8話「正負」

「ジョシュア?」


 カラは最初、目の前の物体がなんなのか、わからなかった。空気さえ入る余地のない、光さえ飲み込んでしまう深海の……その底を覗けないように。


 瓶詰めの暗黒。


 いままでわかたれていたふたつの砂がここで同じ色になった。見事に完全に、完璧に一致していた。


「ジョシュア。ジョシュア。聞こえる?」

「これはひどいですね。理性も思考も」


 カラは冷や汗をかきながら、暗黒に話しかけた。


 暗黒は返答をしなかった。できなかった。

 いまの彼に見えているのは目の前の光。

 光をただ飲み込むことだけしかできなかった。


「ジョシュア……君は改心したと言ったよな。謝罪すると言ったよな! まるで反省してないじゃないか!」

「……」


 暗黒はもう、なにも聞いていなかった。

 光をただ飲み込むことしかできなかった。


「答えろよ! な」


 ──暗黒は剣を抜き放ち、光に襲いかかった。

 

「あ」


 剣戟は、速度もなく威力もなく衝撃もなく。

 才能もなく実力もなく技術もない。


 ただ唯一あったもの、それは。


「……ッ!?」


 行き場のない悪意。

 ルークにはけっして理解できないたぐいの、理由もなければ主張もない、どうしようもないような悪意。

 それ以外なにもないから、なにもないことを理解できないからこそ、反応が遅れた。


 ルークの首筋近くでふたつの鋼がぶつかり合った。火花が飛び散り、彼の肌を焼いた。


 ……遅れて、暗黒の太ももからなにか赫いものがどろどろと噴き出てきた。皮膚ではなく、肉から噴き出る赫さが。彼はそれを気にも留めていない。痛みがあることに気づいてすらいないのか。


 カラはその光景を見つめながら、怯えていた。


「不意打ち、ですね。ふふっ」

「メイ。もうダメ。やめさせて」


 メフィストフェレスは笑った。

 やめさせる。やめさせるとは。


「カラ様。よくお聞きくださいね……わたしはご主人様のメイドであって、あなたのメイドではありません。したがって、あなたの言うことを聞く義務はないのです」

「な。ぜ?」


 メイドであるはず。すくなくともそう聞いていた。それならば彼の人間性が、復元不可能なまでにこぼれ落ちてしまうより先に止めるべきでは。メイドだから、そして、悪い人間ではないから。賛同してくれるだろう……と信じていた。彼女は純粋だった。


 否定された。

 意を違え、驚いたカラは虹の目を涙で歪め、悪魔の顔を見てしまった。


「ひっ」

「それに、どうもわかりませんね……?」


 いま空間の中心で蠢いているあの暗黒に近い、すべての光を拒絶する黄色が、赫い目を歪めて、白い髪を広げて、彼女をじっと見つめていた。


「だってこれほど愉しいことは他にないのですから」


 ……鍔迫り合いは通常、膂力の強い方に軍配が上がる。レベル10。ジョシュアの攻撃力は15。ルークには遠く及ばない。それならばジョシュアはすぐに押し潰れされる。間違いなく負ける。


 それが道理。ステータスの道理。


 数値の道理であり、関数の道理であり、計算の道理であり、数学の道理である。


 絶対的に覆せない道理。


 大きい方が勝つ道理。


 逃げ出せない道理。


 ──その道理に反して、両者は拮抗していた。


「ぐっ……!」


 暗黒は推測していた。


「……」


 首筋に刃を押しつけるようにして力を入れる。

 力を入れる。力を入れる。何日も何年も繰り返してきたように、朝も昼も夜も眠らずに積み重ねてきたように。なにも考えずにただ力を入れる。


 闘技場の『赤』は、そのあり得ない光景を前にして……驚くでもなく叫ぶでもなく。不安そうに、歯を食いしばりながら耐えて見守っていた。


 ただ静かに。


 ……暗黒は推測していた。


 あくまで、互角なだけ。


「うおおおおおおおおおお!!!!!」


 ルークは雄叫びを上げながら、全身の力を振り絞り、自分の首筋から剣を徐々に押し返していた。そしてそれは。


 夕陽を背に。


 そしてそれはその勢いを失わず、冗談のように、いともたやすく、綺麗な軌道を描いて──。


 暗黒の首筋に着地した。


 ……。


 ……瞬間。


「うおおおおおおおおおおお!!!!!!!」


 赤色たちが飛ぶ。散る。叫ぶ。弾ける。


「ルーク! よくやった!」

「ルーク様……!」

「いまの切り返せるのかよ!!!」

「す、すげえ!!!!」


 乱れて、あふれて、こぼれて、繋がって。

 声をともに、心をともに、意見をともにして、鮮やかにすばやく重なり合っては赤みを増してゆく。


「あ……。やめて。やめて」


 カラだけは青みが増して。


「殺めて、殺めて、ああやめて。なんて……ふふっ。気分がいいです」


 メフィストフェレスだけは黄色が増して。


「……」


 彼だけは。

 

 ──暗い意志だった。


 戻ってこれないような。

 もう笑えないような。

 暗い意志だった。


 信じられないほど重い剣だった。いくら力を入れても無駄で、抵抗しても無駄。積み重ねてきた、あの幾星霜もの努力。それが詰まった砂時計を叩き割られたように、脱力していく。


 黒い砂が。黒い努力が失われて。

 こぼれて、落ちて、こぼれ落ちて。

 そうやって、なにもかもが失われて。


 失われて。


 失われても。


 失われてもなお……黒い双眸は観察していた。


 暗黒はすでに諦めることをやめた。

 光をただ飲み込むことしかできなかった。


 ルークの本質は空虚。

 中身がなく、ゆえに何者にでもなれる心。

 だから周囲を惹きつける。だから縛られない。


 特徴もなく信念もなく立場もなく感性もなく。

 誕生もなく展望もなく本能もなく良心もなく。

 怨恨もなく執念もなく恩讐もなく本心もなく。

 終焉もなく後悔もなく過去もなく友情もなく。

 欲求もなく悲嘆もなく郷愁もなく懸念もなく。


 ゆえに何者にでもなれる心。


 ただの器。


 そう暗黒は推測していた。


 夕陽を背にする主人公の顔は、逆光で影になってもなお、はっきりと確認することができた。


 その顔は空虚ゆえ。

 劣等感もなければ優越感もなければ実感もなければ空しさもなければ成功もなければ失敗もなければ正義もなければ悪意もなければ過去もなければ未来もなくて。


 どんな状況でも絶対に勝ってきたから。


 いままでも勝ってきたから。


 強いと信じてきたから。


 強いはずだから。


 強いから。


 強者だから。


 強者だから。強者だから。


 強者だから強者だから強者だから。


 ……だから昨日と同じ表情だった。

 掴み切っていない勝利を映していた。

 目の前の暗黒ではなく、幻想を映していた。


 暗黒は勝利など映していない。

 見ているのは光だけ。

 相手だけを見て。


 そしてそれの意味するところは。


 それは。


 それはつまり。


 ──油断、していた。



            ♢



「カラ様……あなたはもうわたしたちに関わらないほうがいいかもしれませんね」

「やめて。やめて」


 メフィストフェレスは不思議だった。


「ご主人様と一緒にいるということは、こういうことなのですよ? 彼ははじめからこうするつもりだった。わかりますか?」


 気分がいい。隣にいる碧色の髪をした少女は、カタカタと全身を震わせ、両腕で自分を抱きしめるようにして縮こまっている。


 心の色が見える、ようだ。たしかに興味深い。もし自分が持っていたらさぞかし便利だろう。だがそんなものなくとも、自分にかかればどうとでもなる。


 折ればいいのだ。ひびの入った部分だけ探って、すこしだけ強めに握る。そうすれば完成する。


 カラは繊細な繊細な可愛いわたしの弱者。


 本来ならジョシュアもそうだった、はずだ。


 昨日の夜。

 彼の下へ向かったのは、彼がルークに手酷く敗北し、打ちのめされたことを聞いたからだった。

 

 プライドが高いだけの才能のない貴族が、平民上がりの一般人に闘いを挑んで、嘲笑され、この先なにがあろうと二度と立ち直れないほどの傷を負わされた。ということを聞いたからだった。


 以前よりこの学園のことは知っていた。

 魔族にとって、人間を侵略することを考えると、戦略的にもっとも不安な要素だからだった。魔族よりも魔族らしい、天災のような力を有する個人が多く輩出されている。


 そのため事前に情報を集めて。下見して、斥候として利用できそうな弱者を見つけたときには、あぁちょうどいいところにいた、と安心したものだ。


 だが実際に会ってみてどうだろう?


 見抜かれて、出し抜かれて、騙されて、欺かれて。

 完全に敗北した。敗北してしまった。


 知る由もない情報を知り、分り得るはずのない知識を使い……あげくにすべてを奪われてしまった。


「というかご主人様はどうして……」


 絶対にあり得ないことだった。


 彼の勝利など、起こり得ないはずだった。

 なぜ負けたのか考えても確信は持てなかった。


 そして今もだ。

 昨日、決定的に宿命づけられた敗北。


 一太刀も浴びせられなかったと聞いた。

 退屈そうな顔で振り払われていたと聞いた。

 鍔迫り合いなど、ましてや首にまで刃が届きつつあったなど。そんな話は聞かなかった。


 敗北直後にそこまで変化して、進化する。

 そんな話は聞かなかった。


 しかも彼は。


 メフィストフェレスは不思議だった。

 メフィストフェレスは不可解だった。

 メフィストフェレスは不気味だった。


 なぜ彼は能力を使おうとしない?

 

 

 


 


 


 

 

 

 


 


 

 

 

 

 


 

 

 

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