第三話 契約
「それと、キッシャー君をここに呼んでくれ」
しばらくしてトレンシャルの発した言葉にロイナンドは目を見張った。
「閣下、辞任なさるおつもりですか?」
ロイナンドは余計な事とは分かっていながらも聞かずにはいられなかった。まだ任期が3年も残っているのに、この時期に辞任するのは、少し早計な気がしたのだ。
「あぁ、このような悲惨な事件が起こってしまっては私がここに座り続けて良いはずがないからな」
そう言うトレンシャルの表情は、どこか別のところを遠望している様であった。ロイナンドにとってその表情は見慣れたものではあるが、同時に未だに恐怖を覚える表情でもあった。この人は自分とは違う。そのことがよく分かるからであった。だが、異論はどんな時でも誰かが主張せねばならない。首席補佐官となったときから自分に課せられた使命だから。
「しかしながら、私が言うのもなんですが、キッシャー執政官は未だ20代。外務次官、警安評議委員、国務次官補を歴任され、前年から民生大臣を務められているとはいえまだ早すぎるのではありませんか?私自身はあの方でも良いとは思います。ですが、他の方々、特に彼女自身が納得するとは思えません」
ロイナンドの本心ではない言葉だった。彼自身がそのことをよく分かっていた。本当は早すぎるのではなく、遅すぎると感じていた。まだ幼く、将来が夢の延長線上に存在していたころ、彼女と交わした約束がようやく目の前に示された。
「早すぎはせんよ…。それに今回のような事態では警安関係は勿論、外交も関わってくる可能性があるからな。それを経験している彼女だからこそこの席に座ってもらわねばならない」
彼が言ったことはおおかた真実であったが、それが全てでないことはロイナンドはすぐに分かった。トレンシャルは椅子に腰を下ろしながら不敵な笑みを浮かべた。
「なに、納得させてみせる」
トレンシャルには根拠のない自信があった。彼女があの真紅の瞳を未来に向けたまま快諾してくれる様子が、無意識のうちに彼の脳裏に予定として浮かんでいた。
「なるほど。ですがそれだけではないようですが。彼女に結合剤として働いてもらうおつもりですか?」
トレンシャルはロイナンドに微笑みかけた。弟子の回答を聞いて満足した様だ。
「合格だ」
「あまり嬉しくないですが、まぁ、それはさておいて。彼女が第二級市民だからですか?」
"第二級市民"という語を聞き、トレンシャルは少し不機嫌な色を浮かべ、俯き加減に呟いた。彼はこの言葉が、とても嫌いだった。
「そう、その通りだ。昔とは違って第二級市民がその存在と影響力を増大させてきている。執政院はおろか立法院でさえ、その八割以上を占めるに至った…。そんな中でこの事件だ。執政院内だけでなく、立法院、市民の協力が不可欠になってくるだろう。そんな時に、彼女にはそれらの結合剤としてまとめ上げ、この国を引っ張ってもらわねばならないのだ」
そこまで話し終えるとロイナンドは納得の表情をするとすぐに顔を曇らせた。
「どうした?まだ不安要素があるのか?」
「はい…。先程から閣下の話を伺っているとあたかもこの事故がただの自然災害ではなく、第三者の干渉を受けた政治的意図を持った反社会的騒動であり、しかも、最悪の場合戦争が起こると想定しておられる様ですが…」
「そうだが…それ以外に聞こえたのか?」
ロイナンドは赤面するしかなかった。まだまだこの人には敵わないな。敬意と自分の考えの甘さに苦笑しながらそう感じる。たった少しの情報からそこに行き着くのは、もはや超人の業であった。
ロイナンドの通信機器が階下にいる部下からの報告が入ったことを告げた。その内容を見てロイナンドは引き攣っていた表情を少し緩ませた。
「キッシャー執政官が到着した様ですので、私は隣室で控えております」
ロイナンドがそう告げるとトレンシャルは嫌味たっぷりな言葉を返した。報告してくれたことへの謝礼として。
「うん、緊急な要件が入ったら躊躇せず場をかき乱せ」
「嫌な言い方をなさいますね」
ロイナンドは笑うしかなかった。経験したことのない惨事の只中にあって緊張しすぎている自分を気遣ってくれているのがありがたかった。
「嫌なことついでに、一つ聞いておく」
「はい、なんでしょうか」
トレンシャルの質問にロイナンドは澱みなく答えた。自分の本心が答えだったから。トレンシャルも彼の答えを受け入れた。
「うん、よく分かった」
小鳥の唄を聴くまでは 藤原朝臣 @9b6d
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