格好では歩きづらかろうからな」

 と、シュガーー賊のひとりだというリウを助けた男はそう名乗り、そう呼べといったーーから買い求めあてがわれた着物。ためらいつつ袖をとおしたそれは、常人の身につける簡素なつくりで、模様もないものの、落ちついた発色の花あさぎ。

「おもったとおり、よく映える」

 それは染まった指さきをふくめてのものだった。

 ーーそう、碧落にほころぶ、桐の花のように。

 シュガから目を細めいわれ、面映ゆい、どころではなく臆しながら、そんなことはないだろうとつよく否むおもいから目を伏せると、

「またあかん癖出てる。リウ、うぬはもう賊の一員じゃ」

 奴婢ではないのだぞ、ということ葉を言外におかれ、かるく叱責をうけた。格好としては叱責ではあったが、責めたり問い詰めたりするふうは微塵もない。そう反応するのは仕方ないこと、すこしずつ慣れてゆけばよい、といってでもくれているような、笑みをふくんだ、何気ないことでもいうようなこわぶりだった。

 はい、と返しながらそれでも、しばらくは足もとを見がちではあった。もっともそれは都にて習い性となったもののみならず、顔をあげて歩くことにだいぶ抵抗がなくなってからもだった。視点をさげさせるものが、常にそこにあったからだった。

 ニジがまるで影であるかのように、尾していたのだ。リウの横になり、後ろになり、前になり、あるくに差しさわりのないようにするかのように。

「ほう、こないになつくこともあるのだな。えらい賢いようだし」

 然り。シュガにいわれて認識を確かにする。振りかえってみると、屋敷にいる時分、姿をあらわすのはリウが庭にいるときだけで、ほかの者の前にあらわれることはなかったし、どこかにはいりこんだとか、喰い逃げだの粗相をすることもなく、リウは一度たりとも迷惑をかけられた覚えがない。当時から悧巧な子かもしれないとかんじていたものだったが、「かもしれない」ではないのだとシュガの言で確信させられた。「あるくに差しさわりのないようにするかのように」は誤りで、「あるくに差しさわりのないように」している、が正しいのだと理解した。

 不可思議だった。それだけ賢い猫と巡り合わせがあったこともだが、なによりもこれだけなついてもらえるだけのことをしていないという思いがある。恩義をかんじて、だろうか。それをいうならより自分のほうがかんじているかもしれない。こころ持ちを保つのに、どれだけ助けられたか知れない。

 また、なついてもらえるだけの価値が自分にあるとも到底思えなかった。さりながら、やはり、うれしい。うれしい、それだけで良いのではないだろうか。ああだからこうだからと、余計なことを考えるのは、あかん癖で。

 屋敷をでるにあたってこころ残りになるものは、ふたつしかなかった。もうひとつの方、ジュデで染めた糸束は、諦めをつけることがおおよそできてはいたのだったが。

 きぇーッ。

 インモラでもあらわれでもしたのだろうか、こんな昼日中に。にわかに奇声が上がり、そうでなくともおじおじし歩んでいたリウは、と胸を突かれすこしよろけた。

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