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 店からまろび出たあと、私たちはぶらぶらと歓楽街を歩いた。修史さんは明らかに飲み足りない風情で、「昴、二次会はあるのか」

「決めてない。ただ皐月がいるからな。いちおう高校生なんで、飲み屋は若干まずい」

「かなりまずいよ。私だけ先に、お兄ちゃんの部屋に帰っててもいいけど。飲みたければ三人で行ってきたら」

 この私の申し出に、真っ先に都さんが異を唱えた。眉根を寄せて昴を睨みつつ、

「せっかく遠くから遊びに来てくれたのに、それはあんまりじゃない? 自分の兄がそんな人間だったら、私は厭だな。志島くんもそう思わない?」

「――思う」

「その間はなに?」

「なんでもないよ。確かにわざわざ呼んでおいて、皐月だけここで放り出すのはよろしくない。高校生ってどこなら大丈夫なんだ。カラオケも駄目かな?」

「ライヴのあとでカラオケって疲れない?」と私。「ちなみに十六歳のカラオケは夜十時まで。学生証出せって言われるだろうから、大学生のふりはできないよ」

 この種の規則については、それなりに頭に入っているほうだと思う。なるほど身近に厳格な人がいると影響されるものである――むろん琉夏さんではなく、生徒会役員にして厳格さの化身である楠原さんのことだ。

「皐月さんって生徒会かなにかの役員? それも風紀委員とか?」と少し驚いたように都さんがこちらを振り返る。

「いいえ、文芸部です。ただひとつ上の先輩で、まさに生徒会の役員がいるんです。その人の厳しさといったら、私などではとても」

「石垣くんタイプか。私もカラオケの気分じゃないなあ。修史はけっきょく、飲めればなんでもいいんでしょ?」

「イエス」

「じゃあ宅飲みにしようか。俺んちで良ければ」

 昴の提案に、修史さんが瞳を輝かせた。「それだ」

 話が纏まった。近くのコンビニで飲み物とおつまみを買い込み、四人揃って兄のアパートへと雪崩れ込む。あっという間に宴会が始まった。

 自宅に帰ってきて気兼ねがなくなったのか、昴は修史さんに付き合ってビールを飲みはじめた。私と都さんはペットボトルのコーラを分け合うことにする。

 全員があまりにも寛いでいるというか、部屋の勝手を熟知している感じに見えたので、私は少し驚いていた。聞けば、頻繁に利用するライヴハウスからも大学からも近く、しかも隣が空室の角部屋なので、セラーハーストの面々にとっては定番の溜まり場と化しているのだという。

 都さんが壁一面を占める本棚に視線をやりながら、

「『脳のなかの倫理』って倫理学のレポートのために読んだの?」

「いや、単純に興味があって。薬で病気に打ち勝つのって、要は体の機能をテクノロジーで拡張するようなものだけど、みんなそこまで抵抗ないじゃん。でもそれが脳を、自分の意識を操作するとなると、途端にハードルが高くなる。医学的な措置を行うにしても、倫理や哲学の問題が絡んでくる。そういうの、これからどう考えていけばいいのかな、と思ってさ」

「最初から問題意識があって講義を取ったんだ」

「俺の場合、きっかけはSFだったんだけどね」

「SFか。好きなの?」

「わりと昔から。子供の頃に『海底二万マイル』とか『フランケンシュタイン』とか読んだし、映画もちょくちょく観た。ざっくり言うとさ、SFってテクノロジーと社会の相互作用について考えるための枠組みだと思うんだよ。たとえば自分の意志で戦場に赴く兵士が、いざってときに適切な行動を取れるよう、必要ならば引き金をひけるよう、自分のなかの倫理観の一部を事前にロックできるとする。退役軍人がPTSDで苦しむ話って、映画なんかでも昔からたくさんあるけど、ああいうのを医学的な措置で防げるとしたら、それはいいことのように思える。でも同時に、殺人という行為を背負う主体がなくなってしまう、とも言えるかもしれない」

 都さんは自分の顎を摘まんで、「――難しいね。私なんかだと、整然とした数字の世界に逃げたい、と思っちゃうかも」

「で、理学部数学科」と床に寝そべった修史さんが茶々を入れる。それなりに酔っているらしく、呂律が回っていない。「でも本質的には区別する意味がないかもしれんよ。たまたま指を十本持つ生き物として生まれた。生まれた先は計測すべきものがいくらでもある世界だった。数を数えようという気になった。十進法なんてのを考えてみた。イメージを記号として共有できるようになった。計算というのも自分たちを取り巻く世界を捉えようとすること、つまりは人間の認識を広げようとすることだと言ってみれば、それは人文科学っぽい営みでもあるわけだよ」

「石垣がレポートで扱った医療倫理は、より身近だよな。誰もがいつか、なんらかの形で直面せざるを得ない話なんだから」

「そうだけど――」都さんが言葉を探すように視線を動かして、「――考えてもそうそう答えの出る問題じゃないよねえ」

 昴は頷いて、「月並みだけど、きっと考えつづけることに意味があるんだよ。ひとつの講義に十数回出ただけじゃ、専門知識なんか身につくわけないんだし」

「まあね。特に一年生のうちは、自分なりの価値判断の基準を確立するのが大事だって、私も思う。だから修史も志島くんも、毛嫌いしないで数学の講義を受けてみたほうがいいよ。意外な面白さに開眼するかもしれない」

「考えとく」

 まるで考える気のなさそうな調子で、昴が応じる。大学受験において数学にさんざん苦しめられた経験が、心に暗い影を落としているのだろう。気持ちはよく分かる。私も数学が大の苦手だ。

「音楽は数学だって、ジャコ・パストリアスも言ってたらしいよ。学んでおいて損はないって。文系でも統計学とか、線形代数とか――」

「あ、金曜ロードショーが始まる」

 昴が大袈裟に声を上げて、テレビのスイッチを入れる。都さんの熱烈な勧誘から逃れるのが目的だったのだろうが、予告篇が流れはじめるなり、全員が画面に釘付けになった。

「今日、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だったのか。俺の初SFって、たぶんこれだ」

 言わずと知れた、SFコメディの傑作である。幼い頃にテレビで観て、兄妹揃って夢中になった思い出の作品だ。当時、途中で切り上げることがどうしてもできず、本来の就寝時間を過ぎてまで観つづけてしまったのだが、そのときばかりは母も文句を言わなかった。おそらく彼女自身も楽しんでいたのだろう。

 何度観ても面白い。ひとつのクライマックスといえる、海のおさかなパーティーの場面に至っては、四人同時に身を乗り出してしまった。マイケル・J・フォックス演じるマーティ・マクフライが、負傷したミュージシャンに代わってギターを披露する。ギブソンES345の赤い輝き。

「俺、これに憧れてギター始めたんだ」と昴が熱っぽく語る。「マーティの演ってる〈ジョニー・B・グッド〉って、この時点では存在してないわけじゃん。で、衝撃を受けたギタリストが、慌てて従兄弟に電話する。それを向こうで聴いてたのがチャック・ベリー、つまりは本来の作曲者だっていうタイムパラドックスになってるんだよな。餓鬼の頃は気がつかなかったけど」

 マーティはタイムマシンのデロリアンに乗って、三十年前にタイムスリップする。彼にとっての〈ジョニー・B・グッド〉はスタンダードナンバーだが、発表されたのは一九五八年だ。映画の舞台となっている一九五五年の人々は、当然この曲を知らない。ロックンロールという概念自体、ほとんど普及していない世界である。

「ちょっとロック知ってる人が観ると、より笑える場面だよね。マーティがピート・タウンゼントになったりジミヘンになったりエディ・ヴァン・ヘイレンになったり、いろんな『未来の』奏法を披露してる。志島くんもこれ、真似した?」

「当然」昴が愛用のストラトキャスターを掴み上げる。「真似したい映画の名場面ナンバーワンだろ、これ」

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