第6話

 ――――。


 不意に。ケンの頬に、数時間前に感じた柔らかい、包まれたような風が撫でるように吹かれてくる。


 あっ、これは……。


 と思うと同時に、ケンの全身は不意に現れたその風によって、瞬く間にふわりと浮かび上がるのだった。


「――っ!待って!まだ帰りたくないっ!」

「ケンッ!?」

 突然の出来事に一瞬だけ怯んだブッコローだったが、すぐさまその小脇に抱えている緑色の本を床にドサリと置き、浮かび上がったケンの体へ向かって茶色の小さな羽を懸命にバタつかせた。ふわりと浮かび上がったケンの体は、見えない扉に向かって今にも引き込まれそうになっている。


「待てー!待てっテ!まだ、文房具にも触ってないし、まだマダ教えてヤルことは山程アルんだッ!ケンだって、ワクワクの続けたいんダロッ!?」

 ブッコローはそう叫びながら、小さい茶色の羽を伸ばせるところまで伸ばし、懸命にケンの左手を引っ張った。

「うんっ!見たい、触れたい、使ってみたい!まだまだワクワクを体験したいっ!でも、でも……ダメっ!羽が!ブッコローの羽がちぎれちゃう!」

 茶色の小さな羽が無惨にも引き千切られ、ケンを引きずり込もうとするその風に次々と呑み込まれていく。


 ――これ以上はダメだ!羽が、ブッコローが傷ついちゃう!

 ケンは左手でギュッと握られていた茶色の羽を、ゆっくりと緩めた。もう、これ以上は……。


「――クソッ!仕方ねえッ!ケン、これを持ってイケッ!」

 パシッ。ケンの右手に軽い、それでも何かずっしりと質量の感じる手のひらサイズの棒状の物が握らされた。

「ずっと使っていた愛用品ダ!それで使ってミロッ!試し書きでも、何でもしてミロ!」

「えっ!これって、もしかしてさっき言ってたボールペン!?いいの!?大事な物なんじゃないの!?」

 ざわざわと吹き払う風の音に掻き消されながら、ケンとブッコローは必死に言葉を繋いでいく。

「ただ貸すだけダッ!ゼッタイに返せヨッ!」

「ええっ!?どうやって!?ここの場所もよくわかんないのにっ!」

ならまた来れるサ!大丈夫ダッテ!」

 確信とも言えるその言の葉に、ケンは御守りをもらった気がして、大きく頷いた。

「――うんっ!わかった!ありがとう。これを使って、いっぱい、いーっぱい自分の思いを書いてみるね!」

「オオッ!そうしろッ!絵でも、物語でも、作文でも、何でも書いてミロ!アッ、何なら交換日記でもいいゾ!」

「交換日記……って何?あっ、でも書く道具はあっても、書く紙がないや……うわっ!?体が!わああああー!?」

 もうすでにケンの体は大きく宙を舞い、見えない扉の向こうへ飛ばされる寸前だった。

「クッ!?ここで限界カ!ケン!書こうと思えばドコダッテ書けるっ!まずは、空に書いてミロ!きっと届くッ!」

「空っ!?空ってどこの……」



 その言葉セリフは最後まで紡がれず、途中で消えてしまった。あの、ケンが読んだ小説と同じように――。






 ピピピッ、ピピピッ

 耳元で軽やかな機械音が鳴り響く。

 重い頭をゆっくりと持ち上げると、そこは見慣れた自室の風景の中だった。

「……ケン、ケン?大丈夫?あなた、昨日学校から帰ってきてから、ご飯も食べずに部屋へ行ってしまって。もう朝よ?課題の作文は出来たの?」

ドア向こうから、聞き慣れた声が聞こえてくる。

「……うん。平気。大丈夫だよ、お母さん。もう少ししたら、朝ご飯食べるから」

「そう。じゃあ、準備が出来たら下に降りて来てね。今日は九時からオンライン授業があるんでしょ?」

「うん。それには間に合うようにするからさ」


 あと、三時間。母親からの声掛けを受け流しながら、ケンは机の上に置いてあるノートパソコンを開き、画面を立ち上げた。

「……うん、大丈夫!きっと書ける。約束だもんね」

 木の窓枠に置かれた細長い棒状の物。朝の光でキラリと光るその宝物を眺めながら、ケンは与えられた作文の枠にリズミカルにキーボードを鳴らしていった。


『 私の夢 出席番号:三番 氏名:岡﨑 けん


  私の夢は――




                   〈完〉

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